ヴァンパイアまんじゅう
夜に眠れなくなったのはおよそ三ヶ月前のことで、特に何の前触れもなかったので初めはそれがそれであるとはなかなか気が付かなかった。が、職場のデスクで陽の光を全身に浴びて気分良くぐうぐう寝ていたら肩をぽん、と叩かれ、そこで否が応でも理解させられることとなった。
時間管理局のおかげで、今更生活のために働かねばならないような時代でもなく、二十代半ばで失職したところで大した生活不安が生まれるわけでもないのだが、時間管理局のせいで夜に眠れないとほとんどやることがない。
このあからさまにタイムトラベル利権を牛耳っておりますといった字面の集団は、実際のところその言葉のうち特に管理に重点を置いた効率主義の化身のようなまあいずれにしろSF的カラーを持たないでもない公共団体であり、そのあたりの是非はどうでもいいのだが、問題は管理局の影響で(あるいは国の施策によって)夜間の電力使用が必要のない限りはほとんど不可能になっている、ということだった。
つまり眠れない夜に、することがなかった。
生活不安こそないものの、大抵の場合において若くして大量に時間を持て余すことは大なり小なりの精神不安に繋がる。ましてほとんど日光を浴びないような生活スタイルとなればなおさらだ。
ゆえに、久しく会っていなかった大学時代の先輩から突然電話がかかってきたときの私は、
「こんにちは。頼みたいことがあるんだけれど」
「いいですよ。どんなことですか」
こんな具合である。
何でもいいのである。何でもいいからやることがあればとりあえずやることにしよう精神に良い、といった気持ちでいたのである。肉体の変化にこそ鈍感であれ、精神にはなかなか気を遣う人物、それが私だった。
「相変わらずあなたは話が早くて助かるわ。早速なんだけど……」
さてこの先輩がまたちょっと奇怪な人物なのだ。
外見としては非常に痩せた、しかし美しいかたちをした人であり、雰囲気としては苦痛なく生き物を即死させる繊細な毒花のような人であり、内面と振る舞いもまあそんな感じの人だった。一ヶ月前には先輩の隣でこの世の春のごとき笑顔を浮かべていた人物が、魂の抜けたような顔で空ばかり見つめるようになっていた――、そんな姿を老若男女問わず大量に目にしてきた。
そんな先輩が一体どういう繋がりで私と先輩後輩なのかといえば、それは大学のサークルなのだが、卒業後数年経った今になっても一体あれが何のサークルだったのかはわからないままだ。在籍者が常に先輩、私、先輩の恋人(不定)だったことを考えれば、先輩を囲む会だったのかもしれない、と一応の推測はある。
「あなた、今眠れないのでしょう?」
どこからその話を聞いたのやらわからないが、今に始まったことではない。地球の裏側で裁縫針が落ちた音も聞こえるような人なのだ。私は「はい」と答えた。人体実験のお誘いだったならさっさと携帯を破棄したのち引っ越しをしよう、と考えながら。
「時管に夜間活動申請を出して頂戴」
「許可が出ますか」
「大丈夫よ。一度でも病院に行ったならそれで出るわ」
「一度も行ってませんが」
すると突然滔々とした口調で電話機から説教が流れ始めた。その滔々たるさまたるや、読経のそれに匹敵する。身体を大事にしろだの若いからと油断をするなだの大体いつもふらふらふらふらもう少し地に足をつけろだのとおよそ誰に言われてもこの人からは言われたくないようなことを一通り告げられたのち、ぽつりと用件を告げられ、「じゃあ、よろしくね」と電話は切れた。
そして次の日、ボルゾイ犬くらいの大きさの段ボールが宅配で届いた。
中を見てみると、ラベルのない乳白色のプラスチック容器が隙間なく詰め込まれており、その中身は大量の薬剤らしきもので満ちていた。
怖いので部屋の隅に置いたまま、手を付けていない。
いざ夜間徘徊が始まると、これがなかなかどうして超楽しい。
先輩の言ったとおり、病院に一度顔見せしたのちに管理局に書類を一枚提出しただけで、夜間活動の許可は簡単に下りた。とは言っても、かなり電力使用は制限されており、精々が手に持つ懐中電灯を扱うくらいのことしかできそうにない。
が、それでも十分である。先輩から告げられたのは『夜間徘徊をしてほしい』ただそれだけだったからだ。何が目的なのかはわからない。そもそも先輩が仕事でこうして頼んできたのか私用なのかもわからない。仕事だとして何の仕事をしているのかすら知らないし、私用だとして私があの人のこうした思惑を理解できたことはほぼ一度もない。ゆえに何もわからない。
が、楽しいので何の問題もない。
時間管理局の夜間電力規制は行き過ぎだとは思っていたが、こんな副産物があるならそう悪いものでもない。
まず、夜の街には街灯が点いていない。
街灯が点いていないというのがどういう状態か説明すると、懐中電灯がないと、自分の靴元が真っ黒で何も見えないというありさまだ。これほどの暗さは私が幼かったころからはちょっとかけ離れている。あの頃はいつだって、何かのために光があった。
次に、車は全く通っていない。夜間交通規制だ。車道はすべて歩道として扱われる。夜間緊急通行車両(代表的なのは救急車だ)はほとんど見ることがない。よって私は昼には車道として扱われるそこのセンターラインを、黒いところはマグマだから踏んだらゲームオーバ(理系)とか、そんな昔の遊びをしながら歩くことができる。
日付の変わる頃にもなれば起きている者はおそらく建物の中にあってもほとんどおらず、生活音の途絶えた様はいっそ生きてる者すらいなそうな具合だった。
その他色々と私の気に入ったところはあるが、まとめて言うなら貸し切りの遊園地で遊んでいるようなものである。人間社会がその維持のために力を合わせて作り上げた街並みが、今だけ私のためにある。フリーライドという言葉に好感を覚えかけた。
そんなこんなでやはり先輩は思惑はどうあれ私に楽しいものを提供してくれるなあ、等とのんきに考える日々を一週間ほど続けていたある日、案の定怪しいものが目についた。
足元のアスファルト。一部だけが妙に黒くなっていた。
染みのように見えた。
しばらく雨の降った記憶はない。
では何の染みか。
懐中電灯の明かりでは鮮明にそれを捉えることはできない。匂いでも嗅ぐか、と身体を屈めようとしたところで、いやこれが轢されたなにがしかの生命体の痕跡だったりすれば相当に嫌だ、と頭を過り、やめた。
その染みは点々として道の先へと続いていた。ならば追うしかあるまい。私はパン屑を拾い食いするように歩を進めた。
それほど歩くでもなく、その染みは車道から外れた。曲がった先には公園がある。木々で囲まれていて中はよく見えない。入口から、こそり、となぜか懐中電灯の明かりまで消して足を踏み入れる。
気配を殺して正解だった。ベンチに(おそらく)何者かが座っていたのだ。形こそはっきりとは見えないが、人影らしきものが見えた。
時間管理局の支配下において、夜間外出は禁止こそされていないものの、かなり珍しい。一週間歩き回っていて未だにひとりとも出会わなかったことから、かなりの確度を持ってそれは言えた。
危険人物である。
決めつけはそれなりに画的な説得力があった。
その人物は、深夜、明かりのない公園にひとり座っている。本当に明かりがないのだ。暗闇の中だ。己の掌すら曖昧にしか見えないような暗がりに、ひとり、座り続けている。あまつさえ、奇怪な音を出している。
くちゃり、くちゃり、と。
回れ右が正解である。私は瞬時にこの場で取るべき行動がわかった。
が、ここに至ってもまだ私は冷静であった。思い出されたのはホラー映画のよくあるワンシーンである。
息を呑んだ主人公。目線を外さぬまま後ずさりして、うっかり枝を踏みつけてしまいそれで己の存在を知らせてしまう。
私は決してそのような間抜けはさらさない。
あえて視線を外した。
そして、顔を伏せて足元を見た。暗くてよくは見えない。が、枝らしきものはないように思える。安全確認完了だ。後は振り向いて足音を聞かせぬようこの場を後にするだけで、
「あいた」
ごん、と。
伏せたままの頭を入口の柱にぶつけた。
いやあこれは地味に痛い、と思ったところで、くちゃくちゃという咀嚼音が止んだことに気が付いた。
完全にバレている。私は悟った。すっとぼけが頭を回してもろくなことにならない。
こうなれば野となれ山となれ、と開き直り私は懐中電灯を点け、先ほどの人影へと向けた。
照らし出された顔は、女のものだったように思われた。
口元が黒っぽく染まっていた。
走って逃げた。
先輩の電話の取り方には規則性がある。
知り合いからの電話は3から5コールで。
恋人からの電話は10コール以上で。
私からの電話は1コール以内で取る。
「あ、せんぱ、」
そして即切りしたり、しなかったりする。
ツーツー、と。非常に心の距離を感じさせる音が電話機から聞こえてきて、私は初めから欠片ほども期待していなかった自分に気が付いた。この人はこういう人である。
昼間の間ぐっすり眠って、ようやく考える余裕ができた。あれは何だったのだろう。答え――不審者。そんなところだろう。はっきり見えたわけでもないし、ひょっとするとそれですらないのかもしれない。向こうから見れば私の方が不審者に見えた可能性もある。
今夜からあの公園へは寄り付かないようにしよう。それで済む話である。と、思ったところで携帯が鳴った。電話ではない。メッセージである。
差出人は先輩だった。立て続けに2件。
1件目はこうだ。
『吸血鬼』
2件目はこうだ。
『ちゃんと今日も行くのよ』
凄まじい人である。あまりの凄まじさに私は抵抗を諦めた。抵抗を諦めると余裕が生まれ、余裕が思考をした。
吸血鬼。
まさか本気で言っているのだろうか。それとも単なる隠語だろうか。隠語にしても物騒である。とてもではないがまた昨夜のあの場所に行く気にはなれそうにもない。しかし『ちゃんと』『今日も』『行く』というのがどういう意味を持っているのか。
考え、また諦め、私は部屋を出ることにした。
ラーメン屋があった。
夜間に開いているラーメン屋が。
見つけたのは往生際悪く公園のあたりをふらふらふらふら徘徊しているときであった。ラーメン屋の赤いのれんの向こうに明かりが点いている。『開店』の文字が掠れながらも扉札に書いてあるのが見える。
そのとき、私の頭にアイディアが降った。
にんにく。
これである。
店に入ってすぐに、しまった、と思った。この流れではまるで妖怪の巣である。さてはマヨイガか。夜間営業規制をかいくぐって開店しているラーメン屋などそうそうあるはずもない。
店内を見渡す、というほど大きな店でもない。小さなテーブル席が四つにカウンター席が十弱。汚れているわけではないが、垢抜けているわけではない。飾りっ気のない内装だと思った。そしてそこには夜間である以上ほぼ当然ながら私以外の客はひとりとしていない。妙に白っぽく明るい蛍光灯は接触でも悪いのかジーと震え鳴っているらしい。らしい、と言うのは別の音声で覆われているからうっすらとしかわからないということで、その別の音声というのは壁際の立方体に近い形状をしたテレビから流れ出している。
「らっしゃい」
低い声を出したのは店主らしき背の高い男性だった。年はかなりいっているようで、首筋に筋脈がはっきりと浮かんでいる。
全体としては、街のよくあるラーメン屋と言える。が、しかし街のよくあるラーメン屋が夜間営業しているというのはかなりおかしなことだった。夜間営業にはそれなりのコストがかかるし、現行の社会制度ではそもそも夜間に食事を摂る者はほとんどいない。夜間営業するならそれなりの利潤を確保する目処を立てるものであろうし、それがこのようにぽつん、と旧時代の遺物のように存在しているのはかなり奇異に映った。
が、入ってしまったものは仕方がないのである。壁一面に臓物が塗りたくられていて店主の首から上が繊毛まみれの触手であるとか、そういうわけでもないのだから、入った以上は食べる。一応は警戒しつつ一番出口に近いカウンター席に陣取った。
メニューを手に取る。一面に書かれているのはとんこつラーメンで、おそらくこれがオススメということなのだろう。即座に決めた。私はいつも悩まない。
「とんこつチャーシュー」
「あいよ」
愛想の良い返事で、意外に思った。
昔なら大盛を頼んだろうに、最近はめっきり色が細くなってしまった。特に無職になったからとか眠れなくなったからとかそういう理由からではなく、代謝が落ちてきて次の日がつらいからだ。この調子で行くと三十台になる頃にはヨーグルトしか食べられなくなっていそうである。
メニューを置くと、すっかり手持無沙汰である。
緊急通報以外で携帯の電波が繋がるような時間でもない。どこか明かりのあるところに寄るつもりもなかったのでポケットの中に文庫本が入っているわけでもない。自然、視線はテレビへと向いた。
映っているのはニュースであった。疑問が湧く。夜間放送のニュースなどあっただろうか。細々とネット配信を続けているような物好きな人間は、まあそれはいるのかもしれないが、私はあまりそういうものに詳しくないし、そもそもあの古代文明の遺産のようなテレビでネット配信が受け取れるようには見えない。
『依然、行方不明者は増える一方で、警察も対応を検討中です――』
「そりゃ昼間の録画だよ」
不思議だ、と思っていると、それを察したのか店主が言った。昼間のニュース番組を録画しておいて、夜中にわざわざ視聴する。奇特な趣味である。奇特な店の背景には奇特な店主の人格がある。
話しかけられてうんともすんとも答えぬのも無礼な話であろう。私は相槌を打つ。
「物騒ですね」
「いんや、そうでもねえさ」
そうでもないらしかった。
ほう、と頷く。あまり詳しい話題でもない。そう言うならそうなのだろう。それ以上掘り下げる気があるわけでもなく。またテレビに視線を戻した。今日の天気予報が流れ始めている。果たしてこの録画に意味があるのか? 店主の孫が夏休み最終日になって絵日記の存在を思い出した場合以外で役立つことはないように思える。
ふと、物騒ついでに思い浮かんだ。
「このへんで最近事件はありませんでしたか」
昨夜のアレである。というか、これから私が行く場所の情報収集である。のんきにラーメンを食べてお腹いっぱいナリ~と幸福感に任せて突撃し、消化中のラーメンごと頭からバリボリ食されてもかなわない。
店主は「あん?」と首を上げて私をじっと見た。怪しまれているのだろうか。怪しいことをしているかもしれないが、私は怪しいものではない。まっすぐに見つめ返してみた。すると店主はそこから睨みつけてくるでもなく、首を傾げた。
「いや、聞かねえな。なんかあったのか?」
「いや、何もないなら、別に」
口にしてからこのセリフは相当怪しいぞと気が付いた。事実、店主は『なんでえ、変なやつだな』とでも言いたげな表情をしている。
「なんでえ、変なやつだな」
あろうことか口にまでした。
ここで謎の対抗心が芽生える。私に。
「それを言うならこのラーメン屋も変だと思いますが。深夜営業店なんて全国でも数えるほどしかないでしょうに」
口にして、直後後悔が発生した。店主がどこか遠いまなざしになっている。
「昔よ、」
もうここまで来ればわかるだろう。昔話モードである。
昔話のすべてが悪いとは言わない。だがジェネギャ(ジェネレーションギャップ)が強すぎると向こうの求めているリアクションが一切わからない場合がある。共感できないのはともかくとして、反応に困るというのは非常に困るものである。
そんな私の危惧知らず、店主は噛みしめるように語りだす。
「親父に連れてってもらったことがある。ガキの頃の、全然眠れない夜でよ。部屋でずーっと天井見てたら世界で独りぼっちみたいな気分になって……。たまねえから居間に降りたら、ちょうど仕事終わりの親父がいたのよ。したら、親父が秘密だぞ、つって、ラーメン屋にな……」
思ったよりも反応難易度の低い話だった。私とて高校生の頃はまだ時間管理局の規制も緩く、夜中に多少で歩くくらいのことはしていた。このように夜を懐かしむ気持ちはわからなくもない。安心して、頷くでもなく、ただ耳を傾ける。店主は続ける。
「そのときの味が、忘れらんねえのよ」
「思い出の味か」
タイミングよく相槌を打つ。店主は頷く。
「そうだな。結局よ、思い出の中に生きてんのよ。あの日の味が忘れらんなくて……それでこんな、人の来ねえようなラーメン屋やってんだ」
私は人である。
というような相槌はどう考えても話の腰を折るので口にしない。
「しかし大変でしょう。今は時管の締め付けも厳しい。営業許可となるとだいぶコストがかかるだろうし、利益が出ないどころか赤字では」
「……きっぱり言うな、あんた。だけどそんとおりだ。今だってどうにか誤魔化し誤魔化し申請を通しちゃいるが、そう長く続くもんじゃねえ。だけどな……」
店主はじっと、手のひらを、皺を数えるかのように、見ていた。
「ダメだな、ジジイになるとよ、簡単には変われねえ。思い出が捨てらんねえ。世の中が変わってくのに、ついていけねえんだ」
「ジジイは大変だな」
しばらく言葉の続きがなかった。
店主はあんぐりと口を開けている。失敗を悟った。私の人生においてコミュニケーションとは万事こんな感じである。かなり慎重にシミュレートを行い正しい受け答えをしているつもりなのだが、気付くとこのように相手と自分の間に断絶の壁が発生している。
こうなったらもはやリカバーのしようもない。思ったことを言うだけだ。
「私は今の世の中の方が楽ですけどね。時管のおかげで無職でふらふらしてても何不自由なく生きていけるし」
嘘偽りない本音だった。もうこうなってしまえば相手に気を遣う意味もあるまい。
夜を懐かしむ気持ちもわからないではない。だが今だってそれなりの自由は――今ここに私と店主がいるように――残っているし、そもそも夜の自由と引き換えに生活の保障がなくなったりすれば、私はそれこそ横暴だと思うことだろう。今となっては、だ。かつての人類は永遠の命を持っていたと、そんな考えが浮かんできて、残像だけ見せて、消えた。
「……ったく」
店主は笑った。どんぶりを片手に。鍋からいつの間にやら蒸気はもうもうと。しかしすべて換気扇に吸い込まれていく。
「口のわりいガキだ。だけど、確かにもうそういう時代じゃねえのかもな。今の世の中、何もかも変わっちまうのに老いぼれの寿命ばっかり長くなっちまってどうしようもねえな……。あいよ、お待ち」
「別にいいんじゃないですか」
カウンターに乗せられたそれを受け取って、手元に割りばしを一つ。パチリ、綺麗に割れた。
「変わるのも変わらないのも勝手でしょう。好きなようにすればいいんです。みんな好きなように生きればいいんです」
我ながら適当なことを言っとるな、と思った。が、根が適当な人間だから仕方もあるまい。いつか、適当なことを言わない人間になれればいいな、と思った。
ラーメンひとつかみ。蒸気で濡れる顔。息吹きかけて。
「少なくとも私は、深夜営業のラーメン屋がここにあって助かりました」
言って、口に運んで、それから盛大にむせた。
おまけだ、と言って店主はまんじゅうをくれた。
それを食べながら公園に向かえば、相も変わらず咀嚼音。黒い影。女が何かを食べている。
私はそっと、まんじゅうを彼女に手渡して。
それからようやく、月が綺麗と気が付いた。
*
一週間後。喫茶店。
先輩は相も変わらず高原に避暑にやってきたお嬢様のような服装をしていて、外見が記憶の中のそれとほとんど変わっていなかったので非常に不気味だった。たわいもない話を繰り広げたのち、いつものように唐突に言った。
「夜」
「はい?」
「眠れるようになったでしょう」
「はい。……はい?」
「良かったわね」
ふわりと笑う先輩は、風がうっかり人になってしまったような、透き通る顔をしていた。
「そうだ。ちゃんと私が送ったサプリメントは飲んだ? あれ、身体に良いんだから」
「いえ。怖かったので一口も手をつけていません。危ない薬物かと思っていました」
先輩はその笑顔のまま、如雨露で花に水をやるような自然な動作でコップを手に取り私に頭から水を浴びせかけ、それから伝票を手に喫茶店を出て行った。
後には私が残されている。
喫茶店は壮絶な空気になっている。