1. どん底からの再スタート
春の柔らかい日差しが降り注ぎ、桜がその蕾をゆっくりと開花させ始めた頃、星野衣織は路頭に迷っていた。
「ごめんねえ、せっかくうちでしばらく頑張ってもらおうと思ってたんだけどねえ。お父さんがあんな状態だし、私一人じゃとても・・・。」
「お気になさらないでください!仕方ないことですから。また仕事は探します。むしろ今までありがとうございました!」
「どこかあてはあるの?何なら知り合いのところを紹介しようか?」
衣織は笑顔でゆっくりと首を振った。
「いえ、大丈夫です。何とか自力で探してみます。それよりも今はご主人のことを一番に考えてあげてください。」
「そう?無理はしないでね。困ったらいつでも連絡してね。」
衣織はこの日、今のアルバイト先である近所の弁当屋の仕事をたった二ヶ月で失ってしまった。
(会社は倒産、せっかく見つけたアルバイト先も店主の入院で休業。はああ、来月からどうしよう・・・)
トボトボと肩を落として家に帰る途中、ふといつもは通らない路地の奥に意識が向く。
夕方の薄暗い路地、電信柱に取り付けられた電灯もまだ点灯していない。だがその突き当たりの壁に貼られた小さな紙に書かれた文字だけが、衣織の目に明るく、はっきりと映った。
『アルバイト急募!高時給!すぐ働きたい方、即時採用します!【桐生雑貨店】→この先20m』
「これだ!」
衣織は一直線にその紙の貼ってある場所まで走っていくと、書かれている矢印の方に目を向けた。その壁の並びに何件か小さな商店が並んでいたが、その中の一件、古びた喫茶店のような外観の建物に視線が吸い寄せられた。
所々剥がれたレンガ調の外壁に、二階まで絡まるように這うツタの葉が目に留まる。入り口は渋い焦茶色の木製のドアで、その上部には磨りガラスが入っている。
(中はよく見えないけど、やっているみたいね)
【OPEN】と書かれたプレートが少し斜めに掛けられていることに気付くと、衣織は意を決してそのドアを開けた。
「いらっしゃいませ。」
その声は低く、優しく、少し色気を感じるとても良い声で、衣織はちょうどドアの真正面にあるカウンターの奥にいた声の主を、思わずじっと見つめてしまった。
ふわっと崩している少し癖のある黒い髪、切長の奥二重の目には長いまつ毛が揺れている。口角が少し上がり、控えめな微笑みが衣織の視線を奪っていく。
「お客様、どうかされましたか?」
ノーネクタイの白いシャツに黒っぽい色のパンツとベストを合わせたスタイルの良い男性が、優しく衣織に声をかけてくる。
(ああ、紳士!そしていい声!あ、そうじゃない、アルバイトの件を聞かないと!)
衣織は慌てて頭を下げると、先ほど紙を見つけた方向を指差しながら用件を伝えた。
「初めまして、お忙しいところすみません。先ほど少し手前の壁に貼ってあった『アルバイト急募』という紙を拝見しまして、もしまだ募集しているようであればぜひ、面接を・・・」
目の前にいる男性の表情がどんどん怖い顔に変わっていく。それにつれ衣織の声もどんどん小さくなり、最後は声も出せなくなってその場で固まってしまった。
「おい、本気で言ってるのか!?」
先ほどまでの紳士な雰囲気は跡形もなくなり、何も悪いことをしたつもりはないのに怒鳴られていることに驚く。
(な、なんでこんなに怒られなきゃいけないの?じゃあなんであそこにそんな紙を貼ったのよ!?)
衣織は怯えながらも「自分に落ち度は無いはず」と気持ちを奮い立たせ、全力で声を出して自分をアピールする。
「もちろん本気です!!あ、でも今見かけたばかりなので履歴書とかはまだ何も準備はしていません、ですが・・・」
店主らしきその男性はなぜかわからないがさらに怖い顔になっていく。もう駄目かと諦めかけたその時、奥のドアからまた別の男性がにこやかに現れた。
「すごいね!まさか本当に見つかるとは。実稀、そんな顔してるとせっかくの貴重な人材に逃げられるぞ。」
「わかってる!だが万が一間違いとか冷やかしだったら・・・」
奥から現れたその人は、さらさらとした茶色い髪がよく似合う、笑顔が爽やかで優しそうな男性だった。彼は楽しげに笑って言った。
「あはは!それはないない!だってそもそもあの紙を読めた人は今まで一人もいなかったじゃないか。ほら、お姉さん怖がってるんだからその顔はやめろ。」
「わかってる!」
目の前で繰り広げられている見目麗しい二人の男性の意味不明な会話に、衣織はぽかんとしながら次の展開を待っていた。
するとふいに目の端の方で何かが動く気配を感じて斜め後ろを振り向く。
「え?今の、何?」
「へえ、やっぱり見えるんだ。いいね!これは合格だろ、間違いなく。」
うーん、と唸るように衣織を睨むと、黒髪の男性はさらに低くなった声で尋ねた。
「・・・君、名前は?」
「星野衣織、です。」
「今の、見えたのか?」
「何か動いたのは見えましたけど、具体的に何だったかまではちょっと・・・このお店には何か動物がいるんですか?」
一人は微笑み、もう一人は顔を顰める。男性二人は対照的な表情で目を見合わせた。茶色い髪の男性が笑顔のまま顔を向けてその疑問に答えた。
「動物じゃないよ。あれは、妖精なんだ。」
衣織の思考が、一瞬停止した。
「・・・はい?」
「まあ、信じないのも無理はないか。じゃあ百聞は一見にしかず。後ろ、見てみたら?」
その言葉に恐る恐る後ろを振り向くと、壁際に置いてある大きな棚の上に、淡い光を放ちながら飛び交う羽根のついた手のひらサイズの何かが、衣織の顔をチラチラと眺めているのが見えた。
「え、な、何?人形じゃ、ない!?」
見たこともないその生き物らしき何かに、衣織は目が釘付けになる。
実稀、と呼ばれていた黒髪の男性が、少し表情を和らげて衣織に近づいてきて、言った。
「そうだ、人形じゃない。彼らはいわゆる妖精ってやつだ。ただこの世界の妖精じゃないから見える人はごく僅かしかいないけどな。確かに君は素質はあるようだが、どうする?こんな奇妙な店で本当に働きたいと今でも思えるか?」
その言い草はまるで早く断れと言っているようにも思えた。衣織はキュッと下唇を噛み、見上げるような位置にある彼の目をキッと睨みながら宣言した。
「ぜひ働かせてください!!奇妙だろうが大変だろうが、何でもやります!!どうかよろしくお願いします!!」
言うだけ言った後、睨んでしまったことはさすがにまずかったかと思い、慌てて頭を下げた。しばらくの間怖くて頭を上げられずじっとその態勢で返事を待っていると、大きなため息に続いて渋々という感じの答えが返ってきた。
「わかった。細かい話は明日しよう。今日はもうこの後店を閉めなきゃならない。明日午前十時にここにもう一度来てくれ。履歴書も念のため頼む。」
衣織はパッと顔を上げた。
「あ、ありがとうございます!!必ず明日お伺いします!よろしくお願いします!!」
「・・・ああ。俺は桐生実稀、この店の店主だ。よろしく。」
「はい!」
実稀は最後まで渋い顔を崩さなかったが、新たな仕事をどうにか死守した衣織にとって、そんなことは些細なことだった。
(とにかく仕事!仕事よ、衣織!)
この時の衣織は職なし生活からの脱却を喜ぶばかりで、この後に待ち受けている騒がしくて楽しくて困難な生活のことなど、この時は何一つ想像できていなかった。
ゆっくり更新します。よろしくお願いします。