20. 忘れられない夜
諒とのデートの数日後、衣織はいつものように店に出勤し、いつものように働いていた。あれから諒は相変わらずで、特に衣織を避けることも逆に接近しすぎることもなかった。
ただ時々「まだ告白しないの?」と煽るようなことを言ってみたり、じーっと見つめている視線を感じたりすることはあった。
実稀はそんな二人の様子には全く気付かないようで、いつも通りの彼がいつも通りに淡々と業務をこなしている姿を見るだけだった。
「星野、ちょっといいか?」
「はい。」
そんなある日、実稀に呼ばれてカウンターに近づくと、彼は一枚の紙を衣織に手渡した。
「今からこの住所の家に行ってきてくれないか?お客様にお届けする予定の商品なんだが配送が間に合わない。幸いなことにここから近いし、今からなら余裕で間に合うだろう。俺はこの後お客様がここに来る予定があるから離れられないんだ。悪いが頼めるか?」
「はい、わかりました。」
衣織はその紙とカウンターの上に置いてあった箱を受け取る。住所を見ると、電車に乗って二駅ほど先にある町のようだった。
「駅からそんなに離れていないから徒歩で行けるだろう。割れ物ではないから安心してくれ。だからって落とすなよ?」
「はい、もちろんです!」
衣織が元気にそう答えると、実稀は思わずドキッとしてしまうあの笑顔を見せる。
「相変わらず返事はいいな。じゃあよろしく頼む。」
そう言って彼は奥の部屋へと入っていき、衣織は出かける準備を始めた。
荷物を抱えて店の外に出ると、午後早いその時間、外はまだかなり暑かった。帽子を被り日差しをあちこちの日陰でうまく避けながら何とか駅にたどり着く。
涼しい電車に揺られて移動し、再び暑い屋外に出て指定された家まで徒歩で向かう。無事に商品を渡し終えると、少し雲が増えて日差しの弱まった空に感謝しながら帰路に着いた。
三時前には店に戻ることができた衣織は、途中で購入したペットボトルのお茶で首元を冷やしながら店のドアを開けた。
「はあ、中は涼しい!実稀さん、戻りました・・・あ、申し訳ありません。お客様がいらっしゃったんですね。いらっしゃいませ。」
衣織が慌ててそう言うと、目の前にいた女性の客が振り返った。
(うわ、綺麗な人・・・)
ウェーブした髪を低い位置でゆるくまとめ、耳元には涼しげなピアスが揺れている。振り返った顔は、大きな目と長いまつ毛が印象的な清楚な美人で、口元にさりげなくあるほくろすらその完璧な容姿をさらに引き立てていた。
「あら、この方が新しい従業員さん?」
「ああ。星野、こちらは河野悠里さん。アンティーク家具のお店を経営されていてね。お父様の代からお世話になってるんだ。」
「初めまして。星野衣織です。」
悠里と呼ばれたその女性は、衣織ですら恋に落ちそうになるほど美しい笑顔を向けて言った。
「初めまして。お会いできて嬉しいわ。今までこの店に女性はいなかったから、また雰囲気が変わっていいんじゃないかしら。ね、実稀。」
「ああ。悠里はこの店にある家具を担当してくれてる。そう多くはないが、時々入れ替えるからな。家具のことで何か気になることがあれば彼女に相談してくれ。」
そう言うと、実稀はいつも以上に優しい笑顔で悠里と微笑み合った。衣織の心の中に、ざわざわとした何かが蠢きだす。
(へえ、名前を呼び捨てにしあう仲なんだ・・・)
「はい。河野さん、よろしくお願いします。」
「こちらこそ、これからよろしくお願いします。じゃあ実稀、私そろそろ帰るわね。あの傷は直ると思うけど念のため確認してみるわ。また連絡する。」
「悪いな。よろしく頼む。」
「ええ。それじゃあ星野さんも、また。」
「はい、お気をつけて。」
スタイルのいい彼女の後ろ姿を見送ると、隣にいた実稀の横顔にハッとさせられた。まるで愛おしい人との別れを惜しむように目を細めて悠里を見送るその表情は、衣織がそれまで一度も見たことのないものだった。
(もしかして彼女が、諒さんが言ってた人なのかな)
衣織はそれ以上実稀のその顔を見ていたくなくて、先ほど預かった住所の紙と受領書を実稀に渡すと、急いで奥の部屋へと逃げ込んだ。
あの表情はまさに諒の言っていた通りの顔だった。彼女のことを想っているのがよくわかった上、自分への態度と違うのもはっきりとわかった。泣きたくなる気持ちをグッと堪えて頬を叩き、気持ちを立て直す。
「よし、しっかり働かないと!」
衣織は拳を握りしめたまま、店の方へと戻っていった。
それからの数日間、衣織はミスを連発した。同じところを掃除したことでやり残しに気付かず叱られ、発送作業では住所の入力ミスを二回ほど起こし叱られ、挙げ句の果てには実稀が奥の部屋に置いていたカップを落として割ってしまうという有様だった。
「実稀さん、申し訳ありませんでした。あの、同じものを購入するか弁償します・・・」
実稀は肘掛けのついた椅子に腰掛け、肘をそこに載せたままため息をついて額に手を当てた。
「星野、最近ずっとおかしかったよな。何かあったのか?」
「・・・何でもありません。」
「何でもないのにこのミスの数々が引き起こされたのか?」
「申し訳ありません。」
「謝って欲しいんじゃない。そのカップだって別に大したものじゃないから弁償なんていいんだ。ただ何か困ったことがあるなら話してくれないと。このままミス続きでいいのか?」
衣織は言葉に詰まる。天地がひっくり返っても『実稀が好きだから』『この間来た女性のことが気になって』とは言えない。だが彼の前で嘘をつくのはもっと嫌だった。
「理由は言えません。ですが今後このようなことが無いようにします。本当に申し訳ありませんでした。」
とにかく今はしっかり反省しようと、衣織は深々と頭を下げて真剣に謝った。これでいつもの怖い顔で叱られて終わりだと、そう思っていた。だが返ってきたのは予想外の誘いの言葉だった。
「なあ星野。今日、飲みに行くか。」
「え?」
思わず顔を上げてしまってから後悔する。実稀の肩越しに、翠連がふわっと飛びながら微笑んでいる。まるで衣織に『ほら頑張っておいでよ』と言っているかのようだった。ああ妖精達には私の気持ちなんて丸わかりなんだろうなあ、とぼんやり考える。
「おい、聞いてるのか?」
「あ、はい。でも・・・」
「俺がそれなりに酔うから言いにくいことも話しやすいだろ?大丈夫。飲みすぎないようにセーブする。星野に迷惑はかけない。一度しっかり腹を割って話し合おう。」
真剣な表情でそう話す実稀に何も言えなくなり、衣織は渋々その提案を受け入れた。その代わり実稀の家の近くの店でとお願いする。
「もうあんな大変な思いをしたくないんで近場でお願いします。」
「ああ、その節はすまなかった。じゃあうちから徒歩三分の居酒屋にしよう。そこの店主なら俺も顔見知りだから飲みすぎることもないだろう。」
かくして二人はその夜急遽、飲みに行くこととなった。
「で、結局寝てるし。」
そして現在、小上がりにて実稀はしっかりと眠ってしまっている。衣織はチビチビと日本酒を飲んでいたが、途中で飽きてしまい現在はワインをボトルで飲んでいる。
しばらくはとりとめのない話をしながら二人で飲んでいたが、一時間もすると目の前の人が眠ってしまったので、仕方なく店の主人と時々会話をしながら時間を潰していた。
「はあ。諒さんでも呼ぼうかなあ。まだ起きないかなあ。」
「実稀ちゃんはあと二十分は起きないなきっと。これ、サービスだよ。大変だねえ君も。」
「わー嬉しい!いいんですか?」
目の前に美味しそうなチーズとクラッカーが載った皿がやってきて、衣織のテンションが上がる。
「いつも実稀ちゃんにはお世話になってるからね。まあ普段彼は酒、飲まないけど。飲むと面倒なんだよこの人は!」
「あはは。本当にそうですね。」
店主が奥に戻っていくと、衣織は実稀が脱いでいたジャケットを彼の肩に掛けた。エアコンが効いていて少し肌寒い。
すると彼はふっと目を覚まし、ムクっと起き上がった。
「実稀さん、もう帰りますか?私今おつまみ貰っちゃったんで、このワイン空けたら帰ります。よかったら先に帰っていてください。」
「いおり!」
「ふぁい!?」
突然名前を呼ばれ、衣織は持っていたチーズをテーブルに落とした。
「何ですか突然!びっくりするじゃないですか!」
「俺に言えないことなのかあ?この前もいろいろ話しただろ。何で言えないんだ!俺を信頼できないのかー?」
酔っ払いは面倒だなとつくづく感じながら、衣織は実稀の前に水の入ったコップを置き、飲んでくださいと促した。
「いおりは大事なことは俺には言わない。諒には何でも話してるんだろ?あいつと付き合ってるのか?まあそれならそれでいいが、俺だって話くらい聞ける!俺には言えないことなのか?」
頭をゆらゆらさせながらそう話す実稀を見て、衣織は一つ大きく息を吐き出してから、言った。
「じゃあ言ってもいいんですか?私が・・・実稀さんのことが好きだって。それを言ったら困るのは実稀さんですよね?あの人のことを想ってる実稀さんに、私ができることなんて何もないのに・・・」
最後はほぼ独り言のようにそう言うと、衣織は残っていたワインをグラスいっぱいに注ぎ、一気に飲み干した。
「どうせこのことも明日には忘れちゃうんでしょう?いや忘れてくれないと困るか。ほら、起きたなら帰りますよ。私今夜はゆっくり寝たいんです。もうこれ以上酔っ払いに付き合っていられません!」
「うーん。いおりい、もう一軒飲みに行こう!」
「行くわけないでしょ!お酒弱いのに訳のわからないこと言わないでください。ほら立って!すみませーん、お会計お願いします!」
そして衣織は無理やり実稀を立たせると、支払いを済ませて店を出た。マンションはすぐ側に見える位置にあるので、今日は安心して帰れそうだと安堵しながら実稀を引っ張って歩く。
何とかエントランスまで彼を連れてくることができた衣織は、バッグを肩に掛け直すと実稀に向き合った。
「じゃあ、私はこれで。」
「いおり」
「はあ。何ですか?もう着いたんですから早く部屋に戻って」
それは、一瞬のことだった。
実稀の顔が近付き、何かが唇に触れる。
一度ではなく何度も何度もその柔らかい何かが触れては離れ、最後に強く押しつけられる感触が訪れた後、それは唐突に終わった。
「いおり、俺のこと、好きなのか?」
見上げた先にあったその目は、先ほどまでの虚ろなものではもう無かった。
「・・・最低。」
衣織はドンと実稀の胸を手で強く押して体を離すと、走ってその場から逃げ出した。
「何あれ最低、本当に最低!!」
酔っ払っていた彼にキスされたことも、きっと彼が明日にはそれを忘れてしまうだろうことも、そしてそれでもあのキスを嬉しく感じている自分にも腹が立って、衣織はひたすら走って家に帰った。
その日の夜、衣織はあのオルゴールを見えない場所にしまい込んでからベッドに突っ伏して眠り、そのまま昼近くまで目を覚ますことはなかった。




