1 : Infant
まずはお前を知れ。
眩しい。目が開かない。
光と涙で何も見えない。手探りで辺りを調べる。
柔らかいものが皮膚に当たった。温かい。
向こうがこちらの手を握り返した。人の手だろうか。
顔が見たい。だが光に満ち溢れ、見えない。
「どうして眩しいんだ?」
握る手の脈拍が速まった。困惑しているのか。
「えっと、眩しいの?」
答えたのは、推定二十代以下の女性であろうトーンの高い声。きっと彼女にとっては普通の明るさなのだろう。
「そうだ」
答える。眩しくて良く見えなくとも、おおよその動きは分かる。見回し、何かを探しているらしい。
「これでどう?」
顔に何か柔らかい物体が覆い被さる。それがタオルである事は見るまでもない。目へ刺さる光が消えた。
ところで疑問がある。
「何故手を握っている?」
「えっ? あっ、ごめんなさい……」
何故か彼女は戸惑いながら謝った。直ちに手のほのかな圧力が消える。
知りたい事はまだ沢山ある。
「ここは何処だ?」
「医療テントよ。まだじっとしてて、貴方頭を強く打たれたのよ」
頭を殴られたのは覚えている。だが、あの時は速過ぎて何が起こっているのか良く分からなかった。
「外は乾燥した砂地みたいだった。地域は?」
「ち、地域?」
どう答えようかと慌て、あたふたしているのが口調と動きで読み取れる。
「カルフォルニア北部の砂漠地帯だ。」
代わりに、とでもいうように落ち着いた男性の声が答えた。
「砂漠……何故そんな所に?」
「説明してやりたいのは山々なんだが、話すべき事は山程あるし、その前に色々やらなければならん事もある。少年、まだ起きたばかりで体が辛いだろう。だから今は休めよ。医者としての命令だぞ」
向こうの声が低くなる。余程込み入った内容なのだろう。
「分かった」
「よろしい。アンジュ、すまんがまだ彼の相手をしてやってくれんか? まだ仕事が残っててな」
「えっ? はい、大丈夫です」
少女の返事に男性は安心したように息を吐き、ゆっくりとした足音が遠ざかるのが聞こえた。
滲んだ涙はまだ引かなかった。
「貴方の名前は?」
再び少女の声。リラックスし、警戒心が一切感じられない。
「私はアンジュリーナ・フジタ。アンジュって呼んでいいわ」
名前……確か……頭が痛い。
「……アダム……それが名前だ……」
何かが脳内に浮かんだ。
「……苗字は……アンダーソン……そう呼ばれていた……」
確信はない。
「アダム、良い名前ね。『管理軍』ではどんな事をしていたの?」
相手は信じてくれている。自分ですらまだ疑っているというのに。
それよりも、思い出そう。
大量の戦闘員と思われる人間やロボットが、追ってくる。
逃げていた。だが、逃げられなかった。
他には何も無い――頭痛がする。
「何も分からない……」
少なくともこうして対話するための知識はある。目に被さっている布の名前がタオルだという事も知っている。カルフォルニアが北アメリカ大陸の西側にある事も。
しかし自分に関する事が全く分からない。名前以外は。
手が勝手に、小刻みに震えていた。
「何も覚えていないの?」
「……自分は誰なんだ?」
息が苦しい。雑音がうるさい。暗い。
教えてくれ!
「落ち着いて!」
悲鳴の如き少女の訴え。その時。手が何か温かく柔らかい物体に触れた。
それは右手を握り、震えを抑えた。
「大丈夫、落ち着いて。私の脈が分かる?」
一秒に一回、感じる――息が自然とそれに合わせていた。
静かになる。光を浴びてもいないのに、明るい。
自身の心拍が下がったのが分かる。呼吸のペースも遅くなっていく。
「貴方を助けてあげる。今はまだ思い出せないかもしれないけど、きっと少しずつ思い出せるわよ」
左手でタオルを取った。視界が白く包まれた。
見えた。灰色の目と灰色の長い髪……
アンジュリーナは目を閉じた少年へと毛布を掛け直した。今度はすやすやと眠る姿を見て安心し、手を毛布へ入れてあげた。
「寝たみたいです」
「そのようだな。やはり私の考えは間違ってはいないらしい」
「考え、ですか?」
少女に訊かれたチャックは、疲れを忘れて得意げに語り始めた。
「前に言ったろう、この少年は赤ん坊と同じだって事だ。さっきの行動を見るだけでも分かる。外界と繋がるための知識はあっても、実際に今まで外界なんかと関わりを持たなかったに違いない」
医者の生き生きとした得意げな口調は、次第に真面目さに変容していた。アンジュリーナも次第に引き込まれてゆく。
「彼は記憶が無いって言ってました。きっとその事も関係するんでしょうか?」
「記憶喪失だってのは聞こえたよ。しかし、人格的なものは記憶を失っても残るのだ、本来ならね。記憶は電気信号だが、人格というのは成長過程の環境に左右される。要するに記憶と人格は殆ど別物なのだ。つまりあの少年は記憶が無いどころか人格を形成する機会が一切無かったという訳だが……」
話を一旦止めたチャック。自分が言いたい放題なので、若者がついて行けているのか確かめようと思ったのだ。それを察知したアンジュリーナは「大丈夫です」と頷き、チャックは再び口を開いた。
「で、あの少年についてだが、さっき彼の遺伝配列を調べた結果が出たんだ。戦闘中に電源が切れなくて良かったよ」
医師は近くの椅子に腰掛け、机の上にあるコンピューターの液晶画面を指差して言う。アンジュリーナは立ったまま画面を眺めた――長い二重螺旋状の構造。隣に並ぶアルファベットの羅列。
「遺伝子配列の結果で分かったのが、彼が『トランセンド・マン』であるという事だ」
「やっぱりそうだったんですか?」
「そうじゃなきゃ説明出来ん事もあるだろう。しかし、興味深い所もあった。これを見てくれ」
チャックの眼球の動作を認識する視線ポインタによって、画面に表示された二重螺旋の構造物が動く。やがて動きは止まった。
「この部分だ。分かるか?」
「ええっとー……」
少女の困惑した反応も無理はない。素人にいきなり専門知識を教えたってどうせ覚えない。自分勝手に進めていたチャックが反省しながら言う。
「すまんすまん、説明する。生物のDNAが四種類の塩基からなるのは知ってるだろ?」
「はいそれは、アデニン、グアニン、シトシン、チミンでしたっけ……」
殆ど専門用語で埋め尽くされた画面を見ても、アンジュリーナにはさっぱり分からない。
そこでチャックが指を画面に置き、素早くタッチ――新たに表示された六種類の画像。分子の構造を示す立体CGだ。
「この右四つは生物なら皆持っている塩基だが、問題はこの左二つだ……」
何故か間を置いた中年の医者。気分が高ぶっている、というより緊張しているように見えた。
「未知の構造物だよ。DNAの検査は性質が決まっているのを利用するから、条件に当てはまらないこれらがどんな構造かは分からないがね」
「それじゃあ、彼はそのDNAのせいで何か異常でもあるんでしょうか……」
「可能性は否定出来んな。まあここにある装置では分からんし、帰って詳しく調べるとしよう」
「そうですね……あっ、皆さんもう撤収準備が大分終わっているみたいです」
「おおそうか。話に夢中になっていたな」
椅子から重い腰を持ち上げるチャック。先にアンジュリーナは近くの道具類をまとめ始めていた。
「テント片付け終わりました。他ももうすぐ終わります」
「そのようだな。皆、ご苦労さん。早く帰ってゆっくり休もう」
ハンが疲れに気を緩めながら大勢の兵士達に向かって言う。群衆は「終わった」だの「疲れた」だの言いながら散らばり、それぞれの車両に乗り込んだ。
「レックス、君も良くやってくれた」
「いえいえ、なんのこれしき。スクランブル発進なら俺にお任せありです。そういやリョウはどうしたんです?」
手を横に振ったレックス。ついでに、という感じでハンに訊いた。リョウの姿は仮設基地の片付けが始まってから一度も見ていないのだ。
「さあね、まだストレス発散足りてないだろうし……先に帰っているんじゃないか?」
「ハハハ、あいつらしいや。さて、俺達も帰りましょうや」
「そうだな」
振り向けば、荒野の向こう側からオレンジの光が差し込もうとしている。もうすぐ太陽が顔を出すだろう。
ふと、朝日の方面、黒い人影が一つこちらに歩み寄っていた。目を凝らすと、黒い瞳が二人を見返している。
「ハン、言っておきたい事がある」
低くて落ち着きのある、大柄なアラブ系の人物からの多少ボソボソした声。抑揚は無かった。
「勿論だ。君が自分から言ってくれる事は正しい事と信じているよ」
微笑む柔らかなアジア人の声が迎えたが、トレバーの表情は固く、簡単に変わりそうにない。雰囲気に打ち負け、自然と二人まで難しい顔になっていた。
「ハン、考えてみろ。敵基地を奇襲し大打撃を与える筈だった。だがこちらが襲撃された時、相手は少なくともこちらの戦力を上回っている程残っていた」
「……まだ何か隠されているとでも言うのかい? それじゃあこの作戦は……」
「責めるつもりはないのだが、まだ秘密が多く残っている筈だ。あの少年や、俺が持ってきた死体だってそうだろう」
無機質な断言はただ現実を伝えるだけ。しかし、ハンは見えない圧力に頭を押さえていた。
「……二か月も前から練ったというのに、入念に調べたつもりだったのに……犠牲者をこんなに出す上にまだ判明していないことがこれだけ出るとは……」
「自分を責めないで下さいや、“指揮官”殿。俺だってもっと早く来ていりゃ……」
独り言で押し潰されるハンを見かね、慰めようとレックスが声を掛ける。深呼吸してハンは「大丈夫だ」と手で制した。
「これからも気を緩めてもなるまい。帰還しても奴らはあの少年を狙いに来る筈だ」
「ああ、まだ分からない事が沢山だ……もっと念入りに調べないと……」
容赦なきトレバーに、ハンが盲目的な独り言。上司の迷った様を心配したレックスが声を掛けた。
「しかし、もう念入りに調べたんでしょう? 敵の機密管理は少なくとも俺達を内部の深い所に入れさせないだけの防諜技術があるって事でしょうよ。でもハンさんならきっと“火の壁”だって破る事も出来ますよ」
「いや、侵入自体は暗号さえ分かれば簡単なんだ。外部から侵入して調べた時点ではシステムの全容は既に分かってはいたんだ」
「というと?」
「恐らく外部との接点を持たない独立したシステム回線を持っているに違いない。それも自分が調べたよりも大規模にね。外部からの侵入が出来ない以上どうやって調べるか……」
具体的に言ったハンの顔は悩みが幾分消えているように見えた。ただし、慰めようとしていたレックスはやや早口気味の話に、呆気に取られていた。
「それって実際無理なんじゃないっすか?」
「違うんだ。カイルやドニーの力を借りたいと思っている」
「ああー、カイルなら障害物お構いなしだし。でもドニーさんの方はどうなんでしょう?」
「彼の能力は空間把握的に発現する。だからそれを調べようかとも。それに彼は言っていた。必要な時が来れば分かる、ってね」
「あの人らしいっすね。相変わらず言う事が難しいや……」
ラテン人が苦笑いを浮かべ、東洋人の表情は更に和らぐ。
見ると、会話からいつの間にか除外されていたアラブ人は腕を組み、「行くぞ」と言わんばかりに少し離れた車両にもたれ掛かっている。
「さて、帰ろう。リョウも言っていたな、明日の事は明日考えれば良い、って。まあ彼が面倒臭がりなだけだろうけど」
「もうお腹ペコペコです。朝食は焼き立てのタコスでも食いに行きましょうよ」
「賛成。ポークのタコスなんてどうだい? 激辛にして、あとフレンチのコーヒーも一緒にね」
「東洋の嗜好は分からん……第一濃すぎません?」
「それが丁度良いんだ。高級な日本牛よりも安上がりなアメリカンポークの方が僕にとってはご馳走なのさ。脂身がたまらないんだ。食にこそ刺激が必要だね」
「でも何故アジア料理ってあんな辛いのか俺にはサッパリですがね」
笑いながら二人は、それぞれ輸送車両の運転席と助手席に座った。
朝日が顔を出し、荒野が輝きに満ちる。
人工ヘキサン燃料の燃焼による、クリーンな排気ガスを出しながら車は発進し、太陽に照らされながら、車両の長蛇の列に加わった。