錘とティッシュ
「さ、佐々木先輩!」
始業式を終えて数日後、俺は部活に行こうと廊下をブラブラ歩いていた。階段に差し掛かったとき、後ろから女の子の声が聞こえた。
なんだか以前も同じ呼び止められ方をされた気がする。
振り返ってみると、知らない女の子が顔を真っ赤にしながら立っていた。
「・・・はい、佐々木先輩です」
このシチュエーション、またもや心当たりがある。
「あのっ、突然声をかけてすみません。わ、私、一年の吉野って言います」
台詞まで一致しているぞ。まあこういうときは同じパターンになるよな、普通は。
頭の中では余裕ぶっているが、内心俺はドキドキだった。この場面に何回出くわしても、慣れることはないと思う。
「あの、私、佐々木先輩のことずっと見ていて・・・す、好きです!付き合ってください!」
吉野さんは声を震わせ、見てわかるほどいっぱいいっぱいであった。吉野さんの額に浮かぶ粒のような汗は、きっと暑さのせいだけではない。
俺は答えを口に出せず、暫く沈黙してしまった。
中学のときから高校2年生の現在に至るまで、俺は結構な数の告白を受けてきた。聞こえはいいが、断るのも一苦労だと言うことを知っていて欲しい。相手が精一杯の勇気を振り絞って愛を伝えてくれたとして、俺がそれを断ると、とても悪いことをしてしまった気持ちになるのだ。泣かれでもしたら、もう俺は極悪人にでもなった気分である。
外から聞こえるテンポの速い蝉の鳴き声が俺を急かしているようで、言葉がまとまらないうちに自然と唇が動いていた。
「気持ちはすごく嬉しいよ、ありがとう・・・でも、今は恋人を作る気になれなくて」
言葉を選びすぎて、遠回しな返事になっていることは百も承知である。
俺の言葉が終わらないうちに、吉野さんの瞳に溜め込んでいた液体が溢れ始めた。それを見た瞬間、俺は錘がついたかと錯覚をするほど、身体が怠くなってしまった。
「だ、誰か好きな人がいるんですか?」
「・・・いないよ」
「じゃあ、私、諦めなくてもいいですか?」
俺は返事が出来ずに目線を下に落とした。
何て言うのが正解なのか、これまで色んなパターンを試してきた。試行数は重ねてきたが、結局、好きな人がいるとか言わないと諦めて貰えないことが多い。
俺になんか時間を裂いていないで、さっさと新しい人を見つけて、恋を実らせて欲しい。だがそれを俺が言うと、ややこしいことになるのは間違いない。
嘘をつくのは憚られるが、致し方なし。
「・・・ごめん、好きな人、いる」
「っ、わかりました」
吉野さんは俺と目線を合わせることがないまま、くるりと踵を返して走っていってしまった。
その瞬間、俺は糸が切られた操り人形のようにその場に崩れるように座り込んだ。
「はぁー」
思わず特大のため息が飛び出した。
なんで俺なんだろう。喋ったこともなければ同じ学年でもない俺を、なぜ好きになったんだろう。
俺のこと、何も知らないだろうに。
「ずいぶん人気者なのね」
突然階段の上から声をかけられ、俺の肩が跳ねた。
「・・・聞き耳を立てているなんて、お下品ですよ雨宮さーん」
「失礼ね、廊下で青春ドラマが始まったから鑑賞していただけよ」
雨宮はゆっくりとした動きで階段を降り、俺の横で立ち止まった。
そしてポケットから何かを出し、不意に俺の前に差し出した。
「顔色が悪いわ」
雨宮の瞳と視線がぴったり重なった。
俺は貰った白い布のような物で額の汗を拭う。
「あ、悪い・・・ってこれティッシュかよ」
「佐々木の汗を私のタオルで拭くわけないじゃない」
「汚くて悪かったな。ティッシュ、めちゃくちゃ張り付くんだが!」
俺の額に張り付いたティッシュをとろうと躍起になっていると、雨宮は小首を傾げてこう言った。
「なんだ、元気そうね。さっきはこの世の終わりみたいな顔をしていたわよ」
「えっ、俺、そんな顔していた?」
「ええ。フった側なのに、フラれたみたいな顔だった」
はぁ、と大きなため息が自然と漏れてしまった。
「フる側も大変なんですよ」
「・・・どうして?」
「どうしてってそりゃ、まあ、好意を断るのは申し訳ないというか・・・。傷付けるのが嫌というか」
長い前髪から覗く雨宮の瞳は動物のように澄んでいて、見つめていると自分の心の汚さを見透かされるようで、俺は慌てて目をそらした。
「別にいいじゃない。他人なんだし」
「え?」
「人の気持ちなんてその人だけのものなんだから、佐々木くんがそこまで気にする必要はないでしょう。傷付いたかどうかは本人が決めること。それを佐々木くんが決めつけるのはむしろ傲慢よ」
ハッキリと言い放つ雨宮に、俺は言葉を忘れて見入ってしまった。
雨宮ってこんな考え方をするんだ、と感心した。見直したと言ってもいい。俺は雨宮のことをただのひねくれものだと思っていたが、それは違ったらしい。
「・・・雨宮ってさ」
「なによ」
「結構まともなんだな」
「はあ?」
雨宮は口を歪め、俺のことを一瞥するとスタスタ歩き始めてしまった。
黒々とした髪が川のせせらぎのように揺れるのを見つめながら、その背中に向かって感謝の言葉を投げる。
「ありがとな」
気付いたら、肩が軽くなっていた。
「どういたしまして。おでこのティッシュはプレゼントよ。100倍返ししてね」
そっちじゃないんだけどな、と思いつつ、俺は額を擦ってティッシュの残党を落としたのだった。