午前10時の妖怪
「あっ」
「っ、すみません」
本屋で新作の漫画を手に取ろうとした瞬間、隣から伸びてきた手に触れてしまった。
そんなラブコメみたいな展開は人見知りの私からしたら事故でしかなく、咄嗟に謝罪を繰り出し、緊張に震えながら横目でちらりと隣の人物を確認する。
「げっ」
嫌そうに顔を歪めているのは、あろうことかクラスメイトの佐々木であった。
何が「げっ」よ、あなたも謝りなさいよ、というか隣に立つな同じ本を買おうとしないで。
雪崩のような思考に後押しされたはずが、私の口から飛び出したのは平仮名一文字であった。
「・・・は?」
渾身の「は?」である。
これが少女漫画であったなら触れた手からときめきが生まれるところだが、この茹だるような暑さの中で汗ばんだ手同士が触れたところで生まれるのは不快感のみだ。
しかも、私はこの佐々木という男が苦手である。
一緒の空間にいるのも同じ酸素を吸うのも嫌なので、早々に立ち去ろうとした瞬間、私は自分が手に取った漫画を見てふと気がついた。
この漫画、佐々木が読むの?
胸の大きな女の子があられもない姿で頬を染めている、この表紙の漫画を?
ラッキースケベ体質男の子が、学校中の女の子達とえっちな事故を起こすラブコメ漫画『俺の特殊スキルはラッキースケベ★』を佐々木が?
私は思わず顔を上げて、佐々木の顔をまじまじと見てしまった。
私の思考に気が付いたのか、佐々木は少し頬を赤らめて急いで顔を反らす。
なによ、頬を染めないで。気持ち悪いわね。
「・・・あなた、これを読むの?読んでるのが友達にバレたら恥ずかしい、この作品を?」
「それはお互い様だろ」
「私には友達がいないから、私はノーダメージよ」
「・・・」
佐々木は唇を固く結び、黙ってしまった。そして五秒後、消え入りそうな声でボソボソと呟いた。
「・・・学校の人には、言わないで欲しい」
「私には友達がいないから、あなたもノーダメージよ」
「確かに」
それもそうか、と急に真顔になった男を尻目に、私はレジへと向かった。
早く家に帰って新刊を読まなければ。佐々木に裂く時間はこれっぽちもないのだから。
レジでお金を払いながら、私は自分の胸が僅かに鼓動を強めていることに気が付いた。
『俺の特殊スキルはラッキースケベ★』、通称『俺スケベ★』を読んでいる人がまさかこんなに近くにいるなんて。SNSにしか存在しないと思っていた稀有な読者が、自分のクラスメイトだったなんて信じられない。
震える手で会計を済ませ、本屋から出る。真夏特有の肺まで焼けそうな空気で深呼吸をして、佐々木が出てくるのを待った。
時間にして10分、体感1時間の待ち時間に、私は身体中の水分が抜けてしまったのではないかと錯覚するほど汗をかいていた。蝉の鳴き声がやけにうるさく感じるし、顔に張り付く前髪は不快だし、なんだか頭が痛い。やっぱり帰ろう、と思った瞬間、佐々木がゆっくりとした動きで本屋から出てきた。
「っ!ねぇ!」
「うわっ、びっくりしたな」
突然声を掛けられた佐々木は、大袈裟なほど体を強ばらせた。
汗にまみれた私を、まるで妖怪でも見るような目を向けてくる佐々木に、思いきって好きなキャラは誰か質問をしてみることにした。
もし、佐々木が私が推している幼なじみのマリアを好きだと言ったら、佐々木のことを見直すかもしれない。この後ファミレスに行って、俺スケベ★について語り合うのも夢じゃないかもしれない。
「・・・佐々木くんは誰推しなの?」
「巨乳生徒会長の、カオル先輩」
「・・・幼なじみのマリアは?」
「いやー、マリアはあざとすぎて無理」
だめね、やっぱりこの男とは、とことこん合わない。