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小天狗と敦盛 4 最終話


  『小天狗と敦盛』 4 最終話



  ― 第八章 ―


 その日の晩、快気祝いと称した宴会に連れ出された歳三は、ここ半月ずっと晴れなかったもやが、いつのまにか消えているのに気が付いた。若い頃大病を経験し、どうせ死ぬなら好きなように生きると腹をくくった。二十歳をとっくに過ぎ、遅まきながらも近藤の元へ転がり込んだ。それ以来、剣の道に生きると決めた。最初から悩む余地などなかった。


 それが分かっていながら、待ってくれた仲間に頭が下がる。そして、心が定まった今、歳三には考えなければならないことがあった。


(さて、どうするか)


 ちびりちびりと口をつけていた盃を床に置き、歳三は月を見上げた。いつかの様に細い月が顔を覗かせていた。


「邪魔するぜー」


 その声に隣を見ると、左之助がとっくり片手に腰を下ろしていた。さらに反対側には総司がそしらぬ顔で座った。


「で? このまま泣き寝入りなんて、湿気た事言わねえよな?」

「これだけ迷惑こうむってるんですから、当然僕も一口噛みますよ」

「―――それなら、私も」


 新たな声の主がもう一人。八郎である。


「てめえら…」


 片眉を上げてみるも、何故か怒る気になれず、代わりに笑いがこみあげてくる。


「好きにしろ」


 堪えきれずに口端を上げて答えた。それを見て三人の距離がぐっと近くなる。


言質(げんち)取りましたよ」

「ほんと、往生際が悪いんだから」

「うっせえよ」

「なんか策はあんのか。相手が相手だからよ」


 左之助の言葉に他の二人も黙った。迷惑がかからないよう、近藤には〝面倒に巻き込まれた〟とだけ伝えたが、薄々勘づいているように思う。


「関係ねえよ。相手が誰だろうと」


 あっけらかんと言い放ったのは歳三である。すでに左之助から文を受け取っている。まだ熱が高い頃だ。


 黛は人気の花魁である。馴染みとはいえ、登楼した後はひたすら花魁が来るのを待つのが客の仕事だ。つまり、暇を持て余すということだ。時には大引け(午前二時頃)を過ぎても来ない日もあった。大引けを過ぎると、そのまま客と朝まで寝所を共にするのがならわしだ。少しでも長く過ごすために、最後は歳三でと決めている黛が、それでもおいそれと抜けられない客。廓総出で、もてなさなければならない、特別な上客を相手にしているのだ。


 そうした一人きりで過ごす長い夜。皆が寝静まった後は、不寝番(ねずばん)が行灯の油を継ぎ足して回りながら、夜が明けるまで寝ずの番をする。定期的に訪れる彼らの気配に、歳三が気づかぬはずがない。障子を静かに開けた所で歳三が話しかけると、最初は皆驚いた。だが滅多に人と、ましてや客と関わることのない彼らは、総じて寡黙で真面目、そして意外と気の良い男たちだった。


 歳三が他の若い衆や不寝番、さらに下男下女と、言葉を交わすようになったのは、いわば自然の流れともいえる。そこから敦盛の異名が生まれた。そんなことを繰り返す内に、噂は嫌でも耳に入ってきた。夜闇の襲撃で花魁の名が出た時、もしや…と思いはしたが、決め手に欠けるそれを口に出すのは忍びなかった。それを裏付けてくれたのが黛の文だった。だが、花魁を騒動に巻き込むようなことはあってはならない。


 そこで花魁の文を手にしてすぐ、まだ熱が高い中、左之助代筆を頼み、文を書いた。下手をすると命に関わるからだ。たとえ花魁といえど、所詮女郎の立場は弱い。これ以上、踏み込ませてはならなかった。少なくとも、今回の黒幕と襲撃の相手は同じと見ていい。番屋の連中は金で買われたのだろう。そうでなければ、途中で態度を変える事はなかっただろう。


 しばし思考の波に漂っていた歳三が、おもむろに顔を上げた。三人の目が集中する中、歳三はつづけた。


「喧嘩する相手を間違えた事、後悔させてやる」


 不敵に笑う歳三に、八郎は知らず知らずの内に武者震いをしていた。



「――もう、大丈夫そうだな」


 そんな彼らの背中を遠目に眺めていた近藤が、ぽそりと呟いた。


「ん? なんか言ったか?」


 その声に赤ら顔を向けたのは新八だ。近藤は新八の方へ身体を向けると、明るく笑った。


「いいや、何も」


 その日は主役そっちのけで大いに盛り上がる傍らで、歳三らは遅くまで顔を突き合わせて話し込んでいた。


◇  ◇  ◇


 翌朝。いつになく静かな早朝、人気のない道場に歳三は居た。手にするのは木刀。静かに神棚に頭を下げると、一人木刀を空に構えた。


―――ビュッ、ヒュン…。


 黙々と木刀を振り、動きを確認していく。まだ辺りは薄暗い。もうすぐ夜が明ける頃だ。昨晩、遅くまで騒いでいた連中は未だ夢の中だ。歳三もよく寝たとは言えないが、あえてこの時間を選んで起き出した。


 すでに皆の前に醜態を晒したとはいえ、鈍った身体を好き好んで見せびらかす趣味はない。晒さずに済むならそれに越したことはない。道場から足が遠のいたのも、半分はこれが理由である。それで腕が鈍ったのでは本末転倒なのだが。


「ふぅ…」


 一通り一連の動きをさらうと、額に汗が滲んでくる。腕の振りは昨日よりましにも思えるが、いかんせん、足回りが覚束(おぼつか)ない。寝て過ごすとそれだけで筋力は落ちるのだ。


(足もその内、戻るだろ)


 息を整え、再度木刀を掴む手に力を入れたその時――。


「おはようございます」


 ぴたりと動きを止めた歳三を、するりと追い越して八郎が真横に立った。


「随分と早いですね。ご一緒してもいいですか」

「…嫌だっつっても聞かねえんだろ」

「では、お言葉に甘えて」

「ほんと、聞いてねえな」


 外はようやく空が白み始めた所である。偶然を装っているが、かなり白々しい。この青年も歳三と一緒に布団に転がり込んだ口だ。一刻寝たかどうかだ。このまま稽古を続けるか逡巡するが、さすがにここ数日で、伊庭八郎という人物を理解した。嫌味なくらい強くて、うんざりするほど面倒臭いのだ。


(困った事に、そういう奴は嫌いじゃない)


 小さく笑うと、八郎の横に並んで立った。



 一方、すっかり日が昇ってから朝餉をかき込んだ面々は、そのまま眠い目をこすりつつ、道場へ向かった。誰よりも早く箸を置いた総司が、道場へ足を踏み入れて立ち止まった。


「――何だ、あれ」


 その目線の先にあったのは――…。


 床に四肢を投げ出して、爆睡する歳三と八郎だった。互いに意地を張り合って、我武者羅に稽古を続けた結果である。


「馬鹿が二人いる…」


 追いついた皆が、総司の肩越しに二人を見つけて爆笑する中、総司は呆れた目線を投げかけていた。


◇  ◇  ◇


 歳三が大部屋に戻った翌日、近藤から呼び出しを受けた。歳三は少し身構えて、近藤の部屋の障子を開けた。


「おお、来たか。まあ、座れ」


 近藤は歳三の顔を見るなり破顔して、目の前に座る歳三をニコニコと眺めている。


「朝から、何の用だ」


 思い当たる節はあり余るほどあるが、素知らぬ振りをする。近藤は笑顔を崩さないまま、懐から小さな包みを取り出すと、歳三の目の前にゴトリと置いた。


(…金?)


 包みの正体に、歳三は眉を顰める。


「なんの真似だ」

「いいから、必要なんだろう。持って行け。これは皆には内緒だ」


(全部バレてんな。当然か)


 本音を隠したまま、歳三は迷いなく包みを突き返した。


「いらねえよ。貰う義理もねえ」

「そうは言うが、今後また奴らが来るだろう」


(それは間違いなく、来るだろうな)


 左之助が定期的に平治と連絡を取り合ってくれている。花魁に表立った変化はない。すでに花魁というより、恥をかかされた歳三本人に執着を見せている。この程度で引き下がるとは到底思えない。


(むしろ、俺が終わらせねえ)


「心配いらねえよ。取られた分は取り返す主義でな」

「おい、無茶はしてくれるなよ」

「多少の無茶は必要さ」

「だが、お前…」


 眉根を寄せる近藤は、すっかり兄の顔だ。一つしか違わない兄に、出来の悪い弟で申し訳ないと思うが、性に合わない事はやるもんじゃないとこの半月で身に染みている。ならば、やりたいようにやるだけだ。


(これ以上無様な面、晒せるか)


 含みのある笑みを浮かべると、歳三は明るく言った。


「迷惑はかけねえ。…これは気持ちだけ貰っとく」

「歳。…大丈夫か、本当に」


 腰を上げた歳三を引き留めるように、近藤が言葉を重ねる。それが金策の事だけでないのは明らかだ。


「俺ぁ、バラ餓鬼の歳だぜ? やられっぱなしで引き下がれるか」

「……」


 まだ何か言いたげな近藤に背を向け、障子を開けて振り返る。


「迎えに来てくれてありがとうな。…恩に着る」

「何を言うか。何を差し置いても駆けつけるさ。当然だろう」

「もし勝っちゃんがやられそうな時は、俺が助ける」

「ああ、頼りにしてる」


 目で頷いて部屋を後にした。近藤に宣言した事で、気持ちがまた一つ前を向いた。


「一丁、かますか」


 濡れ縁を歩きながら考えを巡らせる。昨日の八郎との稽古は年甲斐もなく無茶をしたが、おかげでだいぶ勘が戻ってきた。そのまま歳三は、見慣れた面々が集う道場へ足を向けた。



 個人主義を改めた(改めさせられたとも言う)歳三は、なし崩し的に巻き込む形になった連中の事を考えていた。万が一のことを考えて、人数は必要最低限であるべきだ。間違っても、近藤や道場に火の粉が降りかかる事のないように、十分気を付けなければならない。


 まず、左之助の事。喧嘩っ早いが弁は立つ。後腐れない性格が人好きするのか顔が広い。歳三とはまた違う部類の男前で、女にもよくもてる。つまりその筋の伝手も使えるということだ。


(これ以上ない人選だ)


 次に、歳三が怪我をして以来、いやそのずっと前から、不機嫌続行中の総司だ。あの快気祝いの席で、


『これ以上もたついてる様なら、一人で闇討ちに行く所でしたよ』


と言った時の目は笑っていなかった。思わず苦笑いする。


(腕は文句なし。扱いが面倒だが、ま、なんとかなる)


 最後まで迷っていたのが八郎である。彼は彼で未だ問題を抱えている。何より食客とは名ばかりの、借物である。そんな状態で巻き込む事に抵抗があったが、『すでに巻き込んでるし、巻き込まれてる』と先の二人に言われて腹が決まった。


 本人は予想通り、笑顔で快諾した。というより、既に一人で調査を始めていると言うのには驚いた。歳三の寝所に顔を出さなかったのはそのせいだった。八郎とは距離を取っていたはずなのに、気が付けば懐深く入り込んでいた。歳三が百姓の生まれをどうしようもないように、八郎も生まれは選べないのだ。


 要は、どう生きるか。今を、これからを己の力で切り開いていけば良い。そんなわかり切った答えにたどり着いた時、若い頃から心に刺さっていた棘が、溶けていくような心地がした。そしてそれは八郎の悩みにも通じていた。静かに歳三の決意表明ともとれる話を聞いていた八郎は、しばらく黙り込んだ。そしておもむろに顔を上げると、隣に座る歳三の腕をがっしと掴んだ。


『土方さん』

『あ?』

『師と呼んでもいいですか』

『は?』

『あんたは心の師匠だ! 俺はあんたに着いていくぞ!』

『断固拒否する。すり寄ってくんな! 誰だこいつに飲ませたの!』


 酒の席が良くなかったのか、歳三はやたら距離を詰めてくる酔っ払いを、思いっきり突き飛ばしたのだった。




「――土方さん」


 道場へ向かっていた歳三を、左之助が呼び止めた。後ろから走り寄って小声で告げた。


「例の件、大当たりだぜ。見つけたよ」

「っ、どこの店だ」


 歳三はまず取られた金を取り戻すべく、策を講じていた。早速その指示通りに動いていた左之助が、収穫を上げたのだ。


「行きながら話そう。あいつら呼んでくる」

「ああ、わかった」


 歳三はそのまま大部屋に戻り、支度をする。向かうは小石川である。


◇  ◇  ◇


 その日の午後遅く、歳三らは小石川の茶屋にいた。奥の座敷に陣取り、衝立に身を隠すように静かに待っていた。日差しが弱くなり店の中が薄暗くなりかけた頃、四人組が店に入ってきた。


「――来た。あいつらだろ?」

「ああ、間違いねえ。最初に入って来た二人だ」


 声を潜めて左之助と歳三が言葉を交わす。その横で八郎と総司は小さく頷きあって、それぞれ隙間から顔を確認する。


「他の連れは、どうする」

「その内、ばらけるだろ」

「狙うは二人のみ、だな」

「ああ。俺らは、取られたもんを返してもらうだけだ」

「あれ? 借りは返すって言ってませんでした?」

「もちろん返す」


 総司がからかい交じりに言うと、歳三が不敵に笑って即答する。それ以降会話は途切れた。反対に、入店したばかりの奴らは、否応なしに目立っていた。それというのも、御品書きのほとんどを注文したからだ。


 注文を受けた売り子はもちろん、隣合わせた客も、何事かとそちらを指さしては顔を覗かせている。まさに店中の視線を浴びているのに、彼らに隠す素振りはない。むしろ見てくれと言わんばかりの態度だった。そしてその行動こそ、歳三が狙った彼らの目印だった。




『……じゃあ、急に羽振りが良くなった番太(番所に詰める使用人。多くはその日暮らしの町人)の事、探ればいいんだな』


 左之助がまず歳三に頼まれた事は、茶屋周辺の聞き込みだった。顔が広い左之助が適任と言える。


『ああ。小石川界隈に絞っていい』

『ふむ。だけど、そんな目立つ行動するのか?』


 左之助が眉を顰めて聞くが、歳三の答えに迷いはなかった。


『する。あぶく銭って奴は、手にしたら必ず使う。それが人様に言えねえ金なら尚さらだ。金の使い道なんざ、飲むか女か打つかしかない。今は博打の取り締まりが厳しくなってっからな。手っ取り早く使うなら、飲み食いだな』

『誰かさんみたいに、女ってことないんですか』


 横から総司が無表情で口を挟んだ。思わず居を正したのは、八郎だ。それをちらと見て、歳三がさらに言葉を紡ぐ。


『なくもないが、吉原で豪遊するにはちいと足らねえ。女は高くつく』

『……よくご存じで』


 その言葉に総司が白い目を向けるが、視線を無視して話を続けた。


『とにかく、非日常を満喫するとしたら、残るは飲み食いだろ。それにだ』


 歳三がぐっと身体を乗り出した。


『奴らは番所勤めと言っても、立場は低い。番人が私財で雇っただけの使いっぱしりに過ぎない。つまり、番人に飼われる犬だ』

『はは、犬か。そりゃいいな』

『確かにキャンキャン、吠えてましたね…』


 ぼそりと呟いたのは八郎だ。歳三が思わず小さく笑う。


『奴ら、俺の懐まさぐって、手にした財布の重さに目の色変えやがった。その時、役人は後ろを向いてたし指示だけするとすぐに出てったから、財布の中身までは知らないだろう』 

『素知らぬ振りをして、中身を抜いたって訳か』

『言うに事かいて、この金は盗んだ金だのなんだのって、好き勝手叩きやがった。…その借りは、返さねえとな』

『こりゃ、土方さんが暴走しないよう、見張ってねえとなぁ』


 左之助が明るく笑う。眉をしかめていた八郎も、その声に少し表情を緩めた。総司は半分近く背を向けて、甘味を口に放り込んでいる。


『おそらく、番所の上役辺りがあちらさんの誰かと懇意、もしくは、弱みを握られてる…って所だろうけど、番所の奴らにしてみりゃあくまで他人事だ。又聞きの又聞きでしかない番太ならなおのことだろ』

『――…なあ。確か土佐の殿様って』

『ああ。奴は今、謹慎中のはずだ』


 一層ひそめたその言葉に、一様に頷いた。


『大っぴらに出来ないのは、あいつらの方さ。――…まあ、何にせよ、まずは金だ。あの場には番太が二人、番人が一人。門番もいたが、まぁあれはいい』

『じゃあ、狙うは三人か?』

『いや、番太二人だ。番人は後で痛い目見るだろうしな』


 実の所、これはかなり回りくどい手法である。番所勤めの番太とくれば、地元で尋ねて歩けば話が早い。だがそれでは、人伝手にこちらが探っている事が相手に伝わりかねない。特に近所付き合いがある連中は情が絡みやすく、厄介だ。その点、人の出入りが多い茶屋なら、袖触れ合うだけの相手に興味を持っても、深追いはしない。あくまでこちらの行動を気取られないための安全策ということになる。


これが、快気祝いの席で交わされた会話の一部だった。それからたった一日で、左之助は番太を探り当てたことになる。そのまま、どんどん酒を注文する輩を盗み見しつつ、歳三らは静かに茶ばかりを飲み、その時が来るのを待った。



 それはすっかり月が中天に昇った頃に訪れた。散々飲んで食べて騒いだ連中は、歳三の読み通り、番太二人が残りの二人の分の勘定を済ませて、外へ出ていった。それを座席で見送ってから、歳三らは腰を上げた。静かに後を追うと、二つ向こうの通りで彼らが別れたのが見えた。


「番太も別れましたね。一人ずつなのは好都合ですけど、どうします?」

「問題ない。こっちも別れよう」


 すぐに歳三と総司、左之助と八郎に別れると、全員顔を隠す布を巻きつけた。金は返してもらうが、こちらの正体を知られる訳にはいかない。物取りの犯行に思わせるための、実にわかりやすい工作である。互いに目だけで頷き合って、それぞれ番太の後を追って闇に姿を消した――。


◇  ◇  ◇


「お前ら起きろー、朝餉だ」

「…んあ?」


 雑魚寝する大部屋で、夜具からはみ出した足を蹴り飛ばして、新八が皆を起こして回っている。歳三たちが明け方にそっと戻ってきたことを、彼は知らない。


「あ~…、もう朝か…」

「うるせえなぁ、朝から元気だな、あいつは」

「……」

「あ、おい、総司、寝るなっ。起きろ!」


 一周して戻って来た新八が総司を起こす様子を、うっすらと目を開けて、歳三は見るともなしに見ていた。天井を見上げて、昨夜の事を思い返していた。



 昨晩の首尾は上々だった。闇の中から現れた彼らのただならぬ雰囲気に恐れをなしたのか、番太は腰を抜かしてしまった。侍の真似事をしていても、帯刀を許されていない以上、刀に太刀打ちする術はない。早々に持っていた金を取り返したものの、当然ながら派手な飲み食いの分、ずいぶんと目減りしていた。


『どうか、命だけはっ…!』

『いいから、他に何かないんですか。随分と豪遊してましたよね。…金目のものですよ、ほら早く出して下さい』

『ひぃっ、出します出します!』


 総司が番太の首に刀を突き付けると、番太は自身の財布を差し出してきた。多少の重みはあるものの、減った分に足りるとは思えない。とはいえ、深追いは禁物である。歳三は念には念を入れて一切声を上げず、無言を貫いた。おかげで、ただの夜盗のふりを通すことができた。しかも、それこそ自ら詰める番所に訴え出ようにも、分不相応な金の出所をつつかれて困るのはこいつらの方だ。これが表に出る可能性は限りなく低い。


 同様に八郎が急襲役、左之助が交渉役に徹した方も、首尾よく収まっていた。こちらの足らず分は親から譲り受けたという根付と煙草入れだった。二束三文の価値かもしれないが、ないよりましとありがたく頂戴してきた。


 事が済むと番太に当て身を食らわせて、早々にその場を後にした。歳三も借りを返すと言っていた割に、地面に転がすだけで足早に背を向けた。辺りに人気がなくなると、総司は何が可笑しいのか、クスクスと笑いだした。


「意外と簡単でしたね、物取りごっこ」

「馬鹿言うな。こんな後味悪い事、二度とごめんだ」

「嫌だな、僕だってしませんよ」

「当たり前だ」


 しかめ面をしていた歳三も、最後にはほだされたのか、笑いが込み上げて来た。闇の中をくつくつ笑いながら、二人は走り抜けていった。万が一を考えて、道場と逆方向で落ち合うことになっていた。さらにそこから大回りをして、彼らが試衛館に帰り着いたのは、丑の刻も過ぎた頃だった。皆を起こさぬよう布団に潜り込み、ようやく眠りに着いたのは夜明け近かった。




 抵抗むなしく新八に荒っぽく起こされた後、板場で朝餉を腹に入れると、朝稽古に向かう面々と別れ、四人は部屋に戻って来た。眠くないといえば嘘になるが、ここで惰眠をむさぼるほど馬鹿ではない。


「それで、次は?」

「ひとまず、町へ行ってくる」

「刀、ですね」

「ああ。いい加減、あの親父さん待ちくたびれてるだろう」

「金物屋の兄ちゃんも、心配してたぞ」

「いつかの礼もあるし、ついでに顔を出してくる」

「――俺も行きます」


 そう言ったのは八郎だ。伺いを立てるでもなく言い切られたその言葉にも、嫌悪感はもうない。


「好きにしろ」


 冷たく返しながら、以前とはまるで違う己の受け止め方に、口元に苦笑が浮かんでいた。二人は手早く準備を済ませ、試衛館を後にした。




 一方、浅草門前で金物屋の店先に座り、呑気に茶をすすっているのは、質屋店主と金物屋の若い男だ。


「今日も暇ですねー…」

「そうさな。お前さん、金物屋なんぞ辞めて、わしの質屋やらねえか」

「何言ってるんですかー、親父さん所だって閑古鳥じゃないですか」

「まあ、そこは若いもんが盛り立ててくれ」

「無茶言わないでくださいよー」


 すっかり茶飲み仲間と化した二人は、暇を見つけてはこうして顔をつき合わせている。歳三とすれ違った日の翌日。左之助が店を訪ねてきて、しばらく来られない旨を伝えた。持って行けと再度差し出された刀は、歳三の意志を尊重しやはり受け取らなかった。今思えば、歳三は最初から、泣き寝入りするつもりなどなかったのだ。


 己の金を取り戻し、正規の方法で愛刀を取り戻す。そこに(こだわ)る理由は、歳三の意地である。言葉にこそしていないが、その思いで今も動いている。そしてそれを信じて、気長に歳三の来訪を待っているこの二人もまた、いわば同志と言えるかもしれない。


「怪我は良くなったかなぁー」

「元から鍛えとるお方じゃ。すぐ元気になっとるじゃろう」

「そうですねー。それにしても、暇だなぁ」

「ええ若いもんが、だらしないのぉ」


 二人はまた茶をすすって通りを眺める。どこかの客引きの声が静かなこの通りまで響いていた。それらを遠くに聞きながら、最後の一口をすすった時、二人の前に影が落ちた。


「――向かいの質屋店主は、お前かや」

「わしに、何か用ですかな?」


 顔を上げた二人の前に、黒ずくめの男が立っていた。





 朝の内に道場を出た歳三と八郎は、昼より前に浅草門前に着いていた。今日は休みなく歩いてきた。本来なら休憩を取る距離ではない。


 ほんの半月と少し振りだが、酷く久しぶりの心持ちで歳三が歩いていると、通りの先から大きな声が聞こえて来た。これからの段取りを話しながら歩いていた二人は、声の方へ同時に顔を向けて、その表情を一変させた。


「あれは…っ、土方さん!」

「――ああ、行くぞっ」


 すぐに二人は駆けだした。向かうは今まさに、刀を突き付けられている、質屋店主の元だ。


「――…はよう出しちょき、言うちょろうが!」

「じゃから、渡す道理がないと言うとろうに。お前さんもしつこいお方じゃな」

「こっの…、爺ぃ、これが見えやーせんか!」


 すでに同じやり取りが、何度も繰り返されていた。刀を向けられても、縁台に座ったままつれない素振りの店主に対して、黒ずくめの男は苛立ちを隠せず、顔を真っ赤にしていきり立っている。


「――おいおい。丸腰の相手に、何物騒なもん振り回してやがる」


 その土佐訛りの男の前に、歳三はすっと身体を滑り込ませると、男の視界から店主を隠して立った。


「っ! 誰ね、おまんっ」


(俺を知らない? こいつ、仲間じゃねえのか?)


 歳三の正体に気づかぬ様子に、一瞬だけ八郎と目が合った。阿吽(あうん)の呼吸で、それぞれ役どころを理解する。


「…俺は通りすがりのもんさ。それよりあんた、その喋りで何処の出か丸わかりだが、…良いのかよ?」

「あ? 何言うちょろう!」


 歳三が男と対峙している隙に、八郎が店主を店の奥へと促した。為すすべもなく、すぐ後ろで立ち尽くしていた金物屋の男も一緒である。二人をひとまず奥へ連れていき、すぐに八郎も歳三の後ろに立った。すでに野次馬が通りを埋め、彼らの周りにちょっとした人の壁が出来ている。


「ちょっと後ろ見てみろよ」

「後ろち?」


 未だ覚めぬ怒りに任せて、勢いよく後ろを振り返った男は、その肩をびくりと震わせた。よほど頭に血がのぼっていたのか、まったくもって周りが目に入ってなかったようだ。


「こんな衆人環視の中で、まかり間違って刀傷沙汰なんぞ起こした日にゃ、まず、言い逃れはできねえぜ。――あんた、良いのかよ?」


 あえてもう一度訊ねる。すると面白いようにうろたえ始めた。ようやく状況を理解し始めたようだ。この江戸に置いて地方から来たとわかる者は、それだけで出自が知れる。


「くっ、わしはただ…っ」

「悪い事は言わねえ、ここは引いた方が身のためだぜ」

「くそっ、覚えちょきやっ」


 悔し紛れの捨て台詞を吐くと、そのまま黒ずくめの男は人垣を押しのけるようにして去っていった。すっかりその姿が見えなくなってから、歳三は野次馬に散るよう手を振ると、ようやく後ろに振り返った。


「うん、見事じゃな」

「――…親父さん、あんま無茶すんなよ」

「わしゃ、何も悪いこたぁしとらん」

「頑固もほどほどにしとかねえと、命なくすぜ?」

「次はもっとうまくやるさ」

「…そうしてくれ」


 店主の代わりとばかりに、切々と八郎に一部始終を語る若い男を横目に、歳三は小さく安堵の息を吐いた。




 騒ぎがすっかり収まってから、歳三と八郎は店主と一緒に、向かいにある質屋へ移動した。


「さあさ、こっちへ…ん?」


 店主に続いて敷居を跨いだ歳三が、暗い店内に目を瞬いていると杖が一際高い音を立てて止まった。そのまま店主の言葉が宙に浮いた。


「どうかしました?」


 歳三の後に店へ足を踏み入れた八郎も、入口すぐに立つ歳三らの後ろから顔を覗かせた。そしてすぐにその理由を知る。


「なんですか、これはっ」


 薄暗い中でも、店内の異様さが目に飛び込んでくる。入口付近は比較的手つかずに見えるが、奥へ進むごとにその様子は一変していた。並べられていたはずの質草は、手で払われたのか、あちらこちらに折り重なるように偏り、床に落ちた装飾の見事な香炉は、繊細な持ち手が折れていた。


 奥の畳の小さな小上がりは、さらに酷い有様だった。何かを探し回った様子がはっきりと見てとれる。机の引き出しは、開け放たれて掻きだされたままで、使い古された座布団の横には、小さな火鉢が横倒しになっていた。中からこぼれた灰が畳を汚している。


「酷い、誰が、こんな…っ」

「――…」


 その場を動かない二人に対し、店主は杖の音を響かせて、座敷まで急いでにじり寄ると、いくつか確認して回っている。


(そうだ、ここにはあれが…っ)


 歳三はぐっと拳を握り込んだ。そこでふいに、頭の中に先ほどの騒ぎがよぎり、はっとする。


「――そうか、さっきのは、これの陽動かっ」

「え、さっきのって、まさか、嘘でしょ」

「目の前じゃからと油断しとりました。その隙をつかれてしもうた。わしの落ち度じゃ」


 店主は淡々と言葉を紡ぎながら、さらに座敷の奥をごそごそとまさぐっている。八郎は思わず通りへ身を乗り出して、通りの向こうを仰ぎ見るが、日常を取り戻した通りに、奴らの影はない。確かにこの店の目と鼻の先に、店主は居た。誰かが店に入るなら確実に見える位置で、店番を兼ねてあえて表の縁台に座っていたのだろう。


(だが、騒ぎが起きた)


 奴らの目的の対象であるはずの歳三の顔を知らず、怒りに我を忘れていた、あの男。今思えば、これまでの相手と比べて、余りにもお粗末だ。


「あの男に騒ぎを起こさせて、別の奴が店を探る、鼻っからこっちが目的だったんだ」

「じゃあ、あの男は…」


 奴らの真の目的は、店主の気を逸らす事だったと考えれば辻褄が合う。歳三はぎゅっと眉根を寄せると、吐き捨てるように言った。


「いいように使われた、当て馬って事だ。…奴も、俺らも」

「…っ」


 八郎が言葉を詰まらせた。店主に絡んで来た男は、最近預けられた高価な品を渡せと、言って来たという。その横柄な態度に、ぴんと来た店主がのらりくらりと交わしている所に、偶然にも歳三らが現れた。


 もし、店主が突っぱねることなく、あの男がお目当ての物を手に入れればそれで良し。拒絶され騒ぎとなれば、今度はそれを利用する。むしろ、野次馬自体が彼らの息のかかったサクラだった可能性もある。


「刀をいくつか持って行かれとるな。使いもんにならん刀も手当たり次第じゃな。あとは…帳簿も釣り銭用の金も手つかずじゃな」

「土方さん、これは…」

「ああ、わかってる」


 歳三の大刀を狙ったと考えるのが筋だ。歳三とこの店の繋がりを突き止め、さらに歳三の大刀が手元にない事を知り得る人物。


(――…あいつらしかいねえ)


 ここ数日の店主の行動は、探られていたのだろう。陽動役の男を目くらましに、別動隊が確実に遂行できるよう、綿密に計画されている。これまでの状況から、組織ぐるみで事に及んでいることはわかっていたが、ここまで統率は取れていなかった。


(厄介なのが、居る)


 爪が手の平に食い込むほど、拳を強く握り込んだその時、ずっと座敷の奥をまさぐっていた店主が、ようやくこちらに振り向いた。


「――では、これからのことを話し合う必要がありますな」

「! それっ」


 そう言って差し出して来た歳三の愛刀に、目を見開いた。そしてすぐに小さく笑うと、しっかり頷いた。


「…ああ、そうだな」





「――では、わしはしばらく、娘の所へ参ります」

「ああ。面倒かけるが、そうしてくれ」


 三人で今後の対策を話し合った。店主には、しばらく娘の所へ身を寄せてもらうことになった。元より、歳三の一件が済めば高齢を理由に店を畳むつもりで、すでに店じまいの準備を始めていた。言われてみれば金物屋の男にもらった文に、それらしい事が書いてあった。なんだかんだで、すっかり抜け落ちていた。


「俺のせいで、隠居が延び延びになっちまったな。済まない、親父さん」

「いやいや、あんがい楽しく過ごしてましたぞ。こうして、隠居の練習まで出来るしの」

「はは。店じまいの時は手伝いに来るよ」

「ほほ、そりゃ助かるわい。この門前で、深い付き合いのもんはおりませんでな。わしの家が何処かも、ましてや家族の事なんぞ、誰にも話した事なかったが、こうなってみれば、付き合いの悪さが功を奏しましたな」

「前から言おうと思ってたが、商売人のくせに付き合い下手って、いざって時困るだろうが」

「なんじゃ? どうも、最近耳が遠くなってのぉ」

「…このクソ爺ぃ」

「誰が、クソ爺ぃじゃ」

「聞こえてんじゃねえか」


 軽口を言い合って、明るく笑い飛ばした。諦めるのではなく、次への糧にするために笑う。そうすると、自然と力が湧いてくる。店を荒らされてすさんでいた重い空気が、笑いと共に押し流されて行く。冗談を言い合いながら話がまとまった。


 すでに準備を進めていたおかげで、持ち出す品も風呂敷一つで事足りる。言われてみれば、最初に来た時よりずいぶんと品数が減っていた。わずかに残る高価な品だけを丁寧に包み、店主は木戸を閉めて回った。最後に小さな張り紙を表に貼り、店主は去って行った。歳三らも、足早に裏口から出た。どこで見られているかわからない。長居は無用である。その時、腹の虫がなった。歳三の腹からだ。顔を上げれば陽が真上を過ぎている。


「何か食うか」

「いいですね」


 いつぞやの会話をなぞり、にやりと笑って踵を返そうとした二人に、後ろから声が追ってきた。


「あ、お兄さーん、無事、済みましたー?」

「! そうだったっ」

「あー、うっわ、めっちゃ手振ってる」


 他人の振りをしたい気持ちを押しとどめて、八郎と目で頷き合うと、くるりと身体を反転させた。


「いやあ、あんたかー。それがだな、聞いてくれるか?」

「え、何です? あれ、親父さんもう店閉めたんです?」


 歳三は金物屋の男の肩に腕を回すと、がっちりと掴んで言った。


「そうかっ、聞いてくれるかっ!」

「ここじゃ何ですから、さっ、行きましょう」


 八郎も反対側から腕をがっしと掴んで、ぐいぐい引っ張った。


「えっ、えっ? 何、え?」

「よし、行くぞ」

「行きましょう」

「何これっ、怖いっ!」

 

 両側から腕を掴まれて顔を引きつらせる男を、二人でなかば引きずるようにその場から連れ出して行った。



 二つ通り向こうの店に腰を落ち着けて、歳三の質草が盗まれ、安全のためしばらく店を閉めると、男に説明した。この男は歳三の質草が何かを知らない。何かを知らないまま男をこちらへ引き込むよう進言したのは、他ならぬ質屋店主である。


「――事情はわかりました。にしても、物取りとか物騒ですね。親父さんに怪我なくて良かったですけど。お兄さん、本当付いてないですねー。厄年にはまだ早いですよねー」

「まぁ、そうだな…」


 神妙な顔で頷く歳三に、八郎は背中を向けたまま、肩を震わせている。そんな八郎を無視して、歳三は男にぐっと顔を寄せた。


「なあ、目と鼻の先でやられるなんざ、気が気じゃないだろ? そこでだ。あんたに協力してもらいたい事があるんだが」

「そりゃもちろん、俺にできる事なら」

「ああ、あんたが適任だ」


 歳三はにやっと笑って、男の肩を叩いた。これも質屋店主の勧めに従った上での行動だ。ものおじしないこの男は、人の悪意を好意に変える力を持っていると、太鼓判を押されては従うしかない。 


「ってことで、あの騒ぎの最中、怪しい男を見た奴が居ねえか、探ってくれ」


(実際は、〝探るフリ〟なんだが、それを言う必要はない)


 歳三が話を追えると、金物屋は胸を叩いて大きく頷いた。


「わかりました。任せて下さい!」

「悪いな、仕事もあるのに頼んで」

「いえいえー、大丈夫ですよ。何せ、暇なんで!」

「そこは威張んなよ」

「あははー」


 知らずに力んでいた身体から、ふっと肩の力を抜くと、呟くように言った。


「あんただけは、何があっても大丈夫な気がするな」

「え? 何です?」


 何故だか、この男だけはそう思えるから不思議だ。決して状況は良くないのに、気づけば笑っている。ふと隣を見ると八郎も明るい表情をしていた。


「いや、何でもねえ」

「そうですかー? あ、これ美味しいっ。どうです、おひとつ」

「頂きます。…ほんと、美味しいですね。俺も頼もうかな」

「でしょ、でしょー。ふふーん」

「ふっ」


 楽観的というのか、能天気というのか、思わず吹き出してしまった。この短時間で、そう思わせる金物屋が一番の強者かもしれないと歳三は思った。それからしばらくして、店があるからと金物屋は先に席を立った。強引に連れ出した詫びを言うと、明るく笑い飛ばして店を出て行った。


「ふう…」


 二人同時に息を吐きだした。ひとまず伝えるべきことは伝えた。まだやるべき事はたくさんある。


「すっかり蕎麦がどっか行っちゃいました」

「よく言うぜ、ちゃっかり蕎麦団子まで食ってただろ」

「あれ、美味しかったです!」

「そりゃ、良かったな」


 何気ない会話をしながら、店内に目を配る。そして八郎の背中に隠れるよう、身体の前に小さく指を二本立てた。それに八郎がわずかに頷くのを確認して、大きく伸びをした。


「さあて。あてが外れた事だし、そこいら冷やかして帰るか」

「そうですね」


 勘定を済ませて通りに出る。時刻は昼八つを過ぎていた。手をかざして中天を過ぎた日を仰ぎ見た。


(今日は、長い一日になりそうだな)


 すぐに隣に並んだ八郎と、連れ立って歩き出した。その後を男達が追ってくるのを確認しながら――。




 市中へ向かうと見せかけ通りをしばらく歩くと、ふいに歳三らは細い路地に身体を滑り込ませた。遅れて後をつけてくる男が、角から先を確認した時には、すでに二人の姿は見えない。


「えっ、どこ行っちゅう…っ」

「遠くに行っちゃあせん――」


 男らが慌てて走り出そうとした瞬間、細い路地から伸びて来た腕が、すばやく路地の中へ二人を引きずり込んだ。


「ぐっ…」


――ドサっ。


 年輩の男の口元を覆い、さらに数歩路地奥へ押し込んだ時には、もう一人の若い方はすでに地面に転がせていた。そして、路地の入口をふさぐように、影からゆらりともう一人現れた。歳三である。足元に転がる男を見向きもせず、ゆらりと奥へ歩み寄って来た。


「こそこそ付けまわりやがって。いい加減にしろよ、てめえら」

「お、おまんはっ!」

「ん? お前はどこかで見た面だな。…ああ、思い出した。俺を番所に突き出してくれた奴じゃねえか」

「ひ、人違いやなかっ」

「おっと、下手に動かないで下さいよ。手元が狂っちゃいそうだ」

「――なっ」


 いつの間にか、背後から男を押さえていた八郎は、小さな小柄を男の喉元に添えている。普段刀の鞘に納められているそれは、小さいながらも立派な刀である。

 

「さーて、…何から教えてもらおうか」


 見せつけるように大刀の柄に手を置くと、歳三はことさら低い声で語りかける。


「お、おまんのそれは偽物やかっ」

「ほぉ? だったら、試してみるか」


―――シュンっ


「ひっ」


 目を見開く男の鼻先に、歳三はスラリと抜いた愛刀の剣先を突き付けていた。


「な、なんでおまん、それ持っちゅうがやっ?」

「それに答える前に、どうして俺が大刀を持ってないと思ってんだか、聞かせてくれよ」


 男は見る見るうちに脂汗が滲みでてきた。鼻先で鈍く光る刀を凝視したまま、口元を引き結んでいる。


「お前らの相手はこの俺だろう。あんまり舐めた真似してんじゃねえぞ」


 綺麗な顔で凄まれると、底知れぬ迫力が出る。それを知ってか知らずか、歳三は不敵に笑う。言い知れぬ恐怖に、押さえられた男の身体が、細かく震え始めた。


「こ、殺さないでとおせ」

「それは、あんた次第だな」


 賑やかな通りから、少しだけ入った細い路地の奥。世間から切り離された薄暗い世界で、静かに歳三の反撃が始まった。


◇  ◇  ◇


――ゴーン、ゴーン…。


 暮れの鐘が聞こえる。同じ日の夕方、歳三と八郎は吉原に居た。昼間の男から必要な情報を聞き出した後、二、三、所用を済ませてこちらへやって来た。裏路地へ転がしてきた輩も、今頃は気が付いているだろう。路地から這いずり出て、誰かに助けを請う事が出来れば解放の時は早いが、身ぐるみ剥がされ縛られた状態で、それが出来るかどうかはまた別問題である。


「あいつら、髷も落としてやりゃ良かったか…」


 存外物騒なことを漏らす歳三に、八郎は目を丸くした。鐘の音が六つ鳴り終わると、あちらこちらから一斉に、三味線の音が鳴り始めた。夜見世の始まりである。


「まあ、あの恰好じゃ通りに出るに出られないでしょう。時間稼ぎくらい出来ますよ」

「親父さんの迷惑料にしちゃ、安すぎだろ」


 未だ納得いかない様子の歳三である。路地の角に立ち、行きかう人の波を眺める。徐々に提灯の灯りが明るくなってきた。


「あっ、花魁が来た!」


 冷やかし客の声がどこからか上がる。声のする方へ顔を向けると、揚屋へ移動する花魁率いる行列が見えた。


(あいつの言った通りだったか)


 遊郭遊びで最も豪遊と言われるのは、引手茶屋へ遊女を呼び寄せる事だ。上客と言えども滅多に出来ない、まさに豪遊である。呼ばれた上級遊女(ほぼ花魁である)は、一人の客だけのために行列をなして揚屋へ赴く。茶屋の二階で上へ下への大宴会をする為だ。宴会の後は場所を移して、ようやくお目当ての女郎と床につく。


 それらすべての勘定は、当然ながら女郎を買った客が受け持つのだが、宴会代のみならず、茶屋の皆に配るご祝儀まで入れると莫大な金額である。当然ながら、おいそれと誰もが出来ることではない。庶民が一生かけてもお目にかかれない金子が一晩で消えていく。厳密には冒頭の花魁道中とは主旨が違う行列だが、冷やかし客にとってはどれも同じことである。


「よっ、花魁!」

「ああ、これでいい土産話ができた」

「これが、天下の吉原の花魁か…」


 やんややんやとはやし立てる連中の、目線の先に掲げられた提灯には、燃え盛る火が描かれている。火炎玉屋の屋号である。すなわち、花魁黛の行列である。道の端から遠目で眺める歳三達の前を、行列が厳かに通り過ぎていく。


(あんまり、気分の良いもんじゃねえよな。やっぱ)


 肌に馴染んだ見慣れた女が、見たこともない澄まし顔で別の男の元へ呼ばれて行く。頭では割り切っているはずでも苦い思いがせりあがるのはどうしようもない。


「店を確認しましょう」

「ああ」


 だが、今日はのんきに行列見物に来たわけではない。行列に背を向けると、歳三は人混みに姿を消した。




 その日の夜半過ぎ、品川へ至る街道沿いの暗い(やぶ)の影に腰を据えた歳三は、道向こうの八郎に話しかけた。


「あんた、本当にいいのか。無事で済むとは限らねえぞ」


 ひそめられた声色は、真剣そのものだ。同じく薄闇の中、目をこらさないと見えない藪の影から顔を出した八郎は、一も二もなく答える。


「怪我が怖くちゃ、剣は握れませんよ」

「俺が言ってんのは…」

「わかってます。それこそ、心配御無用です。俺は俺の意志でここに居るんです。家も道場も関係ない」

「――なら、勝つしかねえな」

「よく言いますよ、勝つことしか考えてないくせに」

「わかってんじゃねえか」


 互いに頷き合って、それきり口を閉ざした。頭の上には星が瞬き始めて久しい。そろそろ歳三が睨んだ頃合いだ。二人がここに姿を隠す数刻前、二人は八郎の実家に寄っていた。八郎の義兄と話をする為であるが、歳三はこの日初めて、歓迎され過ぎると返って居心地が悪く感じる、という奇妙な体験をした。


(いざという時の口添えを約束してもらえたのはいいが…、どうにも調子が狂う)


 歳三はふるりと頭を振って、意識を切り替える。


(後の事は後で考えればいい)


 それきり、歳三は黙って道の先を見つめていた。二人が押し黙ってからしばらくすると、遠くに提灯の灯りがいくつか見えて来た。


「――来たぞ」

「はい」


 狭い道を挟んで両側で、その時を待つ。徐々にその姿が見えてくる。連れだって歩いてくるのは、黒ずくめの集団。既視感を覚えるのも仕方がない。おそらくいつかの奴らとそう顔ぶれも変わらないはずだ。


(ひぃ、ふぅ、みぃ…思ったより多いな)


 目を凝らして数えた頭数は、全部で十一人。対するこちらは歳三と八郎の二人であるから、その差は大きい。当然、皆が帯刀した武家人である。見ると、道向こうで八郎が指を五本立てて見せている。


(俺に一人譲るってか。律儀な奴だ)


 それに頷いて見せると、すぐにその姿を再び藪の向こうに隠した。六対一だろうと、五対一だろうとやることはそう変わらない。やって来たのは、先ほどまで吉原で豪遊していた一行である。彼らは皆一様に上下とも黒ずくめを着ており、間違いようがない。


(上司が謹慎中だからか? それにしても、殿様と喧嘩するとは思わなかったな)


 いくら歳三と言えども、一国一城の主を闇討ちするわけにはいかない。とはいえ、喧嘩を売られたのはこちらの方だ。直接手を下せないなら、外堀を攻めるしかない。要は相手の戦意を削いでしまえばいい。出る所に出られたら困るのはあちらの方だ。


 昼に捕まえた奴から聞き出した話から、今晩、茶屋借り上げの総仕舞をやると知った。近々恩赦が出るかもしれないという噂を耳にした。恩赦が出れば、謹慎が解かれる可能性は高い。


(謹慎が解ければ、奴らは自国に帰る。つまり、夢の時間も終わりを告げる)


 江戸で謹慎中のお殿様が、花魁を身請けして連れて帰るなど余りに聞こえが悪い。江戸に囲っていても、会う事ができなければ醜聞を広めるだけである。結局は、限りある時間の中、火遊びと割り切っているのだろう。歳三は一行が最も狭い箇所に差し掛かるのを、じっと待った。


(今だ)


 しっかり夜目に慣れた歳三は、足元の小石を投げた。


――こつん。


「何や?」

「どうした」


 それを合図に八郎が、木に括り付けた縄を思いっきり引っ張った。


――ガササッ、ばきっ、バサバサ…


「何ながっ」

「誰かおるなが?」


 薄闇の中にあっても漆黒の影を作る木々は、人の恐怖心を簡単に煽ってくれる。姿の見えない不気味な音に右往左往する中に、時折土佐言葉が混ざる。


(郷士が半分ってとこか)


 子供だましもここまでである。最後に八郎が矢を天に放った。


――ヒューるる…


「敵襲だ!」


 空を切って音が出るように細工をした矢は、のどかな田舎道を一気に戦場に仕立て上げた。浮足立った連中に、弓を放り投げた八郎が飛び込んだ。瞬く間に一人が地に伏せた。明らかな人の気配に、誰もが刀を抜いた。そこへ今度は歳三が走り出た。真っ先に提灯を切って落として回った。提灯の灯りに慣れていた奴らは、夜目が効かない。途端に薄闇の中に放り込まれ、戦々恐々として同士討ちし兼ねない状況だ。


(こっちには丸わかりだ)


 いつかの礼とばかりに、歳三が容赦なく斬りかかった。怒号と剣劇の音が飛び交い、狭い夜道は一気に騒然となる。暗闇の中でも迷いなく斬り込めるのは、夜目のおかげだけではない。現れた一行は全員が草履を履いていた。言わずもがな、この時代のごく一般的な履物であるが、乾ききった土を踏みしめるたびに、わずかに土鳴りの音を立てる。


 それに対して、歳三らはなめし革を張った地下足袋(じかたび)を履いていた。さらに脚絆(きゃはん)で押さえた足元は、旅装束でお馴染みの姿だが、袴に比べて格段に動きやすいだけでなく、足さばきで無駄な衣擦れの音を立てない。目と耳の両方で敵味方の区別がついているのだ。


「一旦退けっ、屋敷に知らせろ!」


 誰かの声で動ける者がバラバラと走り出した。あの襲撃の夜と違って、彼らの下屋敷が近いせいか地に転がった輩は置き去りである。歳三は小さく口笛を吹くと、奴らが逃げた方角と逆に向って走り出した。すぐに道をそれて林の中に飛び込んだ。すぐ後ろを八郎が追ってきた。


「追わないんですか」

「必要ない」

「そりゃそうか」


 そのまま、しばらく走り続け、すっかり喧噪が聞こえなくなり、代わりに虫の声しかしなくなったので、街道脇まで戻った。深夜ということもあってか、主要街道といえど人気はない。


「追っ手は来てねえな」

「あれじゃ、しばらくは無理でしょう」

「そうだな」


 一旦呼吸を整えると、二人で街道脇にしゃがみ込んで脚絆を取り、地下足袋から草履へと履き替える。風呂敷に包んで腹に巻きつけていた。


「これ、すごく動きやすかったです」

「ああ、そうだろ」


 外した脚絆と地下足袋を手に、八郎が感心したように言った。農家の生まれの歳三にとっては、慣れ親しんだ装束だが、武家の生まれの八郎には馴染みがない。日々目にすることはあっても、使った事はないのだ。未だ、旅という旅も経験がないのだから、それもしょうがない。お互いの服装を確認し合うと、何事もなかったかのように街道に降りて歩いていく。


「今頃は、路地の奴らも合流しましたかね」

「そうだな、ようやく俺らの正体に気づいた頃じゃねえか」

「その報告を受けるのは、明日の朝ですか」

「おそらく」


 今頃、親玉は吉原で宴会後のお楽しみの最中だろう。翌朝、腸の煮えくりかえるような報告を受けることを思うと、胸がすく。護衛の者らが深夜帰路に着くと言ったのは、歳三である。確信はないが自信がある、と言ってのけた。これまでの動向から今夜もそうだと睨んだのだが、見事正解だった。


 吉原では引け四つ(午前零時)の拍子木が鳴ると、新たな客を取らない。帰路に着く客は大引け(午前二時頃)までに送り出し、そのまま朝まで過ごす客は女郎と一緒に床につく。つまり、護衛は傍仕えの者で十分事足りるのだ。むしろ、男ばかりでいつまでも居座る場所などない。家臣の中でも下級武士が当たる護衛は、決して高給取りではない。非番の日に安い昼見世に通うのがせいぜいで、夜見世の大店など、彼らに買える女郎は居ない。


「想定より人数が多かったな」

「ええ、総仕舞いにあやかろうと皆で繰り出したんでしょう。結果、痛い目見たわけだ」


 唇に笑みが浮かぶ。だが地面に転がった輩も、誰も死んではいないはずだ。無傷とは言えないものの、致命傷は与えていない。とはいえ、刀は鉄の棒である。


「しばらく動けねえな」

「それは間違いない」


 歳三もつい最近まで奴らの手にかかり、怪我で臥せっていたが、あの時の獲物は竹刀だった。


(下手したら使い物にならねえな)


 敵ながら、不運な上司に当たったことを気の毒に思う。


「奴らも生まれは選べねえ、ってことか」

「ええ、受け入れるしかない」

「そういう事だな」


 半刻ほど後、二人は道場の裏口からそっと戻った。何食わぬ顔で布団に忍び込んで、緩く目を瞑る。


(さて、明日は奴らがどう出て来るか…。打つ手、考えないと…)


 しばらく考えを巡らせようとしたが、長すぎる一日にすぐに深い眠りに落ちて行った。翌朝、いつものごとく容赦なくたたき起こされ、道場で稽古がひと段落した頃、近藤が瓦版を手に入ってきた。


「おい、土佐が大変な事になったぞ」


 それに顔を見合わせたのは他でもない、歳三と八郎だった。



◇  ◇  ◇



「おい、親父さん。これはどうすんだ」

「あー、そりゃゴミじゃな。欲しけりゃ持って行きなされ」

「ゴミっつったじゃねえか、要らねえよ」

「価値が出るかもしれんぞ」

「まったくもって、信用ならねえな」


 今日は質屋の店の片付けに来ていた。あの日から目まぐるしく世の情勢が変わった。彼らが行動を起こすよりも早く、容堂の国許で問題が起こった。武市瑞山率いる土佐勤王党が、容堂の腹心だった吉田東洋を暗殺したのだ。藩政を揺るがす事件は、江戸でのとある出来事が影響したと言われている。桜田門外の変と後に呼ばれた大老暗殺事件である。


 その桜田門で討たれた井伊直弼を起点にすると、八郎の実父である秀業と容堂は、奇妙な共通点があった事が後にわかった。彼らは、討たれた井伊に対立し(秀業は上司が対立)、二人とも第一線からその身を退いていたのだ。そしてその井伊も、桜田門下でその生涯を閉じた。


(人生、どこでどう転ぶかわかんねえな)


 結局、歳三らの襲撃と国許の事件と、双方から痛手を負った容堂は、その関心を内紛の収拾に集中せざるを得なくなった。領主として当然の選択である。しばらく総司らと用心していたが、確かにそれどころではないと歳三も理解した。


 それからも日本を揺るがす事件が次々と起こった。江戸の町中でも日夜、尊王だ攘夷だと論議が過熱している。新八や左之助らは、時に近藤も混ざり熱く語り合っている。


(俺は、己の進むべき道を進むだけだ)


「ねえ、土方さん。これ、使えますかね」


 ふいに声をかけられ、頭を上げる。そこにはいつかの壊れた香炉を手にした八郎が居た。


「そんなの、売れねえだろ。ほしけりゃ接ぎに出して、手前で使え」

「香は焚かないなぁ」

「だったら、聞くな」


 相も変わらず、八郎は試衛館に顔を出している。あれからしばらくして家には戻ったものの、未だ根本的解決していない問題のせいで、しょっちゅう顔を出している。何を隠そう、今では連れだって吉原通いする仲である。


(さすがに想定外だったな)


 古い仲間内は別格だが、食客(まがいも含めて)の中では断然気心知る間柄である。


「すっかり、馴染んだな、お前も」

「え、何か言いました?」

「いいや、何も。早く片付けねえと陽が暮れちまうぞ」


 歳三はすっかり秋らしくなった空を見上げて、まだ残る品に手を伸ばした。


 居心地が良すぎて長居してしもうた、と言って、ようやく質屋店主が戻って来た頃には、夏が終わっていた。歳三の身辺もすっかり落ち着きを取り戻しており、快く手伝いを申し出て今に至る。埃っぽい店内に、軽やかな声が響いた。


「皆さん、お疲れ様ですー。これ、良かったらどうぞー」

「うわあ、握り飯! 頂きます」

「いやあ、嬉しいなぁー。これから毎日、手料理が食えるなんて俺は感激で胸が一杯だ!」

「おまえさん、寝言は祝言あげてから言いなはれ」


(そういや、これも想定外だった)


 男ばかりの中で唯一の潤いと化しているのが、質屋店主の娘である。店主の風貌からは、想像もつかない美人だった。その娘の登場で、まさに人生が変わった男がここに一人。金物屋の若い男である。


『運命の出会いとしか思えません! お婿に貰ってください!』

『あの、そこはお嫁に来てくれ、じゃないんですか?』

『お前ら、わしを忘れとりゃせんか?』


 まさかの双方一目惚れで、とんとん拍子に話がまとまったのが、実に出会ってから三日後である。そして今日は質屋で残った品の中から売れそうなものを選んで、新しく若夫婦が切り盛りする小間物屋として、店を開くための準備も兼ねている。すっかり新婚気分の二人をまるで気にせず、八郎は握り飯にかぶりついている。


(まったく羨ましく思わない俺も、こいつと同類か)


 八郎は試衛館に顔をだしながらも、きっちり練武館の指導もこなしている。すでに実父とのいざこざの理由も聞いているが、他人の家の事なので、口出しするつもりはない。


(当の本人がその気がねえんだから、しょうがねえよな)


 今日はこの後、伊庭の家に一緒に顔を出すことになっている。あの一件以来、秀俊とも懇意にしている。もちろん、非公式の場だけであるが。


「あ、この沢庵美味しいですよ、土方さん」

「ん? どれ、――お、中々だな」

「何言ってるんですかー、俺のお嫁さんの漬けた沢庵が中々の訳ないでしょー。最高に決まってます!」

「それは、わしが漬けた自信作じゃ」

「だとよ」

「この握り飯、最高に美味いですー」

「人の話、聞けよ」

「あ、昆布も美味いですよ、ねえ食べました?」

「お前も聞いてねえな」


 賑やかに過ごすひと時が心地いい。馬鹿を言い合いながら、やりたいように生きる。


(やれるとこまで、やってやるさ)


 手に着いた米粒を舐め取りながら、高くなった空を見上げた。



◇  ◇  ◇


 所変わって、その日の夕刻、八郎と伊庭邸へ寄るついでに練武館へ顔を出した二人は、一番会いたくない相手につかまった。実父、秀業である。秀業は八郎の顔を見るなり、逃がすまいと腕を取った。それからいつものやり取りが始まった。


「だから、どうしてそう意地を張るんだ」

「いい加減にしてください、父上。何度も言っているでしょう」

「それこそ、わしの台詞だ」

「さ、土方さん。行きましょう」

「いいのか」

「ええ、時間の無駄です」

「八郎、まだ話は終わっていないよ」

「私にはありません」


 親子が顔を合わすと繰り広げられるこの会話は、もう何度聞かされたかわからない。お家事情など、どこも同じと思っていたが、この伊庭家だけは少々、いや、かなり特殊と言えるかもしれない。その内容がこれっぽっちも共感できなくても、所詮、歳三は赤の他人、口を出す立場ではない。よしんば助言をせがまれたとしても、口を出す気は毛頭ない。むしろ関わりたくないと言った方が正しいかもしれない。歳三は心を無にして、置物のごとくひたすら解放されるのを待つしかない。


「一応聞きますが、出仕のどこに問題が? 見聞を広めるいい機会ですよね」


 八郎の目が一段と冷たく細められる。聞かなくてもわかっているのだが、聞かずにいられないのだ。


「はぁ…、お前は何もわかっちゃいない」

「ですからっ! 私は義兄の、ひいては伊庭家の為になるなら喜んで出仕いたします! 幕府のお役に立てるんですっ、それの何が不満なんですかっ」

「…何が不満かだと?」


 秀業が半眼で静かに息を吸い込んだ。とっさに歳三は耳を塞ぎたくなったがぐっと堪えると同時に、息つく間もない秀業の持論が繰り広げられた。


「可愛い息子を、傍に置いておきたいからに決まってるだろう! 出仕などしてみろ! やれ警護だなんだと、どこへ行かされるかわかったもんじゃない! 冗談じゃない。親が子供をかわいがって、何が悪い? 少々やんちゃだろうと、手の届くところに居てくれるだけで良いと言ってるんだ。それで早く秀俊から家督を引き継いで、それを理由に出仕の話など、断りなさい。いますぐにそうすべきだ。明日にでも届け出れば済む話じゃないか。そうすれば、もう何も言わないと誓うぞ!」


(絶対、言うだろ)


 心の中の反論は、決して口には出さない。すでに八郎は遠い目をしてまるで聞いていない。いや、聞かなくてもわかるくらいには聞かされているとも言うのだが。


「八郎! どうしてわからない!」

「わかってたまるかっ! このくそ親父!」


 ついぞ交わることのない不毛なやり取りを、今日も今日とて延々と繰り返すのだろう。なんてことはない。八郎の抱えるお家問題とは、親馬鹿からくる過干渉に端を発していた。八郎の歯切れが悪い態度も納得である。


(そりゃ、家出もしたくならぁな)


 運悪く歳三のごたごたと重なり、話がややこしくなっていたが、一度距離を置いてお互いに頭を冷やせという、義兄の勧めに従ったのが事の始まりで、それが裏目に出る形になった。まさかの秀業の暴走である。


 尊敬する師範の本音など知るよしもない門弟らが、秀俊の当主就任を面白く思っていなかった一派を中心として、外野に付け入る隙を与える結果に至ってしまった。そのことを秀俊は重く受け止めた。それを機に八郎は家に戻ることにしたのだが…、


『跡継ぎうんぬんの前に、私はまだ若輩者です。成人したこの身で、広く経験を積んでからでも遅くはないと思います』


と、至極真っ当な考えを秀業に訴え出たのだが、秀業はどこまでも秀業だった。良くも悪くも。



 門弟らを巻き込んだお家騒動であるが、八郎はもとより、現当主秀俊、隠居の身である秀業の三者に、誰も剣では太刀打ちできないのが現状である。秀俊にいくら反抗したところで、実力が足元にも及ばないのでは話にならない。伊庭家は実力主義である。とどのつまり、稽古に邁進する日々に戻ったのだ。…この親子を除いては。


 出自を選べないのと同様、子も親を選べない。結局は自力で道を切り拓いていくしかないのである。


「要は自分次第ってことだ」


 終わりの見えない言い合いを横目に、歳三はぼそりと呟いた。この馬鹿らしくも微笑ましい騒ぎは、まだしばらく続きそうである。






 この翌年の春、歳三らは清河八郎率いる浪士組の参加を決め、上洛することになる。そのまま京に居残り、後の新選組を作り上げていく。


 一方、八郎も念願の出仕を果たした後は、奥詰めで教授方を務めた後、将軍家茂の警護の任に付いて、彼も上洛を果たすことになる。歳三らの上洛から実に四年後のことだ。


 京の町で再会した二人は、その後もそれぞれの立場で戦火を潜り抜け転戦を繰り返し、三度再会を果たすのは最後の決戦の地、函館になるのだが、それらはまた別の話である。




 了



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