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21. 変わりゆく気持ち

「諒。」

『実稀、何だよこんな時間に電話してくるなよ。俺明日早いんだから寝させてくれ。』

「まずい。俺、飲んで、その」


 一瞬の間を置いてから諒が叫ぶ。


『はあ!?まさか一人で飲んだのか?他の客に絡んだんじゃないだろうな!?お前いい加減にしないと』

「星野と飲んでたんだ。」

『え・・・まさか、お前』

「覚えてるんだ、今日は全部。星野に告白されて、俺が、その、キスしたことも。」


 それからしばらく無音の時間が続く。


「諒?」

『お前、ふざけるなよ。』


 諒の怒りを含んだ低い声が響く。


「・・・まずいことをした自覚はある。酔いも覚めてる。」

『衣織ちゃんには俺、お前が河野さんのことを好きって言ってあるから。』


 唐突な話に実稀は驚く。


「はあ?何でそんな話になってるんだ!?」

『俺は衣織ちゃんが好きなんだよ。お前のことなんかとっとと諦めて欲しかったんだ。どうせお前は衣織ちゃんの気持ちに応えるつもりはないんだろ?あの件をいつまでも引きずって、幸せにはならないって決めてるんだしな。」


 実稀はグッと言葉に詰まる。確かに以前諒にそんな話をした覚えがある。


『とにかく、今回のことは酔って忘れたことにしておけよ。彼女の告白もなかったことにすればいい。代わりに俺が慰めるからお前は口出しするな。』

「・・・」


 諒の言葉の何かが心に引っかかる。告白をなかったことにする?諒が慰める?俺は・・・


『俺は衣織ちゃんを絶対に諦めないから。いいか、中途半端な気持ちで衣織ちゃんに手を出すなよ。それともう彼女と飲みにも行くな。お前はこれまで通り、河野さんと付かず離れずの関係を楽しんでいればいい。とにかく衣織ちゃんを動揺させるようなことはしないでくれ。』


 諒は早口でそう捲し立てると、じゃあなと言ってさっさと電話を切ってしまった。


「何だよ、それ。」


 実稀は着替えもせずにベッドに仰向けになって倒れた。だが覚醒してしまった頭は、もう実稀を眠らせてはくれないようだった。


(星野が俺のことを好き?てっきり俺は諒のことを・・・)


 頭の中にぐるぐると回る彼女の言葉とキスの後のあの切なそうな表情が、実稀の心を無性に苛立たせる。


 なぜあれほど意識がしっかりしていたのに彼女にあんなことをしてしまったのか。なぜ彼女が諒に慰められる姿を見たくないと思うのか。


(俺はあの人を助けられなかった。恋愛なんかで浮かれていい人間じゃないとずっと思ってきた。でも・・・)


 ふと壁にある時計を見るとすでに朝の四時近くになっていた。


 実稀はベッドから起き上がると、シャワーを浴びて頭をスッキリさせようと、着替えも持たずにふらふらと部屋を出て浴室に向かった。



 ― ― ― ― ― 



 翌日衣織が買い物をするためアパートの外に出ると、そこにバイクと共に諒が立っていた。


「え、諒さん?」

「衣織ちゃん。」

「どうしたんですか?今日朝から出かけてたんですよね?」


 諒は黙って微笑みながら何やらビニール袋に入ったものを衣織に手渡した。


「うん。もう行ってきて、帰ってきたんだ。それはそこのお土産。お菓子なんだけど美味しいから、よかったら食べて。」

「ありがとうございます!このためにわざわざ?」


 衣織が不思議そうに諒の顔を見上げると、なぜか苦しげな表情の彼が衣織を見つめていた。


「会いたかったから。それは口実。」


 諒のその言葉に、衣織の心が揺れていく。そして昨夜のあの出来事をふと思い出し、目を軽く伏せた。


「諒さん、実はその、私・・・」

「ねえ、部屋に入れてよ。俺に話があるんだよね?聞くから。」

「でも」

「もう今さらでしょ。一度泊まったし。」

「誤解を生むような言い方はやめてください!」

「もう誤解なんてされない関係になればいいんじゃない?」

「・・・とにかく、中へどうぞ。」


 仕方ないから買い物は後で行こうとバッグを開き、ゴソゴソとキーケースを取り出す。そのまま部屋に戻って玄関の鍵を開け、諒を部屋に招き入れた。



 彼にクッションを勧めて適当に座ってもらうと、お茶を淹れ、貰ったお菓子をお皿に載せる。どうやら餡子の入った小さなお饅頭のようで、今淹れた濃いめの緑茶に合いそうだった。


「どうぞ。」

「ありがとう。」


 それから少しの間二人は黙々とお茶とお菓子でティータイムを楽しみ、衣織はわあ美味しい、と小さく呟く。そして諒はそんな衣織を愛おしそうに眺めながら、静かな声で話を切りだした。


「衣織ちゃん、もしかしてあいつに告白したの?」


 衣織は持っていた湯呑みをそっとテーブルに置いた。


「・・・はい。でも酔ってたから、実稀さんはもう忘れてると思います。」

「ふうん。で、それだけ?」


 相変わらず勘が鋭いな、と衣織は思う。悩んではみたが結局彼にはいつかバレてしまうような気がして、衣織は目を合わせない状態で昨日の出来事を言葉に詰まりながら話し始めた。


「それで、その、酔ってる実稀さんにキスされて。でもあんなの、あんな誰にでもするようなキスされても、本当に好きな人がいるのに最低だと思って。それに、そんなキスでも嬉しいって思ってる自分も最低だし・・・」


 諒はため息をついてから衣織の横に移動した。驚いて彼を見ていると、諒が言った。


「衣織ちゃんは最低じゃない。そんなことしたあいつが最低なんだ。衣織ちゃんはただ実稀のことが好きだっただけでしょ?そんなの当たり前だよ。」

「諒さん・・・」


 諒は衣織の手を握り、真剣な目で衣織を見つめて言葉を続けた。


「だから最低なんて言わないで。俺が心底好きになった人のことを悪く言わないで。衣織ちゃんは俺にとってたった一人の、特別な女の子だから。」


 その言葉に、衣織がこれまでずっとひた隠しにしてきた想いが溢れ出す。


(私、ずっと誰かの特別になりたかった)


 諒が言ってくれたことは、衣織がずっと誰かに言ってもらいたいと思っていた言葉だった。いじめられることがなくなってからも、衣織が誰かの大切な存在になることはなかった。いつだって自分は誰かと替えがきく存在だった。


(こんなに私のことを想ってくれる人はもう現れないかもしれない、こんなに一緒にいて心が安らぐ人も・・・)


 その想いが、涙となって頬をすうっと流れていく。


「ほら泣かないの。化粧が取れるよ?ちょっと待ってティッシュを」

「諒さん」

「ん?」

「私で、いいんですか?」


 諒の動きが止まる。ティッシュを掴もうとしていた手が、ゆっくりと衣織の肩に触れた。


「それ・・・俺と、付き合ってくれる、ってこと?」


 信じられないという表情で衣織をまじまじと見つめる諒の顔を、衣織は涙で濡れた顔のままじっと見つめた。


「すぐには、忘れられないかもしれないけど、いいですか?」


 その瞬間、諒は衣織をぎゅっと強く抱きしめた。華奢な体がより小さくなってしまうのではないかと思うほど強く包み込む。衣織は少し苦しくなって、胸に当たっていた手を軽く動かした。


「あ、ごめん、つい!」

「大丈夫、です。」


 諒は腕から衣織を解放すると、両腕に手を置いたままもう一度告白する。


「衣織ちゃん、好きだよ。衣織ちゃんじゃないと駄目なんだ。いつも一生懸命に頑張る衣織ちゃんが好きなんだ。忘れられないなら俺が頑張る。いつか俺を一番好きって思ってもらえるように。ねえ、本当に俺と付き合ってくれる?」


 衣織はもう迷わなかった。


「・・・はい。」


 諒の緊張していた顔が赤みを帯びて一気にほころぶ。


「嬉しい。うん。本当に嬉しい!」


 そう言うと彼はそっと衣織に唇を寄せた。それは昨夜の心が引き裂かれるようなキスではなく、優しく温かい、衣織のことを心から想ってくれていることが伝わるキスだった。



 ― ― ― ― ―



 その日の夜、仕事を終えた実稀が着信に気付き、諒に電話をかけ直した。数回のコール音の後、諒の声が聞こえた。


「諒、何か用だったか?」

『ああ。・・・俺、衣織ちゃんと付き合うことになったから。』

「・・・は?」


 実稀は今の言葉の意味が理解ができず、大きな声で聞き返す。


『言ったろ。俺はずっと衣織ちゃんのことが好きだったし、俺が慰めるって。もう昨夜のお前の誠意の無いキスは忘れてもらったから気にするな。まあ普通に従業員としてこれからも仲良くしてやってよ。それと、もう俺の彼女なんだからちょっかい出すなよ。じゃあ報告は以上。おつかれ。』

「おい、諒!?」


 諒は言うだけ言うとあっという間に電話を切ってしまった。


「・・・何だそれ。俺に告白して、翌日にもう諒と付き合うって決めたのか?」


 自分はどうするつもりもなかったくせに、衣織の気持ちを責めたい衝動に駆られる。俺を好きでいてくれたら・・・


(いてくれたら、何だ?俺は衣織のことを・・・いや、衣織って、そういえばどうして俺はずっと彼女の名前を呼び捨てにしてるんだ?)


 そしてふと衣織の顔を思い出す。百面相をしている顔、いつも真剣に掃除をしている姿、妖精達と幸せそうに話しているあの声、そして・・・


『実稀さん!』


(そうだ、彼女はずっと俺のことを見てくれていた。あの優しくて輝くような明るい笑顔で。でも俺はそれを当たり前だと思って、ずっとそこにあるものだと思っていたのか。ちっとも当たり前なんかじゃなかったのに・・・)


 だが今さら気付いてしまった自分の想いを、もうどうすることもできない。彼女はもう諒のもので、自分がぼんやりと彼女の好意を受け流しているうちにそれを失ってしまったのだ。


「何してるんだ俺は・・・」


 手に持っていたスマートフォンをカウンターの上に置くと、実稀は店の中を静かに飛び回る緑色の妖精、翠連が自分をじっと見つめていることに気付いた。


「君は知っていたんだな、彼女の気持ちを。そうか、知らなかったのは俺だけか。」


 翠連はキラキラとした光を振り撒きながら実稀の近くまで飛んでくる。だがその表情は少し悲しそうに見えた。まるで自分の気持ちが翠連とリンクしているかのようで、実稀の気持ちはさらに落ち込んでいく。


 これ以上翠連に悲しい気持ちを伝えたくなくて、実稀は手早く片付けを済ませると急いで店を出て家に帰っていった。


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