ナイトメア・オブ・ヒメノ CODE 1
「……また、壁」
このプールだけじゃない。
ドーム内の一定の範囲が白い壁によって覆われ、ピラミッド状に切り取られているみたいな感じだった。
「これって、天使のせいなんじゃ……」
まだわたしたちの周りには天使が見当たらなかったけど、こんなことができるのは天使以外に考えられない。
普通の天使なら、学校の施設に到達する前にその姿が観測されるはず。
たぶん、昨日のような転移術を使うタイプの可能性が高い。
「これは――間違いなく、天使が展開した結界です」
「結界?」
「はい。中からも外からも、この結界の突破や破壊をする方法は見つかっていません」
「……え? じゃあ、わたしたちずっとここから出られないの?」
「いえ。この中にいる天使を殲滅すれば解除されます――ただ。そういう理由から、助けを待つという選択はできませんので、私たちだけで何とかする必要があります」
「……八重ちゃんが中にいてくれてよかった」
と安堵するわたしだったけど、八重ちゃんは首を横に振る。
「――ごめんなさい。私はぎりぎりまで、皆さんを頼りたいと思います」
「……あ。反転のことをみんなには秘密にしなきゃ……だっけ。それにさっきのアレからの回復も必要だろうし――」
泳げないので八重ちゃんに掴まっているルルナを、ジト目で見る。
彼女は気まずそうに目を逸らした。
「姫ちゃん。プールから出て、この結界内の中央に向かいましょう。水中にバラバラでいたままでは、天使たちの的になります。皆さんには私が魔術で伝えますので」
八重ちゃんの言葉に従って、わたしたちは急いでプールの端まで泳ぐ。
その間、
「皆さん、聞こえますか。白羽です。いま、ある魔術を使って皆さんに私の声を届けています――」
八重ちゃんは、天使についての話と、中央に集まるという話を、『伝心・局所』という魔術によって伝えていた。
これもたぶん、わたしたちの世界にない魔術。
一定範囲内に存在する、互いに視認したことのある対象者を指定して、その人たちと会話できるらしい。
術の使用者に対しては双方が会話できる。対象者同士での会話はできない。
回復魔術ほどじゃないけど、意外と負担の大きい魔術らしくて、多用は禁物。
さっき蔓に拘束されていた時は、『治癒』の分の余裕を残しておくために、使えなかったとか。
その魔術でみんなと会話した八重ちゃんの話では、クラスの半分くらいが結界の中に閉じ込められているらしくて。
運悪く、その中に先生はいないみたいだったけど、悪いことばかりでもなさそうだった。
というのは、月森さんがこちら側にいてくれたから。
結界にクラスを分断された状況で、治療者が二人いるのは運がよかったかもしれない……あ、一応三人か。
それにいまのところ、天使に襲われるどころか、天使を見た娘もいないらしい。
プールから上がると、わたしはルルナに告げた。
「あなたはどこかに隠れてて。危害を加えなかったら、アルラウネは天使に襲われないんでしょ? わたしたちといると巻き込まれちゃうかもだし」
「――あの。いいんですか? 囮くらいになら、使えそうですが」
……さすがに冗談だと思うけど、八重ちゃんはさっきのアレをちょっと根にもっているっぽかった。
びくっ、と怯えるルルナ。
わたしは安心させるようにルルナの頭を撫で、
「いいの。今回は許してあげる。でも次はないから、覚えておいて」
ルルナは、
「これでかったとおもうなよー! ですわ!」
と、捨て台詞を吐いて、樹木のある方へ去っていった。
ルルナと別れてから、急いで目的の中央地点まで向かう。
そこまでは、無事に辿り着くことができた。
……というより、やはり天使を見かけることすらなかった。
何だか、逆に不安になってくる。
八重ちゃんの呼びかけのおかげで、中央にはクラスメイトたちがすでに何人か集まってきていた。
わたしたちも合流しようとしたちょうどそのとき――
すぐ近くから悲鳴が聞こえた。
悲鳴のした方を見ると、こちらに合流しようとしていた娘たちが、天使に襲われていた。
それを皮切りに、わたしたちの周りにも複数の天使が転移してくる。
襲われている娘たちはもちろん、中央に集まっている娘たちも、突然の天使の出現に動揺していた。
八重ちゃんが伝えていたので、これから天使と戦わなければならない状況にあることはわかっていたと思うけど、クラスのほとんどの人が実際に天使と戦ったことのない人たち。
悲鳴を上げて逃げ回ったり、動けなくなったりする娘はいない。
でも、役割や連携を考えず、バラバラに魔術を使って、襲いくる天使の脅威からとりあえず自分の身を守ろうとしてしまっていた。
分断されたことで、いつものPTメンバーがちゃんと揃ってないのも影響しているかもしれない。
魔術の使用には、その起動過程以外の思考は必要ない。
だけど。
精神が安定していない場合は、魔術をうまく行使できなくなる。
いまのみんなは、まさにその状況だった。
たぶん、いつもの半分未満の効果しか発揮できていない。
天使の数は、この中にいるわたしたちの人数と同じくらい。
ちゃんと対処できれば、なんとかなりそうなのに……。
……わたしがみんなに声をかけて落ち着かせる? でも。いま天使と戦っているみんなに、わたしの声を聞いている余裕なんてなさそうだし、下手に声をかけると逆に混乱させてしまうかも。
それなら、と。
わたしはわたしの役割を果たすために、防御強化魔術をかけることにする。
……これで少し落ち着いてくれるといいんだけど。
白魔術や黒魔術には、長文詠唱と短文詠唱がある。
長文詠唱は詠唱時間が増えるけど、その分、魔術の効果を高めることができる。
これくらいの範囲と人数なら、ほんの少し詠唱を長くするだけで、全員に防御強化魔術をかけられる。
「聖なる光、守護の光、害なすものから彼女たちを守って! 〈障壁〉、〈保護〉」
この場にいる全員の体の周りに、一瞬、透明な壁とオーロラのようなものが展開し、見えない障壁が張られる。
だけど、防御強化魔術をかけても、わたしの祈りはみんなに届かなかった。
状況は明らかに劣勢。
被弾率も高く、いまのところ大きな怪我人は出ていないけど、障壁はすぐに効力を弱めていってしまう。
わたしと月森さんは、障壁のかけ直しと。
障壁の緩衝越しにみんなが受けてしまった傷を、『白の夢』を使用した上で、天使たちの注意を引きつけない程度に、でも絶え間のないくらいの頻度で治療を続けていた。
わたしは八重ちゃんを見る。
うなずき、八重ちゃんが詠唱のために口を開こうとした、
――その前に。
誰かが目に見えない速さで結界内を縦横無尽に駆け、みんなを襲っていた天使をすべて吹き飛ばしてしまった。
どの天使たちも致命傷になってはいないけど、大きく後退させられて少し怯んでいる。
「あああっあのっ! みみみ皆さんっ、おちっ! 落ち着いてくださひっ!」
みんなの前であたふたと手を動かしながらそう言った、その誰かは――クラス委員長の成瀬さんだった。
成瀬さんが一番落ち着かなきゃいけない人な気がする。
――と、みんなもそう思ったのか、そんな彼女を見て、一瞬で平静を取り戻していく。
『自分より慌てている人を見ると、自分は逆に落ち着く』、そんな心理なのかも。
成瀬さんは一度深呼吸をして、気持ちを落ちつけ、
「皆さん。私たちは『魔女』を志す『見習い』です。でも、天使から守りたい人たちがいるというその気持ちは、『魔女』の方たちにも負けていないと思います――」
手に持ったデッキブラシで、再び襲いくる天使たちを吹き飛ばしながら、
「私は皆さんのことも守りたいですっ。皆さんはどうですか?」
成瀬さんの言葉に、みんなはお互いを見合ってうなずき、同意する。
「皆さん。私に力を貸してください。誰一人欠けることなく、この場を乗り切りましょうっ!」
その言葉で、大きな賛同の声が上がっていく。
「最前線は私が死守します! 皆さんは落ち着いていつも通りに、自分の役割を務めてくだしゃぃっ!」
……甘噛みした。最後の最後で締まらない成瀬さん。
こんな状況なのに、周りからクスッと優しげな笑いが起こる。
でもそれは、みんなの心に余裕が生まれた証拠。
成瀬さんはすでに戦闘状態だったので、動きが速くてよく見えなかったけど、たぶん顔を赤くしていたとは思う。
成瀬文香さん――彼女は、武術士だった。
武術士は、魔装士のような魔術製の装備や、黒魔術士のような直接的な攻撃魔術をもっていない。
自分の身体を強化する魔術を使って、その身一つで戦う魔術士。
もちろんその身一つといっても、武術士の強化魔術は武器までを対象に入れられるので、何か武器を持って戦う人が多い。
成瀬さんも色々な武器を使っていたはず。
……いま使っているのはデッキブラシだったけど。たぶんその辺にあった掃除用のやつ。
武術士は、破壊者という役割を務める。
そして破壊者は、PTの攻撃役として天使に一番の損害を与え、早急に撃破することを目的とする存在。
でもいまの成瀬さんは、擬似守護者として天使を引きつける立ち回りをしていた。
確かに武術士は前衛だし、動きが速いので攻撃をかわせはする。
だけど防御用の魔術が少ないし、守護者になるような人に比べて、防御強化魔術に対する魔術適性があまり高くない人が多い。
一撃でも喰らってしまうと致命傷は免れない。
わたしたち治療者がいるとはいえ、すぐに治療できる状況ばかりでもない。
天使の注意を引きつけ、その攻撃を引き受けてくれる、盾役の守護者があってこその、武術士。
それでも成瀬さんは。
みんなが落ち着いて戦えるように、いまは破壊者としてよりも、みんなを牽引する守護者としてのほうが必要だという判断をしたのだと思う。
成瀬さんはたぶん、一番危険な役回りをしている。
かといって、ただの献身や自己犠牲というわけでもなくて。
危険とはいえ、最良の戦術に近いはず。
なぜなら――
いまはもう、成瀬さん一人で戦っているわけじゃなかったから。
成瀬さんや守護者の娘たちが天使たちの足止めをして隙をつくり、破壊者の娘たちがその隙を狩る。
――という、綺麗な流れができていた。
小声で八重ちゃんが囁く。
「これなら私の出番はなさそうですね」
成瀬さんのおかげで普段通りに戦うことができたみんなは、一転して、治療者が必要ないくらい、一方的に天使たちを圧倒している。
すでに何体かの天使も撃墜していた。
……でも。
でも、何かがおかしいような。




