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小天狗と敦盛 3


  『小天狗と敦盛』 3



  ― 第六章 ―


 陽の光がかなり傾いてきた頃、総司と左之助は吉原へ着いていた。大きな門はすでに明々と提灯を掲げ、幾人も中へ吸い込まれて行く。


 (くだん)の火炎玉屋は、大通りから最初の角を右へ折れた先、江戸町壱丁目の大店(おおだな)である。引手茶屋の若い衆に仲介してもらえば初会の客でも登楼可能だが、当然ながらその分あちらこちらに支払う金子が余分にかかる。もちろん、鼻からそんな金はない。二人して大門から大通りを眺めていると、実に色とりどり悲喜こもごもである。


「吉原の中にも質はある事はあるが」

「面倒でもよそへ行くでしょうね。変な所、見栄っ張りですから」

「だろうな。じゃあ、近い町から探すか」


 早々に大門に背を向け左之助が歩きだした。総司はもう一度大門を見上げて、すぐに左之助を追った。


「もう灯がともっているんですね」

「ああ、不夜城と言われてるが昼間も営業してるしな。一刻休んでまた客取らされて、女にとっちゃ、たまったもんじゃねえよな」


 吉原は、日本(つつみ)から衣紋(えもん)坂を上り、大門をへて引き合い茶屋が軒を連ねる大通りへと続いていく。浅草寺の裏手に当たり、門前の賑わいを抜けると辺りは田畑が広がっている。その中に一段突き出た土手の日本堤を辿るしか、吉原へ行くすべはない。のどかな田苑風景から一変、日本堤のこの一角だけはまるで様相が違っていた。


「ここからとなると、浅草門前の方でしょうか」

「どっちかってえと、そっちだろう」


 連れだって土手を歩いていく。袖すれ合うは皆、男衆ばかり。老いも若きも、町人も武家人も、皆一様に黙々と(あぜ)を辿っていく。その中を縫うように駕籠かきが威勢よく走り抜けていく。ふいに総司が呟いた。


「今日、道場に来た平治って人。ここで働いているんですよね」

「お、気づいてたのか?」

「思い出したんですよ。北洲って吉原の事だって聞いたことあったなって。つまり、あの文は、土方さんの…その、相手からって事ですよね」


 男所帯の中で育ったのが逆に良くなかったのか、ここまで女絡みの話を毛嫌いする若者も珍しい。それでも彼なりに理解しようとしているのか、その姿に左之助も真面目に答えた。


「そうだ。難しい立場だが、それでも土方さんの事を本気で心配して書いたんだろう」

「…お金で繋がった相手なのに、どうしてそこまで」

「金で繋がった仲だから、だよ」

「僕には理解できません。もっと理解できないのは、土方さんがそこまで想われてるのに、その人だけじゃないって所ですけど」

「ははっ、そりゃ人それぞれだな」


 左之助が明るく笑い飛ばす。その隣は相変わらずの仏頂面だが、それでも何か思う所があるのか、話を続ける。


「…そんなに良いもんですかね、吉原」

「なんだ? やっぱお前も気になってきたんだろう」

「よしてください。理解できないだけです。こうして厄介ごとに巻き込まれてるってのに」

「まぁ、あそこは夢を売ってるからな」

「まやかしの夢じゃないですか」

「いいんだよ、まやかしでも何でも。夢すら見られねえ奴もたくさん居るんだから」

「そういうもん、ですか」

「そういうもん、だ」


 やはり納得できないという表情で、総司はそれきり口をつぐんだ。口うるさく言いはしても、それをいつまでも引きずることはない。その潔い性格は皆に好かれている。面倒くさいこの青年を近藤は元より、結局歳三も左之助も気に入っているのだ。土手を歩く二人の影が、畦に長く伸びていた。




 しばらくして二人は、吉原に程近い浅草門前町に着いた。すでに西の空で赤く染まる日の光に急かされて、店じまいを始めた店も多い。とはいえ、江戸随一の観光地である。浅草詣でと吉原は一絡(ひとから)げであり、吉原の玄関口の役目も果たしている。しまう店があれば、これからが稼ぎどころと声を張り上げる店もある。質屋がそのどちらに当てはまるかといえば、大半は前者であることが多いだろう。つまり間もなく看板を下ろす可能性が高い。


 二人は二手に別れて店を探すべく、落ち合う場所と刻限を話しつつ道端へ寄ると、すぐ脇の店の木戸がガタタと音を立てた。人の出てくる気配に、邪魔にならないよう横の路地へ避けた所で、間もなく出てきた町人の、何気ない会話が耳に飛び込んできた。


「――昼間の二人、結局戻ってきませんでしたね」

「そうじゃな。ま、店に戻ってもうしばらく待つとしよう。何度も無駄足踏ませた詫びに、な」

「せっかく市谷まで文出したのに、無駄になっちゃったかなー」


 聞くともなく聞いてしまったその会話の最後の一言に、総司と左之助は顔を見合わせた。そして次の瞬間、二人同時に声を上げた。


「「今の話、詳しく聞かせてくれ(下さい)!」」

「――え?」


 鬼気迫る表情の彼らに、こちらに振り向いた青年と初老の男は、大きく目を見開いていた。


◇  ◇  ◇


 それよりさかのぼる事、数刻前。駒込の小さな神社境内に、八郎の低く抑えた声が響いた。


「俺の親父、…です」

「――は?」


 呆けた顔をする歳三を一瞥すると、八郎は父親へ向き直った。


「これは、何の真似ですか、父上。義兄はこの事――」

「秀俊は関係ないよ。父親が実の息子に会うのに、なぜ義理の息子の許可がいる?」

「それはっ」


 苦々しく唇を噛む八郎に、歳三はつぶさに相手を観察していた。伊庭秀業軍兵衛。心形刀流八代目、幕府御書院番士にまでなった元幕臣の剣豪だ。上司の失脚と共に職を辞した後、早々に家督を秀俊に譲りはしたが、今なお練武館で熱心に指導していると聞く。


(顔を拝むのは初めてか。まるで現役みてえな身体してやがる)


「とにかく、私はまだ…」

「もう十分、楽しんだだろう」

「っ…」


(一癖も二癖もありそうだな)


 冷静に状況分析を続ける歳三に反して、八郎は見る見る冷静さを失っていくように見えた。相手の誘導にうまく乗せられている。


「そろそろ戻って来なさい」

「――いえ、帰りません」

「何が不服だ」

「……」

「なに、わしは隠居した身だ。これからはお前の好きなようにすればいいだろう」


(? 道場も家督も義兄が継いだって言ってたよな)


「すべては可愛いお前のためじゃないか。どうしてわからない」

「…話すだけ無駄のようですね。――土方さん、行きましょう」

「あ? いいのか」

「八郎、話は終わっていないよ」

「私にはありません」

「そうか。――残念だ」


 そう言って後ろに控える男に目線を送った途端、それまで微動だにしなかった男たちが一斉に抜刀した。


「っ」

「…ふん」


 顔を歪める八郎に対して、ある程度予想できていたのか、歳三は小さく鼻を鳴らしただけだ。ゆっくりと八郎の背後に回り、男たちが現れた時のように背中合わせに立った。


「これは、何のつもりですか」

「言ってもわからない子には、躾が必要だろう? 痛い目を見たくなければ、大人しくすることだ」

「―――嫌だと、言ったら?」


 慎重に腰を落とし、臨戦態勢を取りながら八郎が静かに返したその問いに、秀業は口端を上げた。


「少し痛い目を見るかもしれないね」

「くそ…」


(何があったか知らねえが、いけ好かねえやり口だ)


 徐々に囲まれた円が小さくなり、滑るように秀業は円の外へ出ていく。八郎は注意深く辺りを見回しているが、まだ刀を抜く様子はない。それに合わせて歳三も柄に手を軽く置いた所で、ふと現実を思い出した。今更後悔しても後の祭りである。今回もまた脇差しに全てを賭けるしかない。ただ今は昼日中である。脇差しを抜けば即座にバレてしまうだろう。思わず噛み締めた奥歯がギリと鳴った。


「あ、そうそう。お友達もお相手して差し上げなさい。今後の参考のためにもね。後で駕籠を呼んであげようじゃないか」

「おいおい、俺は荷物扱いか?」


 片眉を上げた歳三が、薄い笑みを浮かべて軽くいなす。親子の会話には口を挟むまいと口をつぐんでいたが、ここで黙っている訳にはいかない。顔をしかめた八郎が肩越しに小さく囁いた。


「土方さん、挑発です」

「わーってるよ。…どうすんだ、やるのか」


 背中合わせで顔を寄せあい小さく耳打ちする。歳三としては売られた喧嘩は買う主義だが、今回は八郎の客である。つい先ほど己が放った言葉が逆の立場で自分に降りかかってこようとは、さすがの歳三も想定外である。


「連れているのは、うちの門弟が半分、全員幕臣の子弟です。下手に手出しできないのをあえて選んだんでしょう。残る半分もおそらく似たようなものかと」

「面倒くせえな」

「とにかく、突破口を開くまで凌いで下さい」

「わかった」


 内容は聞こえないだろうが、密談しているのは丸わかりである。その様子を見ていた秀業は小さく笑ってから声を上げた。


「段取りはついたかな? それじゃあ、八郎がお世話になってる試衛館の目録殿、お手並み拝見と参りましょうかな」

「くそっ、あの親父…」 

「はっ、舐められてんなぁ」


 あからさま過ぎる挑発に、歳三は苦笑するしかない。


「お手並みとやら、たっぷりと拝ませてやろうじゃねえか」

「すみませんが、色々面倒なんで殺さない程度でお願いします」

「わかってるよ」


 八郎がすらりと刀を抜いた。歳三は柄に手をかざしたまま、まだ抜かない。というより抜けない。つくづく刀を質になど二度と入れるまいと思うが、後悔先に立たず。誓いも猛省もとりあえず脇に置いて、ただ前を見る。


 口火を切ったのは、八郎の左側に居た男からだった。行儀よく「いざっ!」と声を上げてから大きく踏み込んできた。視界の端で捉えているはずの八郎はそちらへは反応せず、反対側へ身体を向けた。最初の男へ後ろを見せるような動きだ。


「取った!」


 男が振り下ろした刀は、そのまま派手な音を上げ後ろへ弾き飛ばされていた。打ち込んだ男は、持っていたはずの刀の行方を完全に見失っている。


「――どこ見てやがる」

「うぐっ」


 消えた刀に気を取られた男が次に見たのは、狙ったはずの八郎ではなく、眼前に迫った歳三の仏頂面だった。男が何か発するより前に、脇差しの柄を男の鳩尾(みぞおち)に鋭く打ち込んで沈めた歳三に振り返ることなく、八郎は明るく言った。


「お見事」

「ぬかせ」


 歳三が一人沈める間に、八郎は二人を地に転がしている。短い言葉を交わして、すぐ歳三も次の刀を捌いている。もちろん素知らぬ振りで抜いているのは脇差しである。二手三手と打ち合う様を横目で見た八郎の口元に笑みが浮かんでいた。


 数度打ち合えば、大体の力量はおのずとわかってくる。基本に忠実な型は綺麗だが、歳三の敵ではない。踏んできた場数が違う。はじき返した刀を持ち直す間に次の手を繰り出せる歳三に反して、どうにも刀に振り回されている感が否めない。


(こいつら、真剣扱ったことねえんじゃねえのか)


 道場での威勢はいいが、実践ではモノにならない輩も実は多い。竹刀と真剣では明らかな違いがあるうえ、触れれば必ず殺傷沙汰に繋がる。命のやり取りをする重みも覚悟しなければならない。戦乱の世では当たり前だったその覚悟も、今ではすっかり精神論のみが先行する傾向にある。太平の世と引き換えに、命のやり取りから遠ざかり過ぎた弊害と言えよう。そしてここに居る若者はいずれ、幕臣として将軍警護の任につくのだ。


(そりゃ講武所なんてもんが必要な訳だ)


 講武所とは幕府が昨今の外交、内政情勢にテコ入れすべく立ち上げた幕臣子弟御用達の武術道場である。教授方推挙で近藤が苦い思いをした例の道場だ。数年後、八郎が指導役として赴くことになるのだが、それはまだ先の話である。


 背中合わせの二人に死角は存在せず、お互いに正面と右手側だけに意識を集中することができる。いくら力量差があれど、一人ならば苦しかったかもしれない。二人が刀を振るう様は、八郎が流れるような所作なら、歳三は縦横無尽に飛び回り、そしていつの間にかまた背中がぴたりと合わさる。まるで違う動きの二人だが、その息は妙に合っていた。


(こいつとは、やり合いたくねえな)


 歳三はしみじみそう思う。安心して背中を預けられるという事は、己と同等か、往往にしてそれ以上の腕前である。確認するまでもなく、八郎が転がす数の方が多い。それは相手方が主に八郎を狙っていることにも起因しているのだが。


 二桁は居た秀業陣営は、幾何(いくばく)もしない内に立っている者が半分以下になっていた。反対にこちらは歳三の袖が少し切れただけで、まるで無傷である。それでも秀業の表情は先ほどと変わらず、むしろ満足そうに見えた。


「出ます」


 八郎が小声で言う。喧嘩は引き際が最も重要だ。機を逃すと勝てるものも勝てなくなる。そこに居るのは、浅い切り傷と打ち身ばかりとはいえ、みな満身創痍である。それでも秀業は薄ら笑いを浮かべ、彼らの戦う様を眺めていた。


 八郎は陣形の隙をついて大きくそこを乱すと、一気に囲みの外へ走り出た。歳三も目の前の男二人を豪快に()ぎ払ってからそれに続く。去り際、秀業を横目にちらりと見てそのまま駆け抜けた。後ろから焦った複数の声と、秀業の笑い声が聞こえたような気がした。



「あ~あ、まんまと逃げられちゃったな。お前たちもう少し持つかと思ったんだが…」

「申し訳ありません…」

「八郎殿はともかく、もう一人は誰です? あの者の太刀筋は無茶苦茶です!」

「んー、あれは天然理心流とも違うな。あえて言うなら我流…?」


 何故か楽し気に話す秀業を、門弟らは首を傾げるばかりである。


「――伊庭殿」


 ふいに背後の林の中から低い声がかかった。目を見開いている門弟とは逆に、さして驚いた様子もなく秀業は振り向いた。そこにはいつの間にか男が二人立っていた。


「あれが例の男やか」

「ええ、そのようです。どうかな、そちらの手の者で足りますかな」

「問題ないろう」

「では、うちの件もお忘れなきよう」

「承知しちゅう。では御免」


 黒ずくめの男達は現れた時同様、音もなく林の中に消えていった。口を開くこともできずにいた門弟の一人が、恐る恐る師匠に尋ねた。


「あの、今のは…?」

「んー? お友達のお客様だよ。知り合いに頼まれててね。ちょっとした顔合わせみたいなもんだ。――忘れなさい」

「っ、は、はい」

「よし、じゃあ行こうか。傷の手当もあるし」


 秀業は何事もなかったように明るく門弟たちを見回した。


◇  ◇  ◇


 駒込から山裾を抜け、果樹の間を通り中山道に出る頃には巣鴨に来ていた。さらに目的の店からは遠ざかっている。


「どうやら、追ってくる気はなさそうだ」

「はぁ、今日はついてねえなー。くそ」

「すみません、…ほんとに」


 息を整えながら、まばらな通行人に紛れて歩いた。のどかな午後の日差しはかなり傾いている。申し訳なさそうに頭を下げる八郎を一瞥すると、歳三は水筒を取り出した。二口ほど飲むとそのまま隣へ渡す。


「ありがとうございます」


 律儀に礼を言うと、八郎も喉を鳴らして水を飲む。袖口で軽く拭ってから返すしぐさはやはり育ちの良さを感じさせる。


 軽くなった水筒を懐に戻して、歳三は額の汗を拭った。ふいに切れた袖が目に入って、小さく舌打ちする。いつぞやの襲撃で斬られた箇所と寸分たがわぬそれは、防御の甘さを通告されたのと同義である。反省すべき動きを頭の隅に置いて顔を上げた。


「まぁ、手前のせいじゃねえしな。なんつうか…大変そうだな、あんたも」


 さすがに苦笑するしかない。歳三もお家関係では色々あったが、あそこまで話が通じない身内は居なかった。むしろ可愛がられて育った末っ子である。責任の重さも立場も違う。


「昔はここまで干渉されなかったんですが、道場に出るようになってからちょっとその、妙な方向に…」

「義兄ってのは、味方なのか? って、何で揉めてんのか知らねえけどよ」

「まぁ、お家問題としか。義兄は完全に俺の立場を理解してくれているので、それはいいんですけど。義兄もまだ父を御し切れてないというか、聞く耳持たないというか…すみません」


 言葉の端々だけで、容易に想像できてしまう。いつの世も血のつながりほど濃くて深いものはない一方、これほど厄介なものもない。身内だから許せる事、身内だから許せない事、その相反する感情は常に共存している。


「気にするな、その内なるようになるだろ」

「そう願いたいです」


 一陣の風が二人の間を通っていく。汗ばんだ身体に心地いい。自然と細めた目が、通りの先で風に揺れる暖簾をとらえた。街道沿いに軒を連ねる茶屋である。酒から甘味までなんでも揃っている。


「何か食うか」

「いいですね」


 あまりゆっくりもしていられないが、握り飯を分け合った仲である。互いの腹事情はわかっている。一つ返事でいそいそと暖簾をくぐった。




 しっかり腹を満たすと、茶をすすりながら八郎が切り出してきた。


「この先、別行動しませんか」


 父親の件を義兄に報告を兼ねて、これからのことを相談したいという八郎に、歳三は頷きを返した。確かに、歳三の方もここまで来ていれば文を出すより出向いた方が早い。


「俺は浅草門前に戻る。あんたは実家に行くのか?」


 腕組みをしたまま歳三が言うと、八郎は首を横に振った。


「いえ、外で会うつもりです。その後は…また試衛館へお邪魔してもいいですか」

「そりゃ、構わねえけど。いいのか?」

「ええ、どのみち戻りませんし。あ、ご迷惑でなければですけど」

「うちは来るものは拒まねえよ」

「良かった。俺、試衛館好きなんです」

「そうか。近藤さんが聞いたら喜ぶぜ」


 お互いに用を済ませてから、不忍池の茶屋で落ち合うことを約束して、護国寺近くで八郎と別れた。


「急ぐか」


 鬼足と言われた歳三である。その気になれば屁でもない距離である。町家が並ぶ通りに足を踏み出した。




(……二人)


 一人になってしばらくして、歳三は後をつけてくる気配に気が付いた。どちらの客か知るすべもないが、そのしつこさに閉口する。


(暇人かよ、一日付けまわしやがって…)


 (いら)つきは足取りに現れていた。行きかう人の多い町家通りを大股で歩く歳三は、すれ違いざま一人の男と肩が当たった。


「っと、悪い」


 何気なく口にして相手の顔を見て、歳三が眉をひそめる。直観が違和感を察知した。


「――あ~、痛えっ! 肩が外れちまったよ」

「は?」


(そんな訳あるか。なんだ? こいつ…)


 酔った風のその男は、大げさに肩に手を当て周りに聞こえるような大声をあげている。そのくせ、男から酒の匂いはしない。徐々に人の視線が集まる中、歳三は一瞬途切れた集中力に、慌てて後ろの気配を探る。


(どこ行った?)


 素早く辺りに視線も巡らせるが、集まってきた人に紛れてわからない。その間もぶつかった相手はある事ない事、大声を上げ続けている。


(力ずくで押しとおる事か…?)


 歳三も見た目は立派な武士である。未だ下手な大芝居を打っている目の前の男より、よほど身なりがいい。無精ひげに清潔さのかけらもない髷、くたびれた着物は上下とも黒一色。


(黒ずくめ…? ――まさか、こいつっ)


 歳三の頭に一つの可能性がよぎった瞬間、後ろから両腕を掴まれた。


(っ、しまった)


「揉め事は困るちや…ちいっと来てもらうが」

「おい、離せっ、俺は何もしていない」


 いつの間にか人混みの中に、同じ黒ずくめの男が二人、後ろから歳三の両腕を抑え込んでいた。その姿を確認し、疑惑が確信に変わった。


(こいつら…、いつかの夜の!)


 体格の良い男二人に腕を取られては、身じろぐのも難しい。苦し紛れに肘を打ち込むが、不発に終わった。


「離せっ! おいっ、どう見てもなんともねえだろうが!」

「言い訳は番所で聞くろ」

「番所だと!? 冗談じゃねえ、離せ!」


 あっという間にできた人垣は、気の毒そうに見守るものの、帯刀した武士相手に町人が口出しできるはずもなく、辺りを見回す歳三の視線を避けるように顔を俯かせるばかりだった。


「――くそったれ!」


 どこから出したのか後ろ手に縄をかけられた歳三は、引っ張られるように連れていかれた。ぶつかった男はいつの間にか姿を消していた。



◇  ◇  ◇


――ジジ…。


 行燈の灯のはぜる音が静かな店に響いた。狭い店内にありとあらゆる物が雑多に並べられている。その店の奥まった場所に、小さな椅子を並べて男が三人が顔を付き合わせていた。総司と左之助、それとこの店の店主だ。


「――じゃあ、その荒っぽい奴らに追われるように立ち去って、それきりか」

「ええ、丁度昼八つの鐘が聞こえたすぐ後でしたな」

「……」


 案内された店主の店は、二人が居た目と鼻の先にあり、見落としそうに小さな『質』の看板が掲げてあった。店に戻り説明するという店主に、もう一人の若い男は店終いがあるからと出てきた店の中へ戻っていった。今日、歳三の一件で知り合ったという二人は、彼らが去った後、互いの店を行来きするほど意気投合したらしい。何が縁を結ぶかわからないものである。


「お品を預かってすぐ、急に体調を崩しまして。しばらく店を閉めとる間に、あん人には何度も無駄足を踏ませてしもうたようで。すぐ買い戻すつもり算段やと伺ってましたのに、申し訳ないことをしました」

「なるほど。それで業を煮やした土方さんが、向かいの店の男に知らせる様、頼んでたと。――…今日受け取った文は、それか」

「………」


 総司は黙って小さく頷いた。朧気(おぼろげ)ながら線がつながってきた。歳三と一緒に居たという男は歳格好からして八郎で間違いない。いつ合流したのかわからないが、連れだってここまで来て居ても別段おかしい話ではない。八郎の実家と道場は、すぐ目と鼻の先である。


 それよりも気になるのが、追っ手だ。もし平治から預かった文の相手ならば、かなり厄介…というより、既に取返しのつかない事態に陥っている可能性もある。


「あの二人のことだから、取っ捕まってるってこたぁない…と思いてえが、こんな時分になっても戻って来てねえのは気になるな」


 外はすっかり夜の(とばり)が降りている。門前町でもこの通りは昼営業の店が多く、夜は人通りがほとんどない。


「明日も朝から店は開けるつもりではおりますが、どうにも昼間の事が気になりまして…」


 店主が小上がりの小さな座敷の奥から、一本の刀を出してきた。


「え、それっ…」

「あん人から預かったお品です」

「――…あ~あ、バレちゃった」


 目を丸くした左之助の隣で、総司が呆れた声を上げた。総司と刀を交互に見た左之助は、ようやく全てを理解する。


「あ~、そういうことか、そりゃ是が非でも買い戻さねえことには(らち)が明かねえわな。―――あ、ってことは、土方さん、今、何下げてんだ?」

「そんなの、決まってるでしょ」

「え。まさか…」

「そのまさかです」

「…嘘だろ、おい。この状況でそりゃねえわ。いやいや、ねえわっ」

「だから、馬鹿なんですよ」


 二人のやり取りを静かに見守っていた店主が、口を開く。


「本来は証文と引き換えですが、…わしはお二方になら預けてもええと思うとります。持って行きなさるか?」


 明後日の方を見ていた総司が、無表情に店主の方を見る。その先には畳の端に差し出された歳三の愛刀がある。目の前に置かれた刀を見つめて、それぞれ黙り込んだ。確かに不安要素は多く、何よりも必要としているのは間違いない。少しの沈黙の後、左之助が首を横に振った。


「――いや、申し出はありがたいが、あの人のもんを俺らが勝手に持って行けねえよ」

「…そうですか」

「心遣い、感謝する」

「いえいえ、こちらこそ不躾な事を申しましたな。どうぞお忘れ下さい」


 口を挟まない所を見ると、総司も左之助と同意見なのだろう。店主はそれ以上何も言わず、しばらく話をした後、明日も店を開けることを約束して、店の外で別れた。


 人気のない通りを歩きながら、左之助が星の瞬き始めた空を見上げた。


「居どころがわかんねえんじゃ、預かってもしゃーないよなー」

「まあ、戻るって言ってたんだから、本人がどうにかするでしょう。ていうか、腹減りました」

「俺も。よし、飯食うか」

「そうしましょう。手がかりがないんじゃ、探しようがない」

「そんじゃ、吉原行くかぁ」


 左之助が上機嫌にはなった言葉に、総司が目を瞬かせた。


「――は? あなた、何言ってんですか」


 一気に下降した機嫌を隠しもせずに総司が声を低くする。左之助は楽し気に総司の肩を抱き込んで笑った。


「いいじゃねえか、吉原。たいして美味くねえ料理に綺麗な女。言うことなしだろ?」

「言うことありありですよ! 左之さん、お一人でどうぞ。僕はごめんです」


 冷たく言い放って背を向けた総司を、左之助が慌てて追った。後ろから肩に腕を回し、顔を覗き込んだ。


「冗談だって! 俺だってそんな金ねえよ。まぁ、後で覗きに行きゃいいか。それならいいだろ」


 肩に回された腕をつまみながら、総司はわざとらしく息を吐いた。


「最初からそう言ってくれます? ほんとあんたって人は…」

「わりわりっ。はー、それにしても、よく大店なんか通えんなー、土方さん」


 小さく頭を掻くと名残惜し気に吉原の方向を振り返った。その様子を横目に総司はため息をついた。


「だから文無しなんでしょっ」

「ははっ、そういやそうか。通う男も大変だけど、花魁も大変だよな。客が付かなくても困るし、面倒臭えのに目を付けられても困るし」

「…花魁絡みって、まさか本当に女の取り合いですか」

「相手の方が難癖つけて来たんだかんな。あんまり土方さん、いじめんなよー? ――さぁ、何食うか」


 足取り軽く左之助が先導する。天下の浅草門前町。提灯に灯をともした店がいくつも見える。


「僕は腹に入れば何でも」

「おまえ、もう少しこう…」


 今度は左之助が嘆息する番だった。夜の浅草門前を男二人、連れ立って歩いて行った。





 夜五つ半頃、腹を満たした二人が、再び浅草門前を通りかかった時、例の質屋の前で男がしきりに戸を叩いているのが見えた。


「左之さん、あれっ」

「――おう」


 足早に近寄っていくと、木戸を叩いていた男が振り返った。


「―――八郎さん!」

「え、総司さん…と、原田さん? どうしてここに…」

「いやいや、そりゃこっちの台詞だ」


 目を丸くしたのは一瞬で、すぐに顔を険しくして八郎は二人に向き直った。


「土方さん、見ませんでしたかっ」

「え?」


 ただならぬ八郎の様子に、二人とも眉を寄せて真顔になる。


「何があった」


 左之助が重々しく言った。




  ― 第七章 ―


(あー…いてぇ)


 冷たい土の上に転がされてどれだけ時が経ったのか、少し気を失っていたらしくよくわからない。鐘の音が聞こえた気がするが、はっきりと意識が浮上した時には聞こえなくなっていた。黒ずくめの男らは、宣言通り番所に歳三を連れて行った。そこで形だけの尋問の後、問答無用で身体を打たれた。もちろん、無実を訴えたが、どうやら男らと番人は通じているらしく、鼻から話を聞く気がなかった。


 番所に連れて来られた時点で、腰の指し物と所持品を奪われた。懐に、愛刀を買い戻すための金を忍ばせていたのが裏目に出た。こちらの言い分を聞く気のない輩にかかれば、それはぶつかった相手からすった金だろうと言われた。あまりの馬鹿らしさに閉口してしまったくらいだ。


 天井近くにある、太い格子の小さな窓から月が見えた。どうやらずいぶん遅い時分のようだ。座る気も起らず、地面に転がったまま、上を向いた。かび臭いそこはろくに掃除もされないのだろう。喉が渇いて懐に手を伸ばすが、何もないのを思い出して上げた手を目の上に置いた。


 番人は歳三の大刀が竹光だったことを、笑いものにした。取り上げられたのだ、当然その軽さにすぐ気づかれた。無駄な事を思いつつ、それを買い戻すための金だと説明したが、当然ながら鼻であしらわれてそれきりだ。


(……金、戻ってくる気がしねえな)


 番所詰めの役人は、賄賂(わいろ)にまみれている。もちろん、番所に限った事ではないが、汚い金が世にはびこっているのが現実だ。金にも財布にも所持人の名前などない。己の金だと主張したところで馬鹿を見るだけである。


(――もう、どうでもいい)


 おそらく、歳三の思い浮かべた連中が裏で手を回して、番人を取り込んだのだろう。黛本人からの文の一件をまだ知らない歳三は、やり合った相手が一国の主であることを知らない。知った所で手段を講じることが出来たかというと疑問が残るが、少なくとも心構えはできただろう。打たれた身体があちこち悲鳴を上げる中、歳三は考えるのを止めた。それきり物音ひとつ聞こえなくなった。


◇  ◇  ◇


 八郎と合流した左之助と総司は、思いつく場所を探し回った後、試衛館に戻ってきていた。八郎の話では、暮れ六つに落ち合う約束をしたが、半刻すぎても一刻過ぎても現れず、嫌な予感に歳三が向かうはずだった質屋を訪ねて来たのだという。先に質屋へ来ていた二人は歳三が戻っていないのを知っている。


「何かあったのは間違いないな」

「――別れるべきじゃなかった」


 八郎が唇を噛み締めて言った言葉は、総司が首を横に振った。


「いや、どのみち狙われていたのを知っていたんですから、相手の手に落ちたのならあの人の落ち度です」

「…まあ、とにかく探そう」


 厳しい顔を崩さないまま、三人は吉原へ向かった。向かう道すがら花魁からの文の件を話して、八郎も昼間の一件をかいつまんで説明していた。


「どっちもこっちも面倒臭えことになってんなー」

「すみません…」

「八郎さんのせいじゃないですよ」


 そうは言いつつ、眉間に皺を刻んだまま、総司は先頭を歩いていく。ほどなくついた吉原で、平治を呼び出してもらうが、空振りに終わる。花魁本人と話したい所だが、おいそれと会える相手ではない。何かわかれば知らせてもらうよう平治に頼み、三人は吉原を後にした。それからいくつかめぼしい箇所をめぐり、足取り重いまま市谷へ帰ってきた。


「遅かったな、飯はもう食ったか?」


 出迎えたのは、近藤だった。


「ん、歳は一緒じゃないのか」

「近藤さん…、あの」

「八郎さん、部屋行こうぜ。近藤さん、お休み」

「…ああ。ゆっくり休めよ」


 近藤は一瞬怪訝そうな顔をするものの、笑顔を部屋へ戻っていった。事態が動いたのは、翌朝だった。


「土方さんが番所預かりに?」


 早飛脚がもたらした一報は、衝撃的なものだった。屋敷の長として受け取った文は近藤の手に渡る。朝から近藤の自室へ呼び出された八郎達は、その内容に目を見開いていた。想定される中で、最悪と言っていいだろう。歳三本人の状況は書かれていないが、到底無事とは思えない。


「歳が身元引受人として、俺を指名している。もちろん、すぐに迎えに行くが、…お前たち、何か知っているんじゃないのか」


 ぐっと息を詰まらせた八郎を横目に、左之助が口を開いた。




「――そうか。大体わかった。とにかく歳が心配だ。すぐに出る」

「私もお供させて下さい!」


 八郎が腰を上げた近藤にすがるように進言した。その隣では総司も同じように頷いている。左之助はじっと黙って近藤を見ていた。


「では八郎君、一緒に来てくれるか。…あとの二人はここで迎える準備を頼む。風呂を沸かして、床を用意してやってくれ。客間を使っていい」

「わかった」


 何か言いたげな総司を左之助が手で制して頷いた。近藤はすぐに背を向けて部屋を後にする。八郎は急いで二人に頭を下げると、近藤の後を追った。


◇  ◇  ◇


 明るい朝の光が辺りを照らす中、近藤と八郎は小石川にいた。門番に近藤が名乗って用向きを告げると、不躾(ぶしつけ)な視線を上から下まで浴びせられた。横柄な態度で、そこで待つ様に言うと門番は屋敷内に消えた。


 四半時ほど待たされた後、ようやく出てきた番人が中へ案内した。終始笑顔を絶やさない近藤と違い、その後ろに付き人よろしく付き添う八郎は、(はらわた)が煮えくり返りそうになるのを必死で押し殺していた。明るい場所から一転、瞬きを繰り返してようやく見えてくる薄暗いそこに、歳三は居た。対して広くない土間のど真ん中に、寝ているのか背中を向けたまままったく動く様子がない。


「市谷試衛館主、近藤勇とはその方か。こちらで預かっている、土方歳三の身元引受人に相違ないか」


 その声に歳三の身体が、ぴくりと揺れた。近藤は平身低頭頷いた。


「相違ありません」

「ふん、多摩の百姓ふぜいか」

「確かに私は百姓の生まれですが、今は近藤家の跡目を継いでおります」

「百姓が田舎から金を集めて、道場経営か。えらくなったもんだな」

「…恐れ入ります」


 近藤はゆっくり頭を下げる。八郎は呆然と立ち尽くしていた。小石川と言えば、幼い頃より慣れ親しんできた地元の橋向こうである。大名屋敷に囲まれた町で生まれ、武家人ばかりと接して育ってきた八郎にとって、目の前のやり取りは身分というものをまざまざと突き付けられた瞬間だった。


 とはいえ、すべてを飲み込んでいる近藤の努力をここで無にする訳にはいかない。八郎は視線を地面に落とし、ぐっと唇を噛み締めていた。そこでようやく八郎の存在に気づいたのか、番人が近藤にいくつか署名を促してから、その後ろをちらりと見て言った。


「そちらは誰だね」


 横柄な態度のまま八郎へ問いかけてきた。八郎はどう答えたものか示唆したが、正直に答える。


「近藤道場に世話になっている、伊庭秀業が嫡男、伊庭八郎と申します」

「――は?」


 番人が口をあけたまま、目を見開いて固まった。


「えっ、あの、い、伊庭…って、御徒町の練武館の…?」

「ええ、そうですが…」


 その驚き様に若干驚きつつ、八郎が頷くと同時に気怠(けだる)そうな態度は一変した。


「伊庭八郎殿とは知らず、大変失礼いたしました!」

「…は」


 呆気に取られたのは八郎の方だった。あっという間に歳三は番所預かりを解かれ、人が変わったかのように米つきバッタのごとく頭を下げられ、丁寧に門の外まで見送られた。不信感しか沸かない八郎だったが、近藤は実に柔軟な対応をした。最初と変わらぬ態度を取り続け、番人にも後から慌てて出てきた番所役人にも丁寧に頭を下げ、歳三に肩を貸して番所を出た。


「さあ、帰ろう」

「…勝ちゃん、すまねえ」

「何を言う。当然だろ。さ、駕籠を呼んでくるから、少し待ってろ」

「あ、それなら私が」

「いいから、いいから」


 そう言うと近藤は路地裏に消えた。塀にもたれる歳三を明るい場所で改めて見た八郎は、そのまま絶句した。


「土方さん、酷い怪我…っ」

「大したことない」

「どこがですか!」

「骨はやってねえ」

「そういう問題じゃ…」


 それでも言い寄る八郎を手で制すると、そのまま顔を覆って重い息を吐きだした。事情を聞くまでもなく、番人らの態度からも冤罪の匂いがぷんぷんしている。


 そして近藤に対する態度と、八郎の身元が分かってからの態度。八郎がつい昨日歳三に食ってかかった事は、すべて現実となって重くのしかかっていた。すべてを飲み込んだ上で、態度を変えなかった近藤は尊敬に値すると思うと同時に、どうにもならないやるせなさが身の内に降り積もっていく。


「すみません…って、謝って済む事じゃないですけど」

「あんたは、関係ないだろ」

「……」


 半日前に少し近づけたと思った歳三との距離は、以前より開いてしまったように感じた。元から近づいたつもりで居たのは八郎だけだったのかもしれない。これ以上、八郎が何をどう言っても、慰めにすらならないのだけは痛いほどわかった。


◇  ◇  ◇


 同日、品川の下屋敷にて。朝の(みそぎ)を済ませたばかりの容堂の元へ、深尾が挨拶に訪れていた。


「なんだ、やけに早いな」

「例の田舎侍ですが、少しばかりご報告が」

「…おい、下がれ」


 容堂は上座に座ると、脇息に持たれて小さく手を振る。控えていた侍従らが、頭を下げて部屋を辞していく。ぴたりと襖が閉められた所で、容堂が口端を上げた。


「朝早くから押しかけてきたからには、良い知らせなのだろうな」

「相応には」

「ふん。――申せ」


 深尾の落ち着いた声で部屋が満たされて行く中、容堂に暗い笑みが浮かんだ。


「ははっ、番所で夜を明かしたか。胸のすくことよ」

「都合よく小石川でしたので、手筈通りに相応のもてなしをしたと報告が」


 江戸の治安を守る奉行所の役目も持つ番所は、交通の要所ごとに置かれている。その重要度によって役どころは違うが、時に身元不明者を番所で預かることもある。それを悪用した。正当な(まつりごと)においても、貢物で心証を良くするのは、人の古来よりの知恵である。ましてや後ろ暗い事案となれば、金が物を言うのは当然といえば当然だろう。地獄の沙汰も金次第、とは言いえて妙である。


「昨夜の仕置きは相当堪えた様です。さすがに、しばらく大人しくなるかと」

「深尾」

「はっ」


 容堂は帯に差した扇を手に取ると、口元を覆って声を潜めた。


「しばらく…でわしが満足すると思うておるのか?」

「いえ、とんでもない。承知しております」

「なら良い」


 扇をぱちんと閉じると、容堂は未だ笑いをかみ殺していた。


 主君の部屋を辞して畳廊下を行く深尾の背後に、音もなく一人の従者が近寄ってきた。深尾は歩みを止めぬまま抑揚のない声を上げた。


「何だ」

「小石川からの報告に、追加がありました」

「追加?」

「はい」


 そこで足を止めた深尾が、素早く辺りを見ましてから脇の小部屋へ従者をうながした。使われていない小部屋はとりとめのない調度品が、所狭しと置かれている。自らも部屋に入り、深尾は静かに障子を閉めた。深尾が振り返るのを待って、従者は畳に片膝をついて頭を下げた。


「今朝、迎えが二人出向いて、かの者を放免したと先ほど知らせが」

「それはなんとも、手ぬるいな。今しがた、殿に報告した所なのだが?」

「申し訳ありませんっ。…ただ、ひとつ面白い事実が判明しました」


 深尾は目線で続きを促した。


「かの者の所持品を押収した際、大刀が竹光だったそうで。事と次第によっては使える情報かと」

「竹光、なるほど。分不相応な振る舞いのツケだろう。所詮、武士気取りということだ」

「ええ。あと、昨夜の〝もてなし〟の程度ですが、番太に任せていたと言う事で、どの程度だったか確認中です」

「早々に解放したのでは、あまり期待はできぬな。それで、迎えの二人とは?」

「はい。一人は本人指定の道場主、近藤勇なる人物。もう一人は意外な人物でした」


 ここで初めて深尾の表情にわずかな変化が現れたが、それもすぐに消えた。


「その者の名は」

「伊庭八郎と名乗ったそうです」

「伊庭八郎? 練武館の(せがれ)の方か」

「はい」


 深尾は顎に手をやり少しだけ黙ると、おもむろに顔をあげて言った。


「確か、伊庭道場には協力を頼むと言っていたな」

「はい。昔の伝手で協力を得られたと、報告がありました。そちらは昨日昼に接触したはずかと」

「ふむ」

「ただ、その際の報告にも伊庭八郎の名がありました。昨日はこちらが接触する直前まで、かの者と行動を共にしておりました」


 深尾は片眉をわずかに上げると、従者を見下ろした。


「伊庭はこちらに協力するのではないのか」

「それが、前当主である秀業の単独行動のようでして。何やら事情があるとかで嫡男である八郎は、少なくともここ数日、近藤道場で寝起きしています」

「その事情とやらはどうでも良い。協力が得られたのなら、それでいい。報告はそれだけか」

「いえ、あの小石川の対応が…その」

「なんだ?」


 言葉を濁した従者は深尾の温度の感じない視線に、再び頭を垂れて報告を続けた。


「予期せぬ伊庭八郎の登場で、対応に当たった番太らが…、その」

「はっきりと申せ」


 淡々と声を紡ぐ深尾に、家臣はさらに深く頭を下げる。


「伊庭八郎の名に覚えがあったようで、文字通り、〝丁重に〟放免した、と」


 床につきそうなほど首を垂れる従者を見下ろしたまま、深尾は深い息を吐いた。


「…下手を打たれては困るな。殿の立場上、やるからには徹底してもらわねば。ただでさえ、今は殿にとって大事な時だ。お前もわかっておろう」

「はっ。承知しております」


 深尾はおもむろに視線を上げた。見つめる障子の先には、先ほど辞してきた主君の部屋がある。


「殿の火遊びにも、困ったものだが…」


 謹慎中の身では行動に制限がある。本来なら無暗に出歩くこともままならない。申し開きのできない行動は控えるべきとはいえ、鬱憤(うっぷん)を晴らしたい気持ちも理解できるだけに、深尾としては実に頭の痛い事案だった。感情をそのまま表す容堂に対し、影のように付き従う深尾は静そのもの。常に冷静沈着な静でありつづけている。彼の采配は一切の私情を挟まない。深尾は表情を変えぬまま、頭を切り替えた。


「それにしても、郷士は使えぬ。そうは思わぬか」

「はっ。おっしゃる通りです」

「うむ、今回の番所の件、そなたに任せる。しかと〝処理〟するように。次の手立てを早急に考えよ。殿はこの程度の〝もてなし〟では、満足されておられぬ」

「――はっ」


 未だ頭を下げたままの従者に背を向けると、深尾は障子を静かに開けて部屋を出て行った。


◇  ◇  ◇


 駕籠に乗せられて帰ってきた歳三の状態は、酷いものだった。本人も言っていた通り骨折こそなかったものの、容赦なく浴びせられた打ち身のいくつかは皮が破れ、血が滲んでいた。着物に隠された部分はさらに酷く、内出血で赤黒く腫れあがっており、帰りつくなり歳三は気が緩んだのか高熱を出して寝込んでしまった。


 近藤は今朝の宣言通り、客間の一室を歳三にあてがい、交替で看病をした。歳三の容体が落ち着いた頃は、数日が経っていた。隠しきれない歳三の怪我は、門弟らの間で様々な憶測をよんだ。近藤は改めて左之助らに話を聞いた上で、門弟と食客を集めて事の経緯を説明をした。その内容はごく簡単な物だったが、有無を言わせぬ「一切の他言、詮索無用也」の一言で皆押し黙る他なかった。



 歳三は、熱が下がってからの回復は早かった。体調が段々と良くなるにつれ、それに反比例するように、一人考え込む事が多くなっていった。部屋に籠りがちで、たまに姿を見かけても近寄りがたい雰囲気で、次第に孤立していった。気晴らしに身体を動かそうと、誰かが道場へ誘いに来ても首を縦に振らず、人の輪から離れて部屋へ引きこもっていた。


 そんなある日、前触れなく総司が部屋に現れた。


「着替えて下さい」


 歳三の目の前に稽古着を放り投げると、その前に仁王立ちになった。怪我から実に半月近く経っていた。すでに総司は稽古着姿で、つまりそれの意味するところは、一つしかない。


「…気乗りしねえ。てめえで勝手にやれ」

「ああ、もう鬱陶しいな。着替えないなら別に構いませんけど、あなたが行くのは決定ですから」

「はあ?」


 ずっと不機嫌さを隠しもせず、それでも黙って歳三の面倒を見ていた総司は、ついに我慢の限界を迎えていた。そのまま、押し問答を繰り返して、最後は歳三が妥協した。


「しつけえな、お前はっ。ったく、行くだけだからな」

「はいはいはいはい。早くして下さい」


(はいが多いんだよっ)


 礼節を重んじる近藤の持論では、道場は神聖な場所である。毎朝、神棚に手を合わし、礼を尽くしてから稽古を始める姿を、歳三はずっと見てきた。渋々出向くとはいえ、最低限の礼儀は持ち合わせている。歳三が寝間着から稽古着に着替えるのを、総司は静かに待った。



 ほどなくして二人は、道場へ足を踏み入れた。久し振りの歳三の登場にざわつくも、先に入ってきた総司はいつもの笑みがない。板の間の中ほどに立ち、振り返った総司は歳三に向かって言い放った。


「お相手願います」

「――…おい。話が違うぞ」

「僕は元からそのつもりです。早く構えて下さい」

「…俺ぁ、戻る」


 顔を歪めると、歳三は背中を向けた。その背に被せるように総司が追い打ちをかける。


「いつまで、被害者面しているつもりですか」


 足を止めた歳三の肩がピクリと揺れた。誰かの息を飲む音が聞こえたが、口を挟む者はいない。その場に居る誰もが、手を止めその成り行きを見守っている。


「いい加減、その辛気臭い顔、うんざりなんです」


 ついに歳三がゆらりと振り返って、総司を見据えた。その目には、沸き立つような怒りとも苛立ちとも思える灯が燃えていた。掠れた声を絞り出す。


「――…てめえに何がわかる、クソ餓鬼」

「そのクソ餓鬼に、言われっぱなしで良いんですか? ねえ、大人な土方さん」


 いつの間にか道場にはほとんどの顔ぶれが揃っていた。左之助、新八、斎藤、源三郎に、近藤。さらにその数歩後ろ、戸口に隠れるように八郎がいた。水を打ったような静けさが辺りを支配する。


(この剣術馬鹿がっ。こっちの気も知らねえで)


 一歩も引かないまま睨み合うと、ついに歳三が壁の木刀に手を伸ばした。それを見た総司は、今日初めて笑みを見せると、くるりと道場を見回して言った。


「誰か、審判をお願いします」

「――俺がやる」


 進み出たのは、いつになく神妙な顔をした新八である。


「ずいぶんと鈍ってるでしょうから、僕が三本取る間に、土方さんは一本でも取れたら勝ちでいいですよ」

「…好きにしろ」


 肩を回す総司に背を向け、歳三は木刀を持つ手を何度か握っては開いて、その感触を確かめるにとどめていた。


(何を迷う事があるってんだ、俺は)


 着物の下に隠れていた痣は、ほとんどが黄色く輪郭を残すのみに変わっている。多少の違和感は残っていても、身体を動かすのに問題はない。歳三の中にあるのは、漠然とした焦燥感と、どうしようもないやるせなさだ。何をする気にもならず、だらだらと過ごしていた。このままでは駄目だと自分でもわかっている。


『あがいても結果が同じなら、すべて無駄ではないか』

『侍の真似事をしたところで、真似は真似でしかない』

『剣以外に生きる道が、この俺にあるのか』


 いくら考えても答えのでない問いを、数えきれないほど自問自答を繰り返した。己の進むべき道を見失いかけていた。歳三をこの場に引きずり出した総司は、病み上がりだからと言って、手を抜くような男ではない。承諾したからには、本気でかかるしかない。下手を打てば、また怪我人に逆戻りだ。


(くそっ、気持ちが定まらねぇ…っ)


 気づけば人だかりは遠ざかり、総司と二人向かい合っている。


「では、お願いします」

「……」


 揺れる気持ちのまま、小さく礼をして木刀を構えた――。 




「そこまで!」


 静かな道場に新八の声が響いた。軍配は総司に上がっていた。総司の圧勝である。


 歳三の迷いは剣筋に如実に現れた。まるで勝ちに行く気迫がなかった。木刀を構えてはいたが、自ら打ち込むことはほとんどなく、防戦一方で勝てるはずもなく、容赦ない攻めに呆気なく勝敗がついてしまった。負けず嫌いな歳三のこと、さぞ悔しかろうと思いきや、眉間に皺を寄せていたのは、総司の方だった。


「――あなた、ふざけてるんですか」

「…ふざけてねえよ。無理やり連れて来たのはお前だ」

「総司、やめなさい」


 疲れ切った顔で木刀を壁に置いた歳三に、食ってかからんばかりの総司を制したのは、近藤である。それでも何かしら口を開こうとする総司を、近藤が首を横に振って制した。それを視界の端でとらえていた歳三は、そのまますべてを振り切るように背を向けた。道場を出て行こうとする歳三の、進路をふさいで誰かが前に立った。顔を上げた歳三は僅かに目を見張る。


「お前っ…」


 八郎だった。歳三は、八郎は試衛館に居ないものと勝手に思いこんでいた。その彼の登場に、少なからず動揺してしまった。実は熱が高い頃に彼が様子を見に来ていたのを、歳三は知らなかった。意識がはっきりしてからは、八郎自身が忙しく試衛館を出たり入ったりしており、単純に顔を合わせる機会がなかったのだ。歳三の目の前に立った八郎は、一息に言った。


「あなたに仕合いを申し込みます。獲物は真剣で」

「何?」

「いつかの続きを、お願いします」

「あれは…っ、やるとは言ってねえぞ」


 目つきを鋭くする歳三の背後がざわつき始める。真剣を使った稽古は、そう珍しくない。実戦主義の天然理心流では、真剣を用いた稽古も定期的に行っている。だが、今の歳三に提示する条件としては、いささか驚きを隠せない。たった今、総司と繰り広げた一戦は、戦意の有無を差し引いても明らかに精彩を欠いていた。半月近く、道場に背を向け部屋に籠っていたのだ、当然の結果である。ざわめきが広がる中、意外な人物が声を上げた。


「よし、その仕合い認める。俺が審判をしよう」

「は?」


 近藤である。唯一この場を(いさ)める立場の人間が、進んで仕合を許可したことで、一気にその場が色めきたった。


「歳も総司もそれでいいな」

「…近藤さんが、そういうなら」

「……」


(あんたが出てくるかっ)


 総司は渋々頷くとそのまま背を向け、道場を出て行った。眉間に皺を寄せたまま、歳三は八郎を無言で睨みつけている。物言わぬ歳三を、近藤は無言の肯定とみなすと、さっさと仕合いの準備を進めていく。


「ちょ、近藤さんっ、いいのか?」


 粛々と真剣稽古の準備が進められる中、困惑の声を上げたのは、先ほど審判を務めた新八である。その後ろで、幾人か同様に頷きを返している。それらを一蹴するように、近藤が未だ睨み合う歳三と八郎の肩に手を置いて、顔を覗き込んだ。


「もう傷は大丈夫なんだろう、歳? なあに、窮すれば通ずと言うじゃないか。な、八郎君もそう思うだろ」


 近藤がにこやかに笑みを向けるも、八郎は歳三から視線を外さない。その視線を受け止め続けていた歳三は、ふいに目を伏せて深い息を吐きだした。その歳三の前に、道場を出て行ったはずの総司が進み出た。


「これ、貸し一つですから。これでも腑抜けたことするようなら、いっそのこと僕が刀のさびにして差し上げますよ」


 物騒な言葉と同時に目の前にすっと掲げられたのは、総司の愛刀である。軽い口調とは裏腹に、総司の目は真剣なままだった。総司の後ろでは近藤がにこにこと頷いている。


 総司は歳三と近藤の関係を羨むような事をたまに口にするが、歳三に言わせるとまるで見当違いである。兄弟のように一緒に過ごしてきた師弟は、時には言葉すら必要としない。今がまさにそうだ。歳三は目に見えない物は信じない主義だが、心と心が繋がっているとしか思えない事に幾度も遭遇しては、認めない訳にいかない。


 近藤の〝声なき声〟を受け取った総司が、部屋からわざわざ持ってきたのだ。確かに未だ歳三の大刀は預けたままになっている。そしてそれは同時に、歳三の愛刀の現状を、近藤が知っているということを示している。あの日、番所で奪われた所持品は、財布の中身以外は戻ってきた。それを受け取ったのは他でもない、近藤である。大刀の正体に気づかない訳がない。それでも近藤は何も言わなかった。


 そして、今、目の前に出されたそれにも近藤は何も言わない。歳三はそんな近藤をまともに見ることができず、背を向けると、総司に小さく頷いてから出された刀を手に取った。久々に手にする大刀の重みが、ずしりとその手にかかる。もうこれで後には引けない。


 二人が仕合いの準備をする間、左之助が脇に控えた近藤に、つつつ、と近づいて耳打ちする。


「なぁ、いつから知ってたんだ?」

「ん? 何をだ」

「土方さんの刀の事だよ」

「あ~、そのことか。気づかん訳ないだろう。何年一緒に居ると思ってるんだ。最初から知ってたさ」

「さすが、近藤さん」


 軽く言い放った近藤に素直に感服していると、ふいに近藤が歳三の方を見て小さく呟いた。


「馬鹿だよ、あいつは。…何に金が要ったか大よそ想像つくが、それにしてもだ。素直に俺に頼ってくりゃ、それくらい都合つけてやったものを。あの意地っ張りめ」


 そう言った近藤の横顔は、怒っている様にも寂しげにも見えた。左之助も近藤の視線を追って、新八と何やら言葉を交わしている歳三を見て、ふっと口端を上げた。


「あの人から意地を取っちまったら、もうそりゃあの人じゃねえだろ」


 その言葉に、近藤は目を丸くして左之助を仰ぎ見た。強面な顔に、意外と人懐っこい笑みを浮かべた。


「確かに、そうだ。こりゃ左之助に一本取られたな」


 そう言うと二人して声を上げて笑った。




 ほどなく腰に大小携えた二人が、道場の中央に立った。その横には審判役の近藤が立ち、よく通る声で言った。


「これより真剣仕合いを行う。決定打となる一打を寸止め、その一本をもって仕合い終了とする。では、――始め!」


 開始の合図と同時に互いに間合いを取り、腰を落として対峙する。二人から一切の表情が消え、相手のいかなる動きも見逃さない構えだ。真剣を扱う場合は、居合いも有効である。実戦で大きな打撃となる居合いは、真剣でしかできない。それもあってか、どちらもまだ抜くそぶりを見せない。


 否応なしに、歳三も気持ちが高ぶってくるのを感じる。総司に言われたからではないが、気を抜いて扱えるほど、刀は甘くない。しかも対するはあの八郎である。病み上がりには、少々荒療治すぎる相手だ。どちらも絶妙な間合いを保ったまま、じりじりと円を描くように移動していく。


―――キィン!


 先に抜いたのは歳三だった。僅かな迷いが太刀筋に現れ、キレに欠ける一刀は軽い動きで弾かれた。反対にすぐさま二手、三手と打ち込む隙を与えてしまう。僅かな息使いと、金属の打ち合う音が辺りを満たしていく。


「くっ…」


 どれもギリギリで凌ぐものの、反撃の糸口はまるで掴めない。鈍った己の身体を嫌でも痛感する。実は握力と腕力の鍛錬だけは続けていたものの、稽古不足は否めない。そしてそれは、足に現れた。 僅かな隙をついたはずの反撃の一手に、頭が思い描いた場所に足が居ない。遅れた踏み込みは中途半端な一打となって、その分相手に付け入る隙を与えてしまう。


 甘い一打は、高い音を響かせて横へ大きく弾かれる。胸が開いて重心を失った身体は、無防備極まりない。もし実践で複数を相手にしていたなら、そのまま袈裟斬りにされていたかもしれない。とっさに後ろへ飛びのく事ができたのは身体に染み付いた反射のようなものだが、八郎はさらに上手だった。


「甘い」

「っ!」


 一足飛びに歳三の懐深くまで踏み込み、重い一打を見舞われた。かろうじて顔前で凌いだものの、体勢を整える暇を与えない猛攻は、一切の容赦はない。歳三は意地だけで八郎の刀を押し返すと、今度こそ大きく間合いを取り、改めて刀を掴みなおす。


「はぁ…はぁ…」


 たったこれだけで、息が上がっている。情けなくもこれが現実である。先ほどからこめかみがチリチリと傷み始めている。一瞬の判断が命取りになる、まさに真剣勝負だ。先日見た八郎の刀捌きとは別物だった。あの時、八郎が手を抜いている事に気づいていたが、おそらく今も全力は出し切っていない。一方こちらは、いつ手足が飛んでもおかしくない。悔しさが焦りとなり滲みでてくる。


 歳三がぎりっと奥歯を噛んだ瞬間、八郎が一息に踏み込んできた。何とか受け止めはしたが、手が痺れるほど重い。なのに重さを感じさせぬ素早い動きで、どこまでも歳三を翻弄していく。


―――ギィンっ…


 一際大きな金属音に、気づけば歳三の喉元に刀が横一文字に添えられていた。弾かれた歳三の刀は、剣先が床に向いて垂れ下がっていた。


(ここまで、か…?)


 負けの二文字が頭をよぎるが、近藤は口を開かない。歳三が何かを思うより早く、八郎の怒声が耳をつんざいた。


「――こんなもんじゃないだろう! あんたの力は!」


 大きく顔を歪めたその叫びは、歳三を縛る何かも一緒に吹き飛ばしていった。代わりに腹の奥底から反骨心が膨れ上がる。


「くそったれ…っ!」


 零れ落ちた言葉と同時に、柄を握る手に力が入る。八郎の左脇を狙い、逆手に持った柄頭を打ち込むが、素早く反応した八郎の肘で防がれる。だがそれは歳三の誘い手だった。不発に思われたその手に握っていた刀が、カランと床へ落ちた。


「――っ!」


 歳三の予想外の行動に、八郎にこの日初めての隙が生まれた。柄を避けた拍子に下がった剣先を交わして、歳三が八郎の懐深くに入りこむと、逆手で八郎の右手首を掴むと同時に身体を反転させた。ここまで、瞬きするような僅かな時間である。そして次の瞬間、八郎の足先が浮いた。


―――ダァン!


 かなり強引な体勢からの背負投げである。すかさず受け身を取った八郎は、背中が床についた途端、その勢いのまま、ぐるりと攻守を入れ替えてしまった。「あっ」と誰かの声が聞こえた時には、今度は歳三が床に背を預け、片膝をついた八郎が上から覆いかぶさるように、大刀を突き付けていた。


 そこでようやく近藤が手を上げた。


「そこまで! ――両者、相打ちとする」


 近藤の声は、息を呑む道場の隅まで満ちて消えた。仕合終了を告げても道場は静まり返っている。


「え、なんで――、…あっ!」


 誰かの困惑した声がこぼれ落ちると、すぐにそれは驚きの声に変わった。床に背中をつける歳三も、その左手で脇差しを八郎の脇腹に突き付けていたのだ。短い脇差しの利点を生かして、逆手で抜いていた。その事実にようやく気付けた周りが、一斉に声を上げた。


「なんだなんだ、どうなった! 俺、目瞑っちまったよ!」

「よくわかんねえけど、凄え!」


 それを遠くに聞きながら、近藤に促されて二人がようやく力を抜いて立ち上がった。最初の八郎の一刀は打ち込み不足だった、と説明があった。確かに添えられただけでは、決定打とは言い難い。興奮した様子で湧き上がる仲間に囲まれて、歳三は乱れた息を整えるべく深く息を吐きだした。総司が拾い上げた刀を手に近づいてきた。歳三は殊勝に頭を下げて、腰から大刀の鞘を抜いて返す。


「済まねえ、投げた」

「別にあれくらい大丈夫です。…まあ、さっきよりはましだったんじゃないですか」

「嫌味にしか聞こえねえな。刀、恩に着る」

「礼なら、あちらにどうぞ」


 その言葉に振り返ると、八郎が歳三をじっと見据えていた。こちらもすでに刀を納めている。


「お見事」

「…抜かせ」


 いつかと同じ会話を交わすと、八郎の顔に笑みがこぼれた。色々と思う所はあるが、歳三も自然と笑みが浮かんでいた。周りが異様な興奮状態にある中、八郎は笑みを湛えたまま口を開く。


「やっぱりあなたは強い。勝ったと思ったんですけどね。――また仕合って下さい。今度は竹刀か木刀で」

「嫌なこった」


 即答する歳三は、ふてぶてしい表情をしていたが、八郎は今度こそ声を上げて笑った。


「困った人だなぁ」

「手前にだけは言われたくねえ」


 どこかで歳三の全快祝いだ!と歓声が上がり、これまでのうっぷんを晴らすかのような大騒ぎだ。そんな仲間に囲まれた歳三を、総司は呆れ顔で、近藤は目を細めて眺めていた。







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