私の可愛い妖精さん
「すまない。婚約を無かった事にしてもらえないだろうか」
久しぶりの顔合わせで彼は私にそう言った。なにより驚いたのは、初めて見る彼の満面の笑顔。
ガツンと頭と心に衝撃を受けて、その場に倒れない様にするだけで精一杯だった。
「わ、若?」
慌てたのは控えていた侍従や侍女だろう。彼は侍従と侍女に言い聞かせるように。
「私はどこもおかしくなっていないよ?
それで、グレース返事を聞かせてもらえないだろうか?」
蒼白になった私は俯向きながら、向かいに座っている彼に掠れた声で問う。スカートを握りしめた手は白い。
「私になにか落ち度でも?」
「いや…落ち度というなら私だ。私は真実の愛を見つけたんだ」
「し、真実の愛ですか…」
シン…と針を落としても聞こえる静けさが広かった。私の中で痺れる程の時間が過ぎ、ふっと息を吐く。そして真っ直ぐに彼を見つめて伝えた。
「私の父にお話しして下さいませ。それでは失礼致します」
「何故?君の父君に。この婚姻は君が…」
「いいえ。いいえアイン様。私も父も望んでおりませんでした。アイン様の祖父であるシュバルツ侯爵閣下からの直々のお話でお断りする事は叶いませんでした…ですから、アイン様から父やシュバルツ侯爵閣下へ説明して頂きとうございます。そして、その結果を私はただ聞くだけでございます」
顔色を変えるアイン様を残して、私はシュバルツ侯爵邸を後にした。
我が家に帰る馬車の中、頬が濡れて冷たかった。10歳で婚約してから7年、けして短くはない婚約期間の中で、アイン様と私は親愛や信頼を育てていたと思っていたのは私だけのようだった。
まぁいいか、もう色々と考えたって、私にはどうにもならない。
これで私の貴族令嬢としてのキャリアは完全に終わった。残りの人生は、修道院かそれとも年の離れた爵位持ちの後妻か。
閉ざされた自分の未来に、冷たい箱の中にすっぽりと全身浸かっているようだ。
凍えるように寒い。体の芯から寒くて震える、寒くて寒くて自分を抱きしめても温もりは戻らなかった。
父にアイン様からの婚約白紙の話を伝えると、そうかと呟き机から2枚の釣書を渡された。母が亡くなりそれから父は仕事にのめり込んだ、いつ以来だろう父とまともに話すのは。
「これは…」
「次の婚約者候補だ。実は最近申し込まれてきていたんだが、タイミングが良すぎる。きっとシュバルツ侯爵閣下が手を回しているのだろうな。グレースどちらを選んでも選ばなくても構わん」
「お父様」
「格下の伯爵家だからと言って、貴族が約束を違えて何をしても良い訳ではないからな。
まぁ疲れただろう、今日は早く休め話は明日だ」
「はい…お父様。ありがとうございます」
婚約白紙と父と久しぶりに話したのもあり今日はクタクタだ。部屋に戻り侍女を下げて、早速2枚の釣書を開いてみた。
1枚目はスラリとした青年が、立体水晶に投影され部屋に幻体が浮かび上がる。クルクルとどの角度でも眺める事が出来る。
2枚目はガッシリと逞しい男性だった。はっと目を引く立ち姿といい、流石シュバルツ侯爵閣下、随分と手際の良い事。
幻体に手を触れるとその人の経歴が読み取れる。
ユージン・ロクサーリング、23歳、伯爵家次男。騎士団所属。黒目黒髪の褐色の肌とガッシリと逞しい体。そういえば、たしかロクサーリング伯爵の2番目の奥様は異国のお姫様と聞いた事がある。
異国のお姫様、とても素敵な響きだ。
修道院へ行くにしろ、年配の後妻になるにしろ、異国の血を引く素敵な彼を見てからでもいいかなと思ってしまった。
この時は全く現実感もなく、他人事のように思ってしまった。
「ユージン・ロクサーリングだ」
「グレース・サクリーと申します」
圧巻の一言に尽きる。見上げる程大きな彼からは野生の香りがする。鋭く激しく荒々しい、貴族では滅多に見かけない人種だ。
「手を」
「は、はい」
まじまじと見つめすぎてしまった。真っ赤になりながらユージン様からのエスコートを受ける。
ロクサーリング自慢の庭園をゆっくりと案内されながら、ぼんやりとアイン様が言っていた真実の愛とやらがほんの少しだけ理解出来た。
こんなに魅力的な男性がいるのだ。
そう、世の中は広いのだし、世間には私よりも魅力的な人が溢れている、目移りしても仕方ない事なのかもしれない。
ふっと肩の力が抜ける。
「何か考え事か?」
「あ、申し訳ありません。いえ、あの、ユージン様のように魅力的な方がいる世の中ですから、私よりも素敵な女性も沢山いらっしゃるのだろうと…」
「グレース嬢とお呼びしても?」
「は、はい。どうぞグレースと」
「私の事はジンと」
ユージン様の低く心地良い声が腰に響く。真っ赤になり頷く。立ち止まり彼は私の顔をのぞき込み真っ直ぐに見つめてきた。
「グレースはとても魅力的だ。婚約の話は聞いた。グレースには悲しく残念だったかもしれないが、私にとってはチャンスが舞い込んできて嬉しい。会ってすぐにこんな事を言うのはおかしいかもしれないが、私では駄目だろうか?」
「え?!あの、いえ、ジン様その少しだけ考える時間を頂けるでしょうか?」
「あぁ、勿論だ」
その日はどうやって帰ってきたのか覚えていない。ふわふわとした心地がずっと続いていた。ここ最近沈んでいた私を心配していた侍女達もニコニコとしている。
しかし、悲しみというものは、気がつけば背後にいたり、いきなり片足突っ込んだりと、それは突然にはじまり迷惑極まりないものだ。
ユージン様は、アイン様で冷え固まった私をゆっくりと温めてくれた。その思惑がなんにせよ。
ふとした時に見える熱の無い眼差しや、ユージン様との距離感は常に一定。その度に暗い思いが胸の中の熱を綺麗に取り去り私は震える。
アイン様と婚約白紙になり、ユージン様と出逢って2ヶ月が経つ。何度も顔合わせをしてそろそろユージン様と婚約するのかと思っていたある日。
「…まだ子供だ…だろう?」
その日は、急に父から呼び出され、滅多に来ることがない王宮へ登城したのだ。
来たついでに、ひと目ユージン様の姿を見ようと騎士団の敷地へ入ると、突然木立からユージン様の声が聞こえてきた。内容に疑問を持ち咄嗟にしゃがんで隠れるとユージン様は誰かと言い争っている。
「俺が心から愛しているのはお前だけだ」
…あぁやはり。
熱のない目も必要以上に触れない行為も全て腑に落ちた。相手の声はよく聞こえないが女性なのは確かだ。ドキドキと心臓は嫌な鼓動を刻む。
「愛しているエミリー」
私はそっとその場を離れた。
ユージン様が野心家で我が家の入り婿を切望していたのは気がついていた。
最初の言葉、チャンスが欲しい。それは私の愛を望むものでは無い。貴族としての確実な地位を手に入れるチャンスが欲しかったのだ。
気力を振り絞り父に会いに行き、私はその場で崩れ落ち意識を手放した。
目覚めると自分の部屋のベッドの上だった。侍女のアンナが目覚めた私に冷たい水を飲ませてくれる。そう言えば父の呼び出しは何だったのだろう、ぼんやりと考える。
呼び出されるくらいだ、きっと急を要する事だったのだろう。
目覚めて直ぐに部屋に父が訪れた。
起きようとすると、そのままで良いと言われる。
「実は帝国から特使が来ている」
「はい」
「帝国の皇帝が側妃を探しているそうだ」
「…側妃の生家は伯爵でも良いのですか?」
「ああ」
「お受け致します」
「…すまないグレース」
「いいえ、お父様」
クアール帝国。大陸の3分の1を掌握してる軍事国家と習った。どんな理由で側妃が必要なのかは知らないが、現在の皇帝は確か30歳と聞く、年配の後妻よりはマシかもしれないけれど確か他にも側妃はいたはず。明日から帝国の勉強をお浚いしなくては。
しかし次の日には、魔道連絡により帝国から早く嫁入りして来いと言われた。言われたからには行くしかない。
西に位置するクアール帝国の気候はかなり穏やかだ。今日ものんびりと読書をしている。
嫁入りした初日に帝国居城の奥にある小さな教会で式を済ませグレース・サクリーから、グレース・リッヒ・クアールになった。
かれこれ1ヵ月経つが皇帝陛下とは挙式以降お会いしていない。
理由は、私に数ヵ月前まで婚約者や婚約者候補がいたからだ。まかり間違って別の男の子供がいたら大変だ、誰から見ても潔白がわかる方が良い。長くても半年は様子をみるのだ。
そんな側妃は私を入れて5人になり、正妃はまだいない。私は帝都から遠く離れた離宮と領地を与えられ、目の前には毎日水の色が変わる美しい湖があり、そこでのんびり過ごしている。
寧ろ一生このままここに居たいくらいだ。半年も過ぎたら帝都に呼ばれるのだろうか。
それを考えると憂鬱になる。
読書も飽きたな。
ふと読みかけのこの偉人伝で知った、釣りという物をしてみたくなった。
どうせ誰も居ないし。目の前には美しい湖がある。実家から付いてきた侍女のアンナにおねだりをする。
今日が駄目でも、毎日強請ればいい話だ。なんだかんだでアンナも私付きになった侍女達も甘やかしてくれる。
釣り竿の針には餌はついていない。最初から生き物を殺生するつもりもない。
ただ釣り糸を湖に垂らして、偉人の真似事をしてみたかっただけだ。
今日の湖面はピンク色に輝いている。
さくりと葉を踏む音に振り向くと。
「まぁ」
そこに居たのは妖精のように可憐で銀の髪が美しい子供。しかし口から出た言葉は上からのものだった。
「お前はだれだ?何故ここにいる?」
子供は苦手だ、煩くてすぐに泣いて。でもこの子供は知性の輝きがある。
「私はグレース・リッヒ・クアールですわ、可愛い妖精さん。こちらにおいで」
ポケットから甘いお菓子を出して子供を呼ぶ。
「我は猫ではない…」
口では強がっても、ソワソワと落ち着かない様子、少し待つと甘い香りにトコトコと側に来た。
「はい、どうぞ」
「…美味い、これはなんだ?」
「それは、チョコレイトというお菓子ですわ」
「チョコレイト…」
食べ終わると子供はピタリと私にくっついて座った。白いブラウスとキュロット姿は可憐だ。近くに屋敷などなかった気がするが、本当に湖の妖精だろうか?
「魚が掛からないではないか!」
「ええ、餌をつけてませんから」
「はあ?それは釣りなのか?」
「魚を殺生する気はありませんよ、釣りと言うより偉人の真似事です」
「偉人の真似事?」
「ええ、先日読んだ本に帝国の祖と呼ばれる方のお話が載っていて、その方の真似事ですわ。悩む時は餌を付けずにひたすら己と向き合うとあったので」
「グレースは悩んでいるのか?」
「悩んでいると言うよりも、忘れたい思い出と折り合いをつけている、というところかしら」
「ふうん…」
ポカポカとした春の陽気にすっかり眠くなってしまった。
「妖精さん、私は戻るわ」
「明日も来るか?」
「ええ、雨が降らなければ」
「そうか」
「それじゃあ、またね」
「…うん」
屋敷に戻る間、私は背中に視線を感じていた。不思議な子供。
それから子供は毎日欠かさず湖に来た。
釣り竿を垂らしながら、敷物の上で寝そべって本を読み、眠くなれば昼寝をして、ピクニックの様にサンドイッチを一緒に食べた。何もしない贅沢。
そんな穏やかな日々が過ぎるうちに、アレン様とユージン様から受けた胸の痛みは薄くなり。いつの間にか子供は私にベッタリとくっついていた。
「グレース」
「なあに?」
「明日から暫く来ることが出来ない…」
「そう…残念だわ」
「待っててくれるか?」
ひたむきな視線を寄越す。
本当は、この妖精の様な可憐な子供の出自は薄々気がついていた。
「もう少ししたら私もここを離れる事になります」
「それは…」
「ええ、側妃の仕事をしないといけませんから。皇帝はお優しくて私の心が落ち着くまでこの離宮で静養させて頂きました」
「嫌だ!」
妖精の様に可憐な子供は、第1側妃の生んだこの帝国の嫡子様たしか御年7歳と聞く。そんなアルフレード殿下は私にしがみつく。
「嫌だ!嫌だ!グレースは僕のだ!」
初めて抱きしめると、腕の中の子供はビクリと震える。でも、直ぐに離すものかと涙でぐしゃぐしゃになりながら、きつく抱きついてきた。
何故この湖に来たのかは知らないけれど、アルフレード殿下は私と同じ物を抱えている。
いつまでも溶けることのない孤独。
「アルフレード殿下」
「なんだ…」
「また帝都でお会い出来ますよ?」
「帝都で会ったらグレースは父の物だ!嫌だ!絶対にグレースは渡さない!」
幼い獅子はそう吠えると転移魔法で腕の中からすり抜けてしまった。手に残るのは柔らかい子供の肌と熱。
ポロリと涙が溢れた。
擦り切れた私に寄り添ってくれた、私だけの妖精。
そろそろ帝都からの呼び出しも来る頃だろう。アンナに荷物をまとめておく様に言っておかねば。
私はゆっくりと立ち上がり、アルフレード殿下と最後の思い出となる湖面の色を見た。
そう、それは見事な黄金だった。
そろそろ呼び戻されるかと思っていたのだか、待てど暮せどお声は掛からず代わりに帝都からは第6側妃を迎えたと通達が来た。
ハーレムでも作るのだろうか皇帝様は。
どうも呼び戻される気配は無くなり、暇になったので、頂いた領地の整備でもする事にした。魔力の少ない者でも移動しやすいように道を整え、野盗が出ても直ぐにわかるように見晴らしを良くした。それだけで交易の利益が跳ね上がる。
ただ道を整えるのもつまらなくなり、この土地から出る屑石を敷き詰める事にした。脆く家材にも使えないそれは、人が通る度に細かく割れ、割れた断面は虹色。
踏みしめられると固くなり雨が降ると流れ出しまるで毎日変わる湖面のような道に仕上がった。
この輝く街道を見るためだけに観光客が増えてゆく。領地はまたたく間に潤った。
ここまでに10年掛かった。この潤った領地を取り上げたくなったのか、皇帝から帝都に来いと通達がきた。
あの小さな挙式の日から10年。
正直、忘れられていると思っていた。既に第1側妃が正妃となられて5年は経つ。
側妃と見ればズラリと20人、並んだそれは圧巻だった。無類の女好きなのか、肌も触れて無いのでわかりかねた。
ただ、御子は少なく健やかに育ったのは2人だけ、きっとそういった兼ね合いなんだろうと思った。
ズラリと並んだ謁見の間で、皆平伏して皇帝のお言葉を待つ。
「皆面を上げよ」
一斉に衣擦れの音と共に皇帝を見つめる。
銀の髪に鋭い目、私の妖精と目元が少し似ているなとぼんやり思う。
「グレース・リッヒ・クアール。この10年捨置いた事を謝罪する」
ざわっと間が揺れた。皇帝からの謝罪なんて恐れ多い、ぶわりと全身に汗がでた。
「その境遇にも腐らず、寂れた領地を豊かな領地へと変えた手腕見事である。よって褒美として予の嫡子アルフレードへ下賜する。アルフレード参れ、後はお前が説明しろ。さて皆のもの広間にて宴の準備をしておる、存分に楽しむがよい」
謁見の間から集まっていた人々が祝福の声を上げながら出てゆく。
え?褒美で下賜?何ですかそれ。目を白黒させていると、若く熊の様に逞しい銀髪の青年が目の前に居た。
わ、私の可愛い妖精が…熊になっていた。ガーンとショックを受けていると、体格は熊とはいえ端正な美形になっていた。
「グレースお待たせ!やっと僕のお嫁さんに出来た!」
そう言うと丸太の様な腕に抱き上げられ、思わず夢かと軽くアルフレード殿下の頬を平手で叩いてみた。アルフレード殿下はニコニコしながら叩かれている。
「夢じゃないよグレース。遅くなってごめんね?怒ってる?」
「怒るわけないです…もう私の事は忘れていると…」
「泣かないでグレース。ごめん、ごめんなさい。ずっとグレースだけを思ってた。だからあの日戻って直ぐに父上にお願いしたら」
「お願い?」
「そうグレースを僕のお嫁さんにしたいってお願いしたら、代わりに何を寄越すのだと言われ。この帝国の勝利を!って言ったんだ。だから沢山戦って強さを認めて貰ったよ!」
沢山戦ったって…これまでにどんな危険な目に遭ったのだろう。アルフレード殿下の頬をまたひとつ叩く。
「危険な事をして!」
「体を鍛えていたらこんな体格になったけど許してグレース。大好きなんだ」
すりっと子供の頃のように頭を押し付けてきた。私は震えながらその体を抱きしめる。
私の可愛い妖精さん。
「私も大好きです」
私はアルフレード殿下よりも10歳も上なのに正妃として皆から祝福された。
アルフレードからは身も心も溺愛され気がつけば子供が5人も産まれた。
義父となった皇帝は孫がこれだけいたら安心だと側妃を殆ど下賜され、財務大臣と正妃様から非常に感謝された。
流石に20人も側妃を養う国庫は馬鹿にならなかったらしい。
正妃様は皇帝陛下を愛しているから、同じ女として辛かっただろうなと思った。まぁ側妃方には恨まれたかもしれないが。
側妃方がいた頃は悋気も酷く気性の激しい方だと聞いたことはある、今では穏やかで優しい義母に、そんなまさかと思ってしまう。
でも、子供だったアルフレードが私の湖に現れたのは、そんな時期だったのかなと思った。
私達は、暇ができると湖の屋敷に行き、アルフレードと敷物の上で釣り糸を垂れ本を読みサンドイッチを食べる。
いつかアルフレードが別の女性を好きになったとしても。
あの日の湖面の輝きは忘れない。