5 : Satisfaction
ロサンゼルスの中心部近く、チャイナタウン。
西海岸という位置的な特徴から、百五十年以上昔からのアジア系の移民が多く、特に中国系はメキシコ系移民に次ぐまでの人口だ。
第三次世界大戦前まで移民は行われており、中では百年以上も店を続けている者も居る。中華料理屋や道場は特に盛んだ。
その中、一軒の中華料理屋の建物があった。黒が基調の外壁に、赤い円窓の縁取りや屋根瓦。正面入り口の上に立て掛けられた看板には【三幸】と赤い文字で書かれていた。
店内の一角のテーブル席にて、三人のトランセンド・マンの姿があった。
まずは大きな茶碗に箸を突っ込み、茶色いスープの中から白い麺を掴み上げている青い髪の少年。彼は左手でれんげを持ち、ラーメンのスープも同時に飲み込んでいった。
次にその隣の席、れんげで黄色い卵や赤いエビやカニ、緑の野菜とカラフルに彩られたチャーハンをれんげを使って、一口一口味わう大人しげな灰髪の少女。
最後に、二人の向かい側で対面する彼らを眺めながら、テーブル中央にある大きな皿に乗った、豚肉やイカ、エビやウズラの卵、他様々な野菜に、とろみのあるあんの掛かった八宝菜を、自分の持つ小さな皿へ移す黒髪の青年。
「ハン、メインディッシュを忘れるな。腹十二分目まで食わせてやる」
「ありがとうワンさん」
ここの店主である黒髪の比較的小柄な、白いコック帽とエプロンを着たアジア系の中年男性が、お盆に乗った料理を運んできて言った。今度は続けて二人の少年少女へ向けて言う。
「アンジュ、君みたいな可愛い娘が来てくれたらうちの宣伝にもなって助かるよ。餃子を一個おまけしといた。アダム、今日ここに来てから麺をすする音しか聞こえないな。ほら、お前さんの好きな角煮も持って来たぞ」
「あっ、ありがとうございます!」とアンジュリーナが笑顔で、「ありがとう」と無表情で、それぞれ礼を述べる。ワンと呼ばれた中華系の男性は少女の元に、皮がパリパリに焼けた餃子が六個載った皿を、少年の方へは、焦げ茶のタレに脂身が多い豚肉や茶色く染められた煮卵の入った大きめの茶碗を、置いた。
アンジュリーナはテーブル中央から小瓶を一つ取り寄せ、小皿へスプーン一杯程内部の赤茶げた液体を注いだ。外壁がこんがり焼け水蒸気を発する餃子を、箸で一個つまみ液体へ浸ける。
汁を馴染ませ、そして口の中へ、
「あああちちっ!」
料理を配ったワンは意表を突かれ笑った。当人は熱さを我慢しようと口を手で押さえる。向かい側のハンはテーブル端の紙ナプキンを一枚素早く取って、少女へ渡そうとした。
対するアンジュリーナは空いている左手で拒否を示し、喉がゴクリと動いた。途端、少女はホッと息をつき、今度は息で餃子を冷ましてから食すのだった。
「誰だって最初食べる時は舌を火傷するんだけどどうしてだろうな。やっぱうちの料理はそれだけ食欲がそそられるのかな」
「でも私はいつも同じ失敗ばかりしてる気が……」
凹む少女の隣では、アダムが茶色い角煮を頬張っていた。
(中まで味がしっかり染み込んでいるな。弱火で長時間煮込んだのだろう。タレは甘味と旨味以外に少し酸味もあるようだな。酢か? 同じく染みた卵やチンゲン菜をタレに絡ませるのも良い)
「本当にアダム君は食事を美味しそうに食べるわね」
「相変わらず無口だな。感想文は原稿用紙何枚必要かな?」
少女の感心と、中華系店長の冗談。店長は続けて言った。
「まだこんなもんじゃねえぞ。胃袋を広げてやる」
と言い残し、ワンは店奥の厨房へ去った。残った三人で会話が始まる。
「ハンさんはあまり食べないんですか?」
「いいや、月餅を貰おうと思って。あれ結構腹に溜まるからさ」
「あれ一度に食べる物じゃない気もしますけど……」
「まあ他を食べない訳じゃないけどね」
するとハンは目の前にある、鮮やかな赤いスープで埋まった丼へ箸を突っ込み、細かく刻まれた唐辛子が所々絡み付いている麺を口へ運ぶ。
「辛くないんですか?」
「これくらいが丁度良いかな。舌がピリピリするくらいが性に合う。これにだけは刺激は譲れないね」
赤い汁の担々麺からは湯気が出ているが、同時に辛味成分が揮発している。匂いを嗅いだアンジュリーナは思わず咳き込んだ。
「ほ、本当に大丈夫なんですか?」
心配する少女だが、関係無く中華系青年は麺をズルズル吸い込み、真っ赤な汁までれんげで口へ放り込む――ハンの額に汗が見えた。
「これくらい辛い方が汗が流れて健康に良い。元々そういう魂胆の料理だしね。夏バテは良く効くんだ」
「これからの季節丁度良さそうですね」
「それに昔から食べてきているから慣れたもんだよ」
会話のきりが良い所で、ハンはすかさずテーブルの真ん中に置かれてあった唐揚げを一個箸で取り、サクリと音を立てる。
「ハン、この前の血液検査はどうだった?」
と、唐突に言ったアダム。彼の右手が箸をテーブルに置いた所を見ると、麺が無くなったのか。
少し前、アンジュリーナの料理を手伝った時、アダムは自分に何かを注射されるという自身の記憶と思われる事を喋った。そこでアンジュリーナは、ストーン医師へその注射された物体を調べて貰っては、と提案したのだ。
ハンは戦闘指揮や事務、チャックは医師、という双方のバックアップ的な職業柄によって、この二人が度々顔を合わせる事は頻繁にある。それを短い経験の中で知っている少年は、ハンが何か知っていないか問うのだった。
「物質の構造については見当は付いたけど、それがどういった役割を果たすのかは分かっていないらしい」
チャック・ストーンの能力は「有機物合成」であるが、有機物に関するミクロ的な知覚も可能だ。有機物とは炭素、酸素、水素、窒素、といった少ない種類の物質で構成されるが、組み合わせはほぼ無限大といっても過言ではない。そのため、構成や性質を知るのには手間が掛かる。
「他に何か分かっている事は?」
「まだまだだね」
ハンが首を横に振る。すると、テーブルへコック帽の姿が現れる。
「仕事の話は仕事中にするもんだぞ。お前は真面目過ぎる」
「ハハ、すみません」
「それ、私の料理を食えば嫌な事なんて忘れるぞ」
ワン店長はお盆から皿を三つ下ろした。まずは赤茶色の鮮やかな麻婆豆腐。次に皮がパリパリに揚がった春巻き。最後に笹の葉で包まれ湯気を周囲へ発散するちまき。
躊躇無しでアダムは春巻きにかぶりついた。ハンは麻婆豆腐を自分の小皿へよそい、粉末の一味唐辛子をまぶした。熱々の餃子との戦いにアンジュリーナは決着を付けると、今度はまたも熱を帯びるちまきへ手を出す。
笹の皮を剥き、前回の反省を踏まえて、中にあった白い餅に息を吹き掛けてからかじり付く。
「んー、中の肉美味しいですね」
「そうだ、ストーン先生にお土産を持って行こうか。ワンさん、このちまきお持ち帰りも頼みます」
「あいよ」と一つ返事で店長は厨房へ戻った。この後、三人は更なるデザートまで平らげ、満腹を覚えるのだった。
場所は変わって、反乱軍の拠点とするロサンゼルス郊外の軍事基地。
北の丘陵方面には、かつて世界中で栄えた映画産業があった証である事を表す【HOLLYWOOD】の白い看板。この先には反乱軍の有する敵情報観測システムまで存在する。
そんな荒野の景色を拝めるというのに、その部屋に居た人物は外の窓に見向きもしない。彼には見慣れた光景であり、そもそも彼の興味はそんな事には無いからだ。
少なくとも彼、赤毛の横に広い医者、チャック・ストーンの興味は壮大な景観よりも目の前の小型化された電子顕微鏡にある。小じわも目立ってくる四十代の男性の筈なのに、その茶色系統の瞳だけは子供の如く若々しく輝いていた。
この軍事基地では兵士の居住や兵器の管理は勿論、研究までも行われている。チャック自身は医者という身分ではあるが、生化学に適した知識と能力から軍事研究にも積極的に参加している。動機はほぼ自分の興味によるものだが。
「ストーン先生、少々面白い事を発見しました」
「何だ?」
弟子と思しき白衣を来た若い男性が、実験器具がごちゃごちゃに並んでいる、部屋の片隅のコンピューター画面を見ながら言った。アイルランド系中年男性は顕微鏡から目を離しながら問う。
「これ、一種の触媒みたいな反応をするみたいです」
「触媒? どんな反応だ?」
「これを見てみて下さい」
弟子がディスプレイを指した。人差し指で画面に触れ、画面が開く。
「まず静電気を送った時の物質の反応を映像にしたです」
液晶内には分子の構造図を表した3DCG。炭素原子は黒、酸素原子は赤……という具合に色付けされ、それらが棒で枝のように複雑に繋がっている。
ところで画面では、外部から来た、可視化された球状の小さな電子を物質が受け取り、白く塗られた電子は分子に引っ付いたかと思うと、突如ある一定の方向へくっついた電子が放出された。
「電子を操る分子マシンの一種か?」
「みたいですね。電気を送って神経か何かに刺激でも与えてるのでしょうか?」
「それくらいしか使い道は思い付かんしな……神経を刺激して潜在能力を引き出すとか?」
「ですがこんな大きな分子なら分解されず血中に長い間残っているのにも説明が付きますね」
「だな……」
チャックが黙り込んだのは、一旦話に整理をつけるためだろう。彼の目は、ぼうっとコンピューターの表現する図を向いていた。
「……しかしただ電子を放出するだけなんて、それだけだろうか?」
「と、言いますと?」
「例えばこれが一種の記憶媒体みたいな役割を持ってるとか」
すると中年男性は画面の一箇所を指し示す。そこには数字が枠内に並ぶ表だった。
「この物質が出す電流、人間のニューロンが出すレベルと同じくらいかそれ以下だ。こんな量では脳に大した刺激なんて与えられるだろうか?」
「……しかしではこの物質は何のために?」
「うーむ……例えば別にその物質を利用するナノマシンがあるとか?」
二人が同時に顔を見合わせた。どちらの瞳孔も活き活きと開いている。
「ならばアダム少年に直接来て検査して貰わねばな。何があるんだろうな」
瞳を好奇心に光らせ、チャックはまた一人電子顕微鏡の元へ向かうのだった。それを見て弟子が「この人意外と子供っぽいな」と考えていたのは知らなかったが。
弟子の方は窓の向こうに見える【HOLLYWOOD】の白い看板を見た。そして腕時計型端末に目をやると、デジタル数字が昼の二時過ぎである事を知らせていた。
「って僕達まだ昼ご飯食べてなかったですね」
「ん? そういえば確かに。先に昼食っといて良いぞ」
と言い残し、チャックは続いてコンピューターの前の席に座る。それを見た部下は、呆れの混じった目線で上司を眺め、ストーン医師の分のご飯は何を買って来ようか、と考えながら部屋を出るのだった。