1話
「先生は、誠実さってなんだと思います?」
彼女は試すように笑った。俺がまだ若いから、なめられているのだろう。
「少なくとも、今の君は俺に対して誠実ではないよ。ふざけてないで質問に答えなさい」
そう言ってしまえばおしまいだが、生徒の話はほどほどに真面目に聞くべきだと思った俺は、紳士的に返事をすることにした。
「うーん、自分と相手を対等だと認めて、敬意をもって接する、とかかな」
「なんというか、辞書引いたらのってそうなつまらない答えですね」
彼女は本当に残念そうに眉をひそめた。美少女はそういう顔をしても様になるからズルい。というか、やっぱりなめられている。
「俺は常識人だからな。さて、今度は俺の質問に答えてくれ」
「そう急がないでください。順を追って説明しますから」
彼女は担任教師である俺に対してまったく臆することなく、まるで子どもに言って聞かせるように話した。
「私も、先生のおっしゃるとおり、誠実さとはそういうものだと思います」
丁寧な言葉遣いをしているが、その話し方は目上の人間に対するそれとは思えない。俺は苦笑いを浮かべたいのを堪え、彼女の話に耳を傾けた。
あなたは誠実じゃない。同じクラスの女の子たちにそう言われたことがあります。
私はクラスで人気のある男子生徒と仲よくしていた時期がありました。
私は彼と二人きりで休日に遊びに出かけたり、放課後一緒に帰ったりしました。
彼のほうは色々と思っていることがあったようですが、私は彼に特別な感情を抱いていたわけではありません。ただ単に、誘いを断るのが面倒だっただけです。
まあ前は私も、今よりは少しだけ純粋というか、ひねくれていなかったですから。顔が良くて女子から人気のある男の子に誘われるのは、気分が悪くなかったというか、それなりのステータスになると考えていたんですね。
「その時点でだいぶひねくれてるだろ」
「そうですか?その程度の打算は誰でも考えますよ。ひねくれてるっていうほどじゃありません。普通です、普通。つまらないほど平凡です。それでは、話を戻しますとね」
彼はクラスで人気者になれるくらいには他人に気を遣える人だったので、まあ一緒にいても疲れなかったんです。
彼の話はまあまあ面白く、そこそこ頭もよく、顔も悪くなかった。そういう意味では、私は彼のことを気に入っていたんです。
けれど、その好意というのは、「嫌いじゃない」という程度のものでしかなかったんですよね。つまるところ、私の彼への思いと、彼の私への思いは、対等ではなかったんです。
彼が私に100の気持ちを持っていてくれたとしたら、私は彼に対して0.1程度しか気持ちを持っていなかったんでしょう。
彼が一日のうち、どのくらい私のことを考えていたのかはわかりませんが、私は彼と一緒にいないときに彼のことを考えることはまずなかったんです。
月並みの言葉でまとめますと、彼の私への思いは本物だったのかもしれないが、私はそれを犬が尻尾を振ってつきまとってくるようなものとしか思っていなかった、というわけです。
しかし、そんな小悪魔のごとき私に悲劇が起こります。
なんと、クラスメイトの嫉妬を招いてしまったのです。
彼は世の中で言うところのかっこいい顔立ちをしていたのがおそらく主な要因でしょう。
「斉藤君の気持ち、四宮さん気づいてるんでしょ?気づいてるのに何も言わないで、キープしてるんでしょ?」
「そうだよ、斉藤君の気持ちを知った上で、弄んでるんでしょ」
「みさきが野中君のこと好きだって知ってるんでしょ」
「あなたは誠実じゃない」
彼が私のことをどう思ってるかなんて、わかるわけがない。私が彼をどう思ってるかなんて、わかるわけがない。
けれど、もし、彼が私のことを好きだったとしましょう。そしてそれを私が知っていたとしましょう。
それでも、彼は私のことが好きで私と一緒にいる。私は彼と一緒にいるのが楽しいから一緒にいる。
それなら、何の問題もないでしょう?
お互いに利益があって、お互いに何の損もしていない。それならいいじゃないですか。
それを、彼の気持ちを知った上で弄んでる、なんて言われたってねえ。
他人が口を出すことじゃないですよ。
それに、彼は私に言わなかった。「好き」なんて言葉、ただの一度も口にしなかった。
彼は私との関係を変えたいわけじゃなかったんです。
言葉が相手に気持ちを伝えるための手段なら、言葉にしないというのはイコール伝えたくないってことでしょう?
それを勝手に察して、勝手に誠実な対応をしろだなんて冗談じゃないです。
「お前はクラスメイトにそう言ったのか?」
「はい、言いました。もう少し言葉は選びましたが。あ、もちろん、もっときつい、相手を威圧するような言葉を使ったっていう意味ですよ」
「なんだか続きを聞きたくなくなってきたな」
「まあそう言わずに聞いてください。私の、愚かで嫉妬深いクラスメイトたちへの高説はまだまだ続きます」
だいたい、あなたたちだって同じようなことをやっているじゃないか。
友達の中にも、大事な友達と、そこまで大事じゃない友達がいるだろう。
放課後に一緒に帰る友達と帰らない友達。一緒に昼ご飯を食べる友達と食べない友達。修学旅行で一緒の班になる友達とならない友達。誕生日プレゼントをあげる友達とあげない友達。
自分が相手を思う気持ちと、相手が自分を思う気持ちが、常に釣り合っていると、どうして言えるのだろうか?
あなたは百の愛をもらったとき、百の愛を返しているの?
恋愛と友情は違う?いや、人と人とのあいだに生まれる感情という点で、それはまったく同じものでしょう。
あらためて聞きたいわ。誠意ってなに?
誠意が見えない、なんていう説教がよくあるけど、上辺だけ誠実さを持った対応をしてもらったって、それに何の意味があるの?
誠意は言葉ではなく金額、という言葉もあるわ。
上辺だけの言葉ではなく、自分の身を削るような行動で誠意を示せ、という意味でしょう。だって、言葉通りのお金がすべてという意味じゃあ身も蓋もないもの。ロマンがないわ。
まあそれでね、言葉そのものの持つ価値をすべて否定するのはいささか極端な気もするけど、私はこの言葉が気に入ってるの。あなたたちも言葉ではなく、行動で示すべきよ。私が気に入らないならぶん殴るなり、野中君が好きならデートに誘うなりすればいいわ。
「お前なあ」
俺は思わず額に手をやった。
「まあ先生もお察しの通り、私は殴られました」
「悪いが、そりゃそうだとしか言いようがない」
「まあ後悔はありません。ペンは剣より弱いということがよくわかりましたし」
外は太陽が沈みかけてオレンジ色になっていた。腕時計をこっそりと見ると、下校時刻が近づいている。そろそろ話を終えなければならないが、最初からまったく話が進んでいなかった。
彼女は結局、このエピソードを通じて、どんなことを俺に伝えたかったのだろう。
俺はそれを知りたいとは思ったし、それを知らなければこの数十分に意味はないとも思った。だがそれを、彼女に直接聞いていいかわからなかった。
だから、とりあえず今日の面談は切り上げることにした。
「じゃあ、もう今日は下校時間だから、明日また続きを聞くのでもいいか?」
「いいですよ、それじゃあ先生、ありがとうございました。失礼します」
彼女は椅子を戻し、ちょこんと頭を下げて出て行った。
この生徒指導室1に入るときよりも、出て行った時の方が、彼女の表情は明るくなっていた気がする。だから、まあ今日のところはそれでいいだろう。この何のためにあったかわからない面談の時間を、俺はそう勝手に理由をつけて納得することにした。
一つ小さなため息をついてから、席を立ち、明かりを消して戸を閉める。やらなければならないことが溜まっている。俺は鍵をかけると、早足で職員室へと向かった。
彼女、俺のクラスの生徒である四宮美海と面談をすることになったのは、今日の放課後、四宮の頬が腫れているのを見つけてしまったから、というだけではなかった。
もちろん頬が腫れている生徒がいたら何かしら声は掛けるが、こんなにもゆっくり彼女の話を聞いていたのは、家庭科の教諭にこんなことを言われたのが大きい。
「ねえ、保月先生。あなたのクラスの四宮さん、もしかしたらいじめを受けているかもしれないわ」
ただの中年女性にしか見えない家庭科の教諭のことを、俺は心の中で尊敬していた。彼女は家庭科という比較的生徒が話を聞かない部類に属する教科を受け持っていたが、授業を円滑に行っていた。一度、廊下から彼女の授業を覗いたことがあるが、彼女の授業は見ごたえがあった。独特の間や抑揚を使った話し方で騒がしい生徒たちに無理やり話を聞かせるのではなく、必要最低限の情報を全員に確実に伝わるようにしていたのだ。努力と、研鑽と、諦観の合わせ技だ。きっとあの方法は彼女なりに何年もかかってたどり着いた一つの境地なのだろう。
自分にはまねできないと思った。だからこそ、俺は彼女の言葉に注意深く耳を傾け、これがいいきっかけだとばかりに四宮と面談をしたのだ。
家庭科教諭の話によると、それは裁縫の時間中に起こったらしい。
牧野、立花、新里。この三人の女子生徒が四宮の背後を通るたびに、四宮は驚いたような表情を浮かべ、後ろを振り返っていたらしい。それだけを聞くとなんのことだかよくわからないが、彼女によれば、それは針で首をつついていたのではないか、とのことだった。
いささか話が飛躍している気もするが、もしそれが本当なら穏やかではない。それに、こういうことは今日だけに限った話ではなく、ここのところ四宮と牧野と立花の様子が少しおかしいのだという。
比較的自由度が高い家庭科という授業だからこそ、そういうことが起こりやすい。悪く言えば家庭科の授業中は、授業中であるのにもかかわらず、状況は休み時間に近いのだ。
しかし、だからこそ彼女たちはボロを出す。家庭科の教諭など、何も見ていないと思って高をくくっているのだ。
俺は面談をする前の時点で、三人がクロだとみていた。
牧野、立花、新里の三人はクラスカーストの最上位であり、気の強い性格で少し威圧的だ。普段の彼女たちの様子を見ていると、いじめをしていても別に不思議ではない。
何より、俺の尊敬する謙虚で実直な性格の家庭科教諭が憶測だけであんな話をしたとも思えない。きっと何らかの確証があったのだ。
問題は、四宮のほうだ。
たしかに大人しく、友達も多い方ではなかったと思うが、それでもいじめられるようなタイプではなかったはずだ。器用になんでもこなすというか、世渡りがうまいというか。少なくとも学校生活において上手くいかないことがあるようには見えなかった。
今日のところははぐらかされてしまったが、早急に事実関係を確認し、対処しなければならない。
いじめというのはつくづく難しい問題だ。うちのような中高一貫の私立では特にだ。それには三つの理由がある。
一つ。受験勉強という小学生にはいささか高いハードルを乗り越えた子どもたちは、公立の子どもと比べて、少しませている。公立の子どもと比べ、頭がいいわけでもなければ、大人びているわけでもない。ただませているだけなのだが、それがいじめをより狡猾で、醜いものにしている。
二つ。私立であるため悪質ないじめの場合、すぐに加害者は退学になる。一度目のいじめでは停学などの処分で済むことが多いが、金銭が絡んだりする場合は一発で退学となることもある。義務教育である中学の場合は卒業まで在籍を許し、エスカレーターのようにそのまま入れるはずの高校には入学を認めず、自主退学とする場合もあるが、高校生はそうもいかない。すぐに退学させられ、次に行く高校を必死で探すことになるだろう。編入で入れる高校は偏差値が低く、荒れている学校も多い。中学受験をするような育ちの良い子どもたちには少しばかり辛い環境に放り込まれることもある。もしくは、一緒になって非行に走る子もいるだろう。悪いことをした子供をよそに放り出すのが本当に教育と言えるのだろうか。まあそう考えはするものの、実際、そのいじめをした生徒がそのまま学校に居続けることによって周りに及ぼす影響とか、誰がその生徒を更生させるのか、とか現実的な問題はつきないこともわかっているのだが。
三つ。六年間同じ集団で生活しなければならないため、一度でもいじめをしたことがあったり受けたことがあるというのはそれだけで新たな人間関係の構築を難しくする。いくらクラス替えがあると言っても狭いコミュニティだ。過去に学校で何があったかなんていう話はすぐに伝わる。いじめをした人、された人、というレッテルは中高生にとっては大きい問題だ。
こうやっていじめの問題に出くわすたびに色々考えるのだが、では自分はどうするべきか?とその度に悩んでしまう。
自分が生徒だったときは、教師がさっさと解決してやればいい。自分にできることは何もない、と思っていたのに実際、教師になってみると余計にわからなくなった。
もちろんマニュアルはあるし、大学で授業も受けてきた。
まずいじめを受けていると思われる生徒から直接話を聞いて、同僚の先生方に相談して、職員会議で現状を報告して、必要なら保護者と話をして。
確証があれば、加害者を複数の教員で同時に呼び出し、事情聴取をして、事実を確定する。そして反省を促し、謝罪させる。
いじめの対策として最重要なのは早期発見。いじめの四層構造でいうところの傍観者に働きかけることが大切。
そう、それはわかっているのだ。
けれど、物事はそんなにうまくいかない。教師ができるのは、話すことだけだ。それだけですべての問題が解決できるなら、世界から争いはなくなる。
同じ目に合わせることもできなければ、被害者の受けた苦しみを理解させることもままならない。
もちろん、話し合うことで解決できる問題もあるだろう。事実、そういう美しい成功例はいくらでも世の中に溢れている。
けれど、やっぱりそれは、まだ生徒に素直な心が残っていたとか、教師の能力が高かったとか、そういう偶然が重なって、たまたま上手くいっただけだと思ってしまう。
相手が生徒だろうが、結局は人間なのだ。他人なのだ。
どんなに努力したって、誠実に向かい合ったって、無理なときは無理なのだ。どうにもならないものと真剣に向き合おうとして、自分の手に届かないものをどうにかしようとすると、人間は壊れてしまう。
だから俺は、ほどほどに努力する。ほどほどにしか努力しない。
自分にも何とかなりそうなら、努力する。それが俺のすべきことだから。それは俺にでもできることだから。
自分にはどうにもならなそうなら、努力しない。それは俺のすべきことではないから。それは俺にはできないことだから。誰かに責任を投げて、必要とあれば努力をしたフリをして、それで終わりだ。自分にはどうにもならない問題に取り組んだって仕方ない。労力と時間の無駄遣い。状況は少しも良くならない。それでも何かするというのは、ただの自己満足だ。
大人になるとわかってしまう。自分の力でなんとかできることと、自分の力ではどうにもならないことが。
子どものころは本気で思っていた。自分がやろうと思えば、どんなこともできるって。自分がやりたいことだけをできて、やりたくないことはしなくていいって。そんな奴、この世のどこにもいない。どこぞの国の王様だってそんなことはできない。俺たちは世界を変えることができない。
こういうのは学習性無力感とか言うと習ったが、こんなもの、みんな多かれ少なかれ持っている。
自分を知り、社会を知る。それが大人になるということなのだから、大人はみんな、自分にできないことがあると知っている。
だから、嫌味ばかり言う学年主任や、モンスターペアレンツに振り回されたって、気にしない。だってそれらは俺にはどうしようもないことなのだから。
感謝していなくてもお礼を言う。自分が悪くなくても頭を下げる。それで大概のことは乗り越えられる。
毎晩一人で酒を飲み、明日も学校へ向かう。そうやって生きていれば、まあたまには楽しいことや嬉しいことがあるものだ。
今日は変な女子高生の変な話を聞いたが、まあなかなか楽しかった。欲を言えば、おしゃれなバーで互いに酒を飲みながら話したかったがそれは欲張りというものだろう。可愛い女子高生とお喋りができただけでよしとすべきだ。
いや、それは少し不謹慎か。彼女はいじめられているかもしれないわけだし、彼女は別に好きで俺みたいなおっさんとお喋りしていたわけではないのだから。
気付くと缶ビールが空になっていた。もう少し飲みたい気分だったが、明日も朝は早く、放課後は彼女との面談が控えている。俺は電気を消し、浅い眠りについた。




