第23話 あるエージェントの回想
――2ヶ月前。
『だから、オレは本当に見たんだよ! あの化け物がデコピンだけでヤスを一瞬で気絶させるところを!』
『あー、わかったわかった。それでだな――』
壁の一角に巨大なスクリーンが張られた薄暗い会議室。
そこに写し出された映像、それは1年半前に起きた生徒強姦未遂事件の容疑者である元中学校講師の梶原が警察に取り調べを受けているものだった。
梶原は必死に自分が見たもの、体験したことを話すが刑事はまるで相手にしない。
それは当然のことだろう。
常識的に考えて当時14歳の子供が大の大人を何の道具も使わず、額を指で叩いただけで気絶させられるはずがないのだから。
『本当なのよ! 扉が氷で覆われて、それで外へ出られなかったのよ!』
『はいはい、わかりました。それで――』
次に映し出されたのは被害者の母親で犯行に加担していた藤澤美香が取り調べを受けている映像だった。
こちらも同様に刑事はまるで相手にしていない。
これに関してもその対応は当然のことのように思えた。
高さ2.5メートル、幅1.5メートルの扉を氷漬けにするなんて現実的にあり得ない。
故に警察は彼らが酔って幻覚を見ていたのだと断定するのは当然のことに思えた。
それを最後にプロジェクターから光が消え、スクリーンは元の無地な白へと変わる。
「それで、こんなものをわたしに見せてどうしたいわけ?」
部屋に明かりが戻ると、光沢感のある金色のストレートヘアーの少女は対面に座る黒いスーツを着た男にやや不機嫌そうに話す。
それは少女のこれまでのスケジュールを考えれば当然のことのように見えた。
長期間に渡る外国に派遣されての特殊任務を終わらせて、ようやく帰国できた直後に突然呼び出されてこんな怪映像を見せられたのだ。不満のひとつも言いたくなるだろう。
「まあまあ、話は最後まで聞いておくれよ」
そんな少女に黒スーツの男は宥めるように言うと、鞄から茶色い封筒を取り出して、それを渡す。
少女が封筒の封を切ると、その中にはここ数ヶ月の間に捕縛された外国のエージェント、並びに彼らに雇われたのであろう傭兵、あるいは孫請にされた暴力団員のリストが書かれてある。
それを見て少女の顔つきが真剣なものへと変わった。
「わたしが日本を離れている間に何か特別な作戦でも行ったのかしら?」
「いいや、我々は殆ど何もしてない。やったことと言えば多少の情報操作と移送を行ったくらいだ」
「なら一体誰がこいつらを捕縛したというの?」
少女の問いに黒スーツの男は再びプロジェクターを動かしてスクリーンに映像を投影する。
それは銃火器で武装した4人の外国人傭兵が何かしらの作戦を行っているところを撮影した動画だった。
「これは今から3週間ほど前に監視カメラが撮影したものだ。彼らは某国政府のエージェントに雇われており、作戦実行時には周囲の監視機器に偽の映像を差し込んでいたため、我々も気づくのに時間がかかってしまった」
「随分なヘマをしたものね」
「それについては本当に申し開きようがない。ただこの動画を君に見せるのは単に我々の間抜けぶりを晒すためだけではないんだ」
「でしょうね。さ、続きを再生して」
少女に促されて黒スーツの男は説明のために一時停止していた動画を再び再生する。
それなりに場数を踏んできたのだろう、男たちは慣れた様子で展開する。
そこで少女は肝心なことを聞いていないことに気づく。
「今さらだけど彼らは何を目的としていたの? 武装を見た感じ誰かの警護か暗殺目的のようだけど……」
「いいや、そのどちらでもない。彼らの目的は誘拐だ」
「……これだけの重武装をしておいて誘拐?」
「ま、詳しいことはこの続きを見れば分かるさ」
映像の中で各々の持ち場についた男はじっと誰かを待つ。
現れたのは学ランタイプの制服を着て、片手にスーパーのレジ袋をぶらさげた一般的な日本の男子中学生だった。
その体格も大柄でもなければ小柄でもなく、太っているわけでもなければ痩せているわけではない、日本人としてごくごく平均的な少年。
それを見て先行していた指揮官らしき男が後方に控える仲間にハンドサインを送り、確保に動こうとしたその時。
「……!?」
少年はまるでテレポートでもしたかのように超速で男の背後を取ると、何の苦もなくアスファルトへ引き倒す。
目の前で起きた異常事態に、後方に控えていた男は咄嗟に拳銃を抜いて銃口を少年に向けるが、何故かそのトリガーを引こうとしない。
直後、突然その場に倒れた男はまるで何かにもがき苦しむかのように足掻き苦しむと、やがて気絶してしまう。
一方、高所でスナイパーライフルを構えていた別の男は少年を狙い撃とうと試みる。
そして引き金に手をかけようとした瞬間、男が持っていたライフルは何の前触れもなく彼の半身ごと氷に覆われた。
仲間に起きた異常事態に恐怖したのか、あるいは何かしらの指示を受けたのだろうか。
最後尾に控えていた若い男が必死の形相で逃げ出そうとする。
しかし男は一歩も前に進むことなく、ただその場で走っているかのように振る舞う。
やがて男は拳銃をコンクリートの壁に全弾を発射すると、力つきたかのように崩れ落ちた。
最初に指揮官の男を引きずり倒した場所から一歩も移動していなかった少年は、全員が気絶したことを確認すると彼らを一箇所に集める。
そして少年が彼らに手をかざすと、男たちが受けた傷や氷はまるで最初から何事も無かったかのように消え失せた。
少年は何処からか取り出したロープで男たちを固く拘束すると、画面の外へ移動する。
映像はそこで終わっていた。
「さて、これを見て君はどう思った?」
「正直に言って低級なホラー映画、それかアクション映画か何かと思ったわ。でもこれは現実で起きたことなのよね」
「その通り。あの超常的な能力を持った少年は確かに存在する」
そう言うと黒スーツの男は映像を逆再生し、件の少年が氷を出現させるところで一時停止する。
「既存のあらゆる魔法とも超能力とも異なる未知の力、それを欲しない国や組織なんて存在しない。だがそのいずれもが少年を奪取することに失敗した。彼の持つ力によってね」
「まさかさっきのリストは……」
「お察しの通り、全てこの少年に返り討ちにされた者だよ」
少女はそのあまりに非現実的な話にめまいを感じた。
魔法や超能力といったファンタジーめいたものが実在することを彼女は知っているし、その目で実際に見たこともある。
だけどこれは話が別だ。
リストの中にはこれ以上に重武装を施した者もいれば、魔法や超能力を専門とする者もいる。
そんな彼らを一方的に相手取ることができる者がいるとすれば、それは――。
「もう一度聞くわ。わたしに一体何をさせたいの? まさか彼らの二の舞になれと」
「それこそまさかの話だ。君を育て上げるために我々が、日本国がどれだけのコストを支払ったか」
黒スーツの男は少女に渡していたリストの最下部、計125人という部分を囲うように持っていたペンで大きな丸を描く。
「孫請にされた木っ端のヤクザ者、或いはそういった組織とも関わりのない単純な私怨で襲った者も含まれているが、それでもかなりの数のエージェントが我々によって捕縛された。賢明な判断能力を持つ国や組織は実力行使で奪いにくることはもうしないだろうし、そもそも実行することすらできないだろう」
「だけど奪おうとすること自体はやめないと?」
「ああ、これから奴らは少年を全力で籠絡しようとしてくる。君にはその羽虫共の駆除を頼みたい」
「この少年を殺そうとはしないのね」
「それが不可能なのはこの125人が証明してくれているよ」
少女は目の前の黒スーツの男が自分に何をさせようとしているのかを察して、大きく息を吐く。
「で、どういったシナリオで近づかせるの?」
「この少年が進学予定の高校に転入して、可能な限り彼を見張ってくれればいい。もし近付く羽虫がいれば、その時は容赦なく処分してくれたまえ」
そう言って男は少女に書類の束を渡す。
それは今後3年間、少女がなりきることになる人間の設定だった。
「ではこれからの3年間よろしく頼むよ、『アリシア・加守』」
「ええ、なるべく努力はするわ。『平田』さん」