8 : Finger
ハワイ島北部、コハラ。貴重な原生林が多く、渓谷の生み出す絶景にも評判がある。生い茂った草や低木林が陽の光を浴びて、辺り一帯を緑に染めていた。
大海原とコアの樹林との丁度境目に当たる切り立った崖に立つ、飾り気の無いウエットスーツ。ベルは顔面を覆うゴーグルを外してチューブの繋がった防水リュックに入れ、窮屈そうな黒髪と髭を外へ出した。
ザパァッ――高さ何十メートルもの水柱が岸のすぐ傍から出現した。上下に狭い視界に途切れている。
見上げると、頂点に人の姿――腕と腿が露出し、股に食い込む黒いハイレグの水着。陽光を纏い、明るい赤毛と振り上げられる拳――
跳び退く。直後、下されたパンチが立っていた場所に、半径数十センチメートルの土を押しのけ、クレーターを作っていた。
「これはこれは、発達だけは良いじゃじゃ馬と来たか」
濡れた髪をかき上げるスペイン系の白人女、イザベル。塩分を三・四パーセント含む水滴が、緩やかなカーブを描くボディを流れ落ちる。陽の光を浴び、反射させて肌の柔らかみを強調させる。
明るい赤毛と競泳水着もしっとり濡れており、黒く染まった布地が白い肌とのコントラストに。
「このエロオヤジ。ジロジロ見て、ぶっ飛ばしてやる」
そう言われて黒髪と髭の中年男性は、自分が胸の膨らみを自然と見ている事に気付き、顔を笑みに歪めた。向こうは歯を食いしばった顔。
「生理的反応だ、仕方ない。ロサンゼルスへ行った時に会ったスラヴ系の女の方が可愛げがあったがな」
「うるさいうるさい!」
逆鱗に触れ、白く華奢な掌を向けられる。仄かにピンク色を帯びているのは血の気か……
「熱っ?!」
気を取られている最中、人体を構成するタンパク質など簡単に変性させてしまう高温を瞬時に察知し、ベルは退こうとした。
が、逃げた先も尚暑い。頭皮から額を伝い、目に掛かろうとしていた汗を拭おうとした。
瞬間、右足で地面を踏ん張った女性の、左横蹴りが腹を突き飛ばす。
背中を硬い物体にぶつけ、追い詰めに来た女が更に殴り掛かる。ベルが頭を両腕で覆っても尚、拳骨がすり抜けて顎やこめかみを打ち抜いた。
男が背にした木が浸透した衝撃によって砕かれ、後方に倒れ込む。すかさず追撃の前蹴りが炸裂。
むくりと起き上がるが、灼けるような熱気が皮膚を刺す。近くに生えている、膝にも及ばぬ丈の細い葉の雑草が煤を散らして燃えていた。五メートル前方、静かに歩み寄る赤毛の女。
「どうやら広い範囲に至るまでサウナに出来るらしいな。ハワイじゃなく北欧の文化だと思ってたが」
「うるさいエロジジイ! 黒コゲにしてやる!」
突如、右脇腹に熱い感覚が走った。その後じわじわと襲い掛かる激痛に対し右手で押さえる。苦し紛れに左掌を向け、地面を蹴る若い女性目掛けて音波を仕掛けた。
靴でブレーキを掛け、半歩左に、上半身を同じ方向へ傾ける。ベクトルを与えられた音波の束が頭の横を空振り、戻しながら前進、勢いを乗せた左フック。
「俺はフリフリチキンという訳か。人を臆病者扱いするとは良い度胸だ」
「あたしは原形を留めさせるくらい生易しくはないよ」
「気の強いのはあまり好みではないが。とはいえ、身のこなしもナイスバディも気に入った」
バァン!――耳鳴りと痛み。衝撃波に頭が揺れる。
反射的に閉じた目を再び開いた時、歪んだ視界の中心に靴裏が迫っていた。
覚束ない腕でブロックしようとするが、腕の間をすり抜けた蹴りが男を十メートル後方へ飛ばした。
後頭部を強打し、平衡感覚が消える。ふらつく四肢で立とうにも上手く起き上がれず、四苦八苦している内に、口は悪いナイスバディが左脇に立っていた。
バババババ──大量の空気の破裂。直接的なダメージは精々爆風で煽られる程度だが、爆音は聴覚どころか三半規管をも蝕む。
倒れまいと一歩後ろに下がろうとしたその時、重い痛みが頭頂部を地面へ叩き落とした。
未だ残る痛覚に抗い、本能的に地面を転がる。片膝を着いて体勢を立て直した時、色白でスラッと長くしなやかな足、V字の生地が食い込み、足の長さと色気を引き立てる――先端、靴底がベルが寝ていた所を踏んでいた。
「爆竹かよ。脅して本命は接近戦闘という訳か。ガキの脳は発想力が良いもんだねえ」
ムクリと身体を起こしたその時、男の周りに出現した光の玉――イザベルにはエネリオンの塊である事は分かっている。
それぞれの方向から音波が一斉に向かってくる。ベクトルを察知し、前へ飛び込む。複数の大気の揺れが通りざまに水着を掠め、肌の産毛が微かに震えた。
草の上を転がりつつ距離を詰め、残り二メートル殴り掛かろうと握り拳を身体の後ろに、溜めた。
直後、イザベルは背中に吹き付ける爆風に煽られ、身体が前に投げ出される。ほぼ同時、目の前の中年男が差し伸べた掌から、振動によって圧縮された空気塊が一直線に……
「いてて……クソがっ!」
十数メートル飛んで背中から不時着した水着姿の女性は、色気の欠片も無く捨て台詞を吐いた。白く綺麗な手を握って土を殴り、膝立ちになりながら噛み締めた歯を見せる。眉も谷型になっていた。
「その鞄には何を隠しているんだ?」
「言うもんか」
「割らせてやるぞ。その股も同時にな」
「このっ!」
イザベルの啖呵を皮切りに、両者が同時に両手を差し向ける。
男性の周辺で発火点に達した草木が不景気な花火を上げ、女性の周りを耳障りな高い轟音と向かい風が吹き付けた。
「変わった部屋だな」
それが菱型の幾何学模様が描かれた糸状の暖簾をくぐった時の、アダムの第一声だった。
少年の網膜に映っているのは、赤や茶系統の家具で彩られた部屋――かつては少数のイスラム教徒の為に建てられたロサンゼルス郊外のモスクだが、第三次世界大戦の壊滅的な人口減少と、世間的な宗教の不信感により誰も訪れなくなり、トレバー=マホメット=イマームが譲り受けた。
「イスラム美術だ。千五百年前から続くアラブの工芸らしい」
「規則的な模様だな」
「インドやギリシャからの影響でアラビア数学も発達したらしい。他にも錬金術を目的とした化学実験や天文学のルーツでもあったといわれている」
壁際の狭いテーブルにも側面に格子模様付きグラスに覆われたランプが飾られている。
赤いペルシャ絨毯を踏み、応接間と思われる向かい合ったソファーの前に来た所で、トレバーが「座れ」と大きな手で示した。何の抵抗も無く指示に従った白人少年に対し、アラブ人は更に部屋の奥へ。
見上げると、天井にも重なった雪の結晶型の模様。戻ってくる一歩一歩は遅くとも重い足音が耳に入ってきた。
差し出されたのは濃い赤褐色の水だった。そして大柄な大人は大きく膝を曲げて、反対側に座った。
「紅茶か?」
「そうだ。水出しだが。トルコではチャイと呼ぶ」
飲もうとグラスを顔に近づけようとしたが、立ち昇る芳醇な香りを鼻にして思わず運ぶ手を止める。まずは一口。
「味が薄い代わりに匂いが強いな。渋みも強くないか?」
「香り重視だ。茶葉の発酵次第で味わいも変わる。イスラム教ではコーヒーや酒は禁じられているからこの文化が発展したのだろう」
紅茶を喉に流しながら流れる話を耳にし、三分の一を残して口を開けた。
「イスラム教?」
「アラブの主な宗教だ。裕福な商人が多い地方だから厳しい戒律が特徴的だな」
「トレバーもそれを信仰しているのか?」
「柔軟に取り入れる事が重要だ。水のようにな。どんな容器に対しても形を変えられる」
アダムは突如黙り、茶を持っている事も一瞬忘れていた。その言葉に聞き覚えがあったからだ。かつてイエローストーンにある管理軍施設を襲撃する前、アンジュリーナが言った事に似ていた。
武術を教えてくれているハンやクラウディアも同様、柔軟さが大事だと説いていた事も覚えている。あらゆる事も本質は同じなのだろうか……
「アダム、この頃はどうだ? 記憶は取り戻せたか?」
考える暇も無く話題が振られる。冷酷なトレバーも威厳もあってか、不意打ちされた少年は流れに乗せられる事となった。
「まだ分からないが、今は別の事で疑問がある」
「何についてだ?」
「少し前、管理軍の工作員が自分を誘拐しようとした。アンジュはそれを止められた筈なのに止められなかった、と自分に責任があるかのように言っていた。アンジュは人が傷付くのは見たくないとは言っていたが、」
青い瞳は焦点が合わないかの如く泳いでいる。
「人は何かを見ようとする時、一つのものに集中する。だがそれでは本質は見えない」
「本質?」
言われて視点が定まった。
「道を示す指に捕らわれていては、目的地には辿り着けない。宗教のようなものだ。多くの人物は目的を失い、ただ標識に従うだけだ。そうやってこの世の中からは宗教は前世紀よりすっかり廃れた」
百九十センチメートルもの体躯も相まって、トレバーの彫りが深い顔はただでさえ凄みを帯びているが、午後の夕陽が陰影を付け、更に強調させる。
「他人だけを見ていては何も掴めない。球体だって裏側は見えないし、中身なんて論外だろう。全体を、真実を見通せ。相手は何を見ている?」
「自分だ」
「そうだ。結局は何事も自分の中に問題がある。アダム、スプーンをどう曲げる?」
黒い瞳が呼び掛けるが、少年は小首を傾げた。
「力を加えて折るのではないのか?」
「その為には自分がどう力を加えるのかを考えなければならない。スプーンは自分で曲がる訳ではない、曲げるにはまず自分からだ」
彼自身が小柄な為か、大人は少し上を向き、こちらを俯瞰しているようにも受け取れる。
「だが自分が分からないんだ。どうやって知れば良い?」
今度は助けを求めるように上目遣いのアダム。
「自分を見るには鏡を使わなければならない。他の観測地点が必要だ。少なくとも、アンジュから探らなくては」
「トレバーは何かアンジュの事を知っているのか?」
暖色系のガラス細工多数が窓の光を遮る中では、陰のせいか眉間に皺が寄っているようにも見える。
「残念ながら、俺にも分からない。彼女自身もそれを直したいとは言っていたがな。どうにかしてアンジュの心を開く事だ。まずはそうしなければ何も始まらない」
「どうやって?」と何も言わず黒い瞳を覗き込む。しかしそれだけでは真意は見えない。
「少なくともアダム、彼女は自らお前を助ける道を選んだ。それだけでも手掛かりになるだろうし、アンジュに近付いているという証拠でもあるだろう。お前にそれだけの何かがあるという事だ。因果関係、それこそがかつての宗教に足りなかったものだ。何事も繋がっているのだ」
疑うように一瞬躊躇いを見せるが、アダムは無言で頷いた。
「さて、本題だ。実戦での動きも良かったとハン達からは聞いた。クラウディアからも稽古をつけられているそうだな」
「ああ」と即座に返事。一拍して、トレバーは続けた。
「ならば後は実戦を磨くだけだ。戦い方を知るには戦うのみ」
「色々試したい武器もある」
「良いだろう。使える物は多い程良い。即座に武器を選ぶ判断力も必要だ。早速やるぞ」
頷きながら流れるように言っていくアラブ人は部屋の奥の方を指し、指の延直線上に位置する木製のドアをアダムは確認した。