ナイトメア・オブ・ヒメノ CODE 3
八重ちゃんが天使との攻防の間に、天使を成瀬さんからできるだけ遠ざけてくれていたおかげで、天使と成瀬さんの距離は少し開いていた。なのに、
……間に合わないっ。
わたしの足では、天使のほうが先に成瀬さんへ到達してしまう。
それでも……!
力の限り、走る。
わたしの願望が見せた幻影か、視界に映る天使の動きが一瞬止まった気がした。
――幻影じゃない。
天使の腕に足に体に、地面を突き破って現れた植物の太い根のようなものが、絡みついて動きを封じていた。
けれど、赤い鎖の時のように――ううん、それよりも早く、刹那に根の拘束が破られてしまう。
それは高速再生によるものではなくて、『天使の盾』の障壁効果。
『人の意思が宿った手段』でない限り、そのすべてが無効化される。
幾度となく進路の地面から伸びた根が絡みつくけど、天使は気にも留めず、成瀬さんを目指して一直線に宙を駆けていく。
ほんの少しの減速。ほんのわずかな時間稼ぎ。
でも、それで十分だった。
――ありがと。ルルナ。
どこかから援護してくれたルルナに、心の中で感謝する。
わたしは成瀬さんと天使の間に割り入ることができた。
不意に乱入してきたわたしに、だけど天使はすぐ反応して剣による突きの姿勢を取り、そのまま突進してきた。
……同じ突きは昨日見た。そして、その対処方法も。
裸眼で少しぼやけた視界。
高速で接近する天使。
的確に反応できるほどの動体視力はわたしにはない。
……なら。
見えないのなら、初めから見ない。
目を閉じて、生命力と魔力を捉えることに集中する。
あなたの生命力と魔力は、さっきからずっと視てた!
――追跡できる!
「〈偏向する鏡〉っ!」
見よう見まねで、剣の光部分を剥がして、その上でわずかだけど剣の軌道をずらすことにも成功する。
八重ちゃんと同じこと――八重ちゃんほどのことはできない。
だから、受け流せたわけじゃない。
避けようとした動きは間に合わず、剣先から剣身が脇腹を滑っていく。
皮膚を裂かれる痛みと、血が溢れ出す感覚。
まだ――
張っていた防御強化障壁のおかげで、まだ動ける。
剣の軌道をずらしたことで、天使の体勢にわずかな隙ができた。
わたしは突進してきた力を利用して――
天使を宙に放り投げた。
……ママが言ってた。
世界の違いによる回復魔術の反転効果?
――そんなものが『愛』を阻めるわけない!
目を開き、倒れている八重ちゃんに向き直り、
「でもべつに八重ちゃんのことが好きってわけじゃないんだからぁっ――!!」
通常の『治癒』よりも大きな、赤い光の塊たちが、八重ちゃんに収束していく。
――その間、地面に叩きつけられる前に体勢を立て直した天使は、視界に入った無防備な月森さんに狙いを変え、襲いかかろうとしていた。
とっさに目を閉じ、竦んでしまう月森さん。
自分の中で何かが切り替わっているのが、感覚的にわかった。
いまの私ならっ!
「月森さんのっ! 所にはっ! 行かせっ! ないっ!」
天使に向けて『治癒』を連続して放つ。
その光は、赤く。
天使の体を続け様に衝撃が襲う。
精神力を使い切ってもいい。
天使が高速で修復しているのを無視して。
『治癒』を唱え続けた。
「……姫ちゃん。ありがとうございます。あとはまかせてください」
八重ちゃんの声が聞こえて、目だけでそちらを見る。
さっき天使から受けた深い傷は、もう少しも残っていなかった。
そして八重ちゃんの周りには、たくさんの赤い光が螺旋を描くように漂っていた。
――それは、長文詠唱が完了した証。
「彼女を死の淵から甦らせたまえ! 〈蘇生〉!」
対象を瀕死の状態から甦らせる回復魔術――『蘇生』。
もしその効果すら反転するというのなら、それが引き起こすのは――
即死。
その前には、高速再生すら意味を成さない。
天使の頭上と足元に赤い光を放つ魔術円が描かれ、その間を赤い閃光が迸った。
光が消えると――天使の姿は、跡形もなく消滅していた。
ドーム内を覆っていた結界が消えていく。
たたたっ、と足音が聞こえ、わたしの体に柔らかいものがぶつかる。
八重ちゃんが飛んできて、わたしを強く抱きしめていた。
「姫ちゃん姫ちゃん姫ちゃんっ! 私、死んじゃったかと思いました! ありがとうございますっ!」
わたしは得意げに、
「当然です。わたしは治療者なんですから。怪我を治すのが仕事なんです!」
そう言うと、さらに嬉しそうな表情になる八重ちゃん。
「痛っ――」
安心したら、天使につけられた傷が痛みを主張し始めた。
わたしも自分を治療しないと。
「あっ! 姫ちゃんいまそれは――」
「〈治癒〉」
――瞬間。その傷とは比較にならない痛みが衝撃が、体中を駆け巡った。
意識が遠のいていく。
八重ちゃんがわたしを呼ぶ声が、ぼんやりと聞こえた。
「――あれ?」
開いた目にまず映ったのは、見知った天井――わたしの部屋の天井だった。
「全部、夢……だったの?」
そう思って、だけど手に感じる暖かさから、すぐに夢じゃなかったと気づく。
「月森さん? 成瀬さん?」
ベッドの両脇で、制服姿の月森さんと成瀬さんが寝ていた。わたしの手を優しく握ってくれている。
外はもう真っ暗だった。
わたしは眠ってしまう前の記憶を辿る。
「たしか、『治癒』で自分の傷を回復しようとして――」
すごく。ものすごく嫌な予感がする。
大窓を開く音が聞こえ、
「姫ちゃん。おはようございます。神木さんの作ってくれたおかゆ、食べます?」
八重ちゃんが、おかゆの載ったお盆を持って、部屋に入ってきた。
「八重ちゃん。もしかしてわたし……」
「はい。いまの姫ちゃんの回復魔術は、私の世界側の回復効果に固定されちゃったみたいですね」
微笑み、そう告げられる。
「〈最小治癒〉! 痛っ――!」
自分にかけた『治癒』が、ただ痛みを与えるだけのものになっていた。
「姫ちゃんの体のほうは、こちらの世界側のままみたいなんです。プールで姫ちゃんが『治癒』を使って自爆しちゃったあと、月森さんに治療してもらったんですよ? 結構危ないところだったんですからねー」
あとで月森さんにお礼を言っておいてくださいね、と、そばにいる彼女を見る。
「じゃあわたし、みんなを…………ううん、自分すら治療できないの?」
「はい。でも安心してください。私のことは治療できるはずですから」
「〈最小治癒〉」
「あっ――姫ちゃん、それ気持ちいいです」
昨日までは痛みになっていたはずの、八重ちゃんへのわたしの『治癒』。
「これからは、私専用のお姫さまですね!」
……わたしは愕然として言葉を失った。
「姫ちゃん! 私たちの戦いはこれからです!」
「うぅ……八重ちゃんのばかぁー!」
『一つでも多くの蕾が、花開きますように――』
――二章 攻略編へ
――或いは 『姫ヒーラー』短編へ




