11. 側にいるのは
六月に入り、暑い日と雨で冷える日が何日かずつ交互に訪れていた。そのせいか衣織はここ数日少し体調を崩していた。
だが仕事は掃除以外特に大変なこともなく、商品の発送作業の手伝いや最近店に増えてきた妖精達の様子をチェックして報告する程度でそれほど体も辛くなかったので、薬と栄養剤を飲み、マスクをして出勤していた。
ところが前日の帰り道、傘が壊れて体を濡らしてしまったせいで、ついにその日の朝は熱を出してしまった。
(三十七度七分・・・薬を飲めばギリギリいけるかな?明日は木曜だし)
朝ギリギリに起きたこともあり、衣織はパンを一つ口に放り込んで牛乳を飲むと、薬とマスクを準備して急いで出勤した。
店にはいつものように妖精達しかおらず諒も休みだったようで、店内にはしばらく穏やかな時間が流れていた。
だが掃除を終えると少し熱が上がってきてしまい、解熱剤を飲むため衣織は奥の部屋に向かった。
コップに水を入れ、バッグの中の薬を探す。だが朦朧とした意識で手元がよくわからなくなり、持ってきていたはずの薬はいつまで経っても見つからなかった。
「はあ、はあ。薬、どこー?」
衣織がぶつぶつ言いながら薬を探していると、ドアがガチャっと開いた。
「おはよう。ん?星野、どうしたんだ?」
実稀が、衣織の様子がおかしいことに気付く。
「あ、実稀さん、おはようございます。あの、ちょっと解熱剤を探してて、見つからなくて・・・」
「星野。ここ数日体調が悪そうだったな。どうしてそんなに具合が悪かったのに俺に連絡しなかったんだ。」
熱が上がってきている中、彼の言葉も、その怖い顔も、今はまともに認識できない。ただ、自分が今責められているのだということは、その後の彼の言葉から十分理解できた。
「いいか、妖精達は人間の精神に敏感なんだ。無理をしてそんな状態で店に来られても、お客様にはもちろん、妖精達にも迷惑が掛かるんだ。」
「・・・申し訳ありません。」
衣織は何も言い返す言葉がなく、ただ項垂れるしかなかった。そして自分を気遣う言葉を実稀から一切もらえなかったことに、弱った心は大きなショックを受けていた。
「わかったら今日は家に帰って休め。今から俺が送って」
「結構です。」
「星野?」
「近いですからこのまま帰ります。申し訳ありませんでした。」
「おい、星野!」
衣織は薬を探していたバッグを掴み、実稀の呼びかけを振り切って急いで店を出た。フラフラする頭を無理やりシャキッとさせるため頬を何度か叩き、雨の降り始めた道を傘も差さずに走って帰宅する。
家に入るとシャツは雨に濡れてびしょびしょになっていた。急いで着替えを済ませ、お湯を沸かして温かいお茶を飲む。
だが体はなかなか温まらず、これはまずいとバッグをひっくり返して解熱剤を見つけると、朝食べたパンの残りを一口齧って薬を飲んだ。
(うう、辛い・・・体もだけど、さっきの実稀さんの冷たさが・・・)
自分が体調管理できていなかったことが悪いのはわかっている。それでも具合が悪い時に受けたあの冷たさは、衣織の心に深い傷を残した。少し前に彼と過ごした楽しかった時間を思い出し、余計にその傷口が広がっていく。
憂鬱になりながら冷蔵庫を開けると、卵と牛乳しかないことに気付きさらに絶望する。
「無理・・・寝るしかないか。」
衣織はメイクも落とさず髪もほどかず、倒れ込むようにベッドに入り、あっという間に眠ってしまった。
それから二時間後。衣織は枕元で鳴り響く着信音に気付いて目を覚ました。電話に出ると、それは諒だった。
「はい・・・」
『衣織ちゃん?俺、諒だけど、大丈夫?今たまたま店に寄ったらさ、衣織ちゃんが体調悪くて家に帰ったって実稀が・・・おーい、大丈夫?』
「大丈夫、です。」
『全然大丈夫じゃないね。俺今から行くから。住所は実稀に聞くけど、後で玄関の鍵だけは開けて。』
衣織はじっと玄関を見つめた。
「放っておいてください。平気です。私・・・迷惑かけちゃうから。」
『絶対に行く。待ってて。』
衣織が断りの言葉を言う前に電話は切られ、衣織は力が抜けてスマートフォンをベッドの下に落とした。
(もう、よくわからない・・・)
解熱剤があまり効いていないのか、寒さで震えが起こる。だが体温計を持ってくる気力もなく、布団の中で再び眠気が襲ってくるのを待っていた。
十五分ほど経った頃チャイムが鳴り、衣織は体をゆっくりと起こした。鍵を開けないと、と思いながらもそこから動けない。だがなぜかドアは開き、諒が真っ青な顔で衣織の側まで駆け寄ってきた。
「衣織ちゃん!?顔、真っ赤だよ!病院に行こう!」
衣織は首を振る。
「鍵、閉め忘れて・・・ごめんなさい、移したくないから、帰って、ください・・・迷惑かけたくない。」
そう言って彼の体を力無く手で突き放そうとした瞬間、諒が突然衣織を抱きしめた。
「迷惑なんかじゃない!心配してるんだ!実稀に何言われたか知らないけど、衣織ちゃんが元気になってくれないと俺は心配で帰れない!病院が嫌ならベッドに横になって、大人しく俺に看病されてて!!」
諒の心配が、その腕から、声から伝わってくる。衣織の目に涙が浮かんだ。
(ああ、こんな風に彼にも心配してもらいたかったのかな)
「・・・ごめんなさい。」
「謝らないでよ。ほら、今頭冷やしてあげるから、待ってて?」
それから諒は甲斐甲斐しく衣織の看病をしてくれた。額に冷たいタオルを載せ、途中お粥を作って食べさせてくれ、着替えまで準備してくれた。
「じゃあ、あとは寝るだけ。大丈夫、俺が側にいるから。ゆっくり休んで。」
「諒さん、ありがとう・・・」
諒は困ったような顔で微笑む。その優しさが今は心に沁みる。
「いいからほら、寝る寝る。しっかり寝ないと治らないよ。」
「はい。」
そうして衣織は近くに背を向けて座る彼の存在に安心感をもらいながら、深い眠りの中に落ちていった。
次に衣織が目を覚ましたのは夕方の六時頃だった。喉の渇きで目を覚まし、ベッドから体を起こし、部屋の中に諒がまだいてくれたことに驚いて声を上げた。
「諒さん!?」
「んー、衣織ちゃん、起きた?」
「どうして、こんな時間まで・・・」
諒の手が衣織の額に伸びる。
「うん、熱はだいぶ下がったね。でもまだ寝てないと駄目だよ。」
「諒さん、あの」
「もしかして喉乾いた?声がさがさだよ。ちょっと待ってて。」
「諒さん!」
諒は後ろを向いたまま立っている。部屋はぼんやりと外の光を取り込んでいるが、既にかなり薄暗くなっていた。
「衣織ちゃん、ごめん。今日は側に居させて欲しい。俺、心配で帰れないよ。」
「・・・じゃあせめてブランケット掛けてください。クローゼットの、下の方に入ってますから。」
「うん、わかった。今日は経口補水液、常温で飲んで。」
諒はガサゴソと、持ってきた袋の中からペットボトルを出す。衣織はそれを受け取ると頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。」
「畏まらないでよ。いいから飲んで。」
ペットボトルを持つ衣織の手を、諒がそっと上から握った。
「ゆっくりでいいから少しずつ。」
衣織は添えられた手をありがたく感じながら、それを少しずつ飲んでいく。半分ほど飲むと、そのペットボトルは諒に回収された。
「もう少し寝て。大丈夫、俺もブランケット借りて寝るから。」
「寒くないですか?」
「・・・衣織ちゃんは優しいな。平気。ほら、おやすみ。」
「おやすみなさい。」
そして、翌朝を迎えた。日はまだ昇っておらず、部屋の中は常夜灯の灯りだけがポツンと点いていた。
ふと部屋を見ると諒はまだそこに居て、衣織は心苦しくなる。ベッドに掛かった彼の手が、衣織のことを本当に心配してくれていたのだと証明している気がした。
ぐっすりと眠っている彼を起こさないようそっとトイレに行って戻ってくる。再びペットボトルの水を飲んでベッドに入ろうとした時、下に置いてあった座布団の端に足を取られて転びそうになる。
「おっと!」
「ご、ごめんなさい!」
転倒しかけた衣織を、諒が支える。起きていたのかとぼんやり考えていると、そのまま彼の腕の中に包まれた。
「こんな時じゃなかったら・・・」
「え?」
「何でもない。お腹すいた?」
諒は衣織をゆっくりと離し、その場に座らせた。
「あ、はい・・・」
「だよね。昨夜食べてないしね。うどん作るから待ってて。」
「・・・はい。」
彼がその時何を言おうとしたのか、その働かない頭ではよくわからなかった。だが何となくそれ以上聞いてはいけないことのような気がして、衣織はベッドに寄りかかってそっと目を閉じた。




