160.神様の望んだ神様2
外に出ると既にテースの姿はなかった。
彼女がどこに向かったのか。
意識を集中させて耳を澄ませると、不思議と少女の足音が聞こえてきた。方角と距離がはっきりとする。頭の中にケープ市の地図を思い描いて照らし合わせてみると、そこの場所ははっきりとした。
むしろそこ以外あり得ないとばかりだった。
「教会……」
彼女が死神の宣言をした場所。
むしろ、全ての始まりの場所だといってもいい。
(なら……)
その聖堂に彼女はいるだろう。
教会の扉を前にして、ハンスは一度立ち止まる。
深く深呼吸をしてから自分の体調をゆっくりと確認すると、異常はすぐに発見できた。鼓動と呼吸が通常よりもずっと速く浅い。さらにいえば知覚が異様に鋭くなっており、建物の中にいる人間全ての位置を大体把握できた。二階には八人、一階には二人……別の場所に一人。どうやら地下のようであるが、この建物にそこまで深い地下があっただろうか。確かに七年以上の前のことで当時の記憶も曖昧な部分はあるものの、それでも気配を感じる位置は深すぎるといえた。
(やっぱり俺の身体は普通とは違うのかもな)
勘違いならいいが、そうではなかった場合――そこにいるのは誰か。
(いや、今はそれよりも)
扉の向こうにいる少女へと合うことが先決だった。
聖堂への扉をゆっくりと開く。重く苦しい音を鳴らして中の様子が顕わとなり、籠もった空気の臭いが鼻孔に溜まる。中へと踏み込めば埃一つ無い清潔な床が足音に震え、ステンドグラスからは赤と蒼と黄色の入り混じった複雑な光が拡散し室内を淡く照らし出していた。
ゆっくりと光が降り注ぐ中央で両手をだらんと下げて上を見上げている少女から少し離れた背後に立つ。
「迎えに来た」
「私をですか」
「ああ、言うまでも無かっただろうけどさ」
「私に死神を辞めろ、ということですね」
「それを望んでいたんだろう」
この問答に意味を求めるならば、あくまで心の整理ということだろう。ハンスはそう悟ったからこそめんどくさがらずに最後まで返答しようと決めていた。
「死神から人間に戻れば、そう、私はただの人殺しとなります」
「そうかもしれないな」
否定はしない。しかし。
「でも、テースは人間になることを――戻ることを望んでいたんだろう? それは罪に押し潰されるとか、そういうもので誤魔化せる願いじゃなかった」
「ハンスさんのしてきたことは知っています。ただひたすらに私のことを考えて行動してきたことも。その誠実なる行為に対し、私は何も返せません」
「返してもらいたいから何かやってきたわけじゃない。したいようにしてきただけさ。上の二人の兄と同じだよ、俺だって自分勝手なんだ」
「自分勝手は、人に許された特権です」
「なら、今から君も自分勝手になればいいじゃないか」
これからはその権利が彼女にも与えられる。
続けなくともその言葉は最後まで届いただろう。
テースは大きく肩を上下させた。それらを認めるには辛い年数が経過し、自由という言葉の束縛に身を委ねるには少々時間が経過し過ぎていた。
「私は死神です」
「今更それを言うか?」
「ですが、ハンスさんと一緒に歩めるなら……その我が儘が、許されるなら」
「テース」
彼女にとっては不意に。
ハンスにとってはごく当然とばかりに。
後ろから優しく少女を抱き締めていた。
「前にさ、約束しなかったっけ」
「……約束」
「この街を出てさ、一緒に外の世界を行ってみよう。世界は面白いんだ。色んな人がいて、色んな景色があってさ。辛いことも悲しいこともある。けど、生きてるって実感が持てるんだ。世界は閉鎖されてもいないし、死を望んでなんかない。テースにもそれを教えたい」
「ハンスさんは……世界を見てきたんですね」
「ああ、でもまだ一部だ。もっと色んなことを知りたいんだ。テースと一緒に」
「……ふふ、楽しそうです。私がそんな楽しそうなことをしてもいいんでしょうか」
「悪いもんか。だから一緒に行こう」
「――ええ、ハンスさん」
抱き締めていたその腕を解かせて、テースは振り返り、ハンスへと顔を向ける。
優しく微笑むその顔はハンスが初めて見るものだった。
「やっぱり私、ハンスさんを好きになって良かった」
「えっ……あ」
余りにもまっすぐにそう告白され、決意を固めていたハンスといえど言葉に詰まる。
「あ、ああ、うん」
「ハンスさんは?」
「あー、えっと……うん、好きです」
「……嬉しいです。すごく、嬉しい。人を好きになることに立ちすくむなんて必要、無かった。だって貴方こそ私の望んだ【神様】だったのだから」
彼女の纏っていた装束が黒から白へと変わっていく。
純白に身を包む少女がハンスの胸に飛び込んできた。
まるでそれはドレスのようであり、彼女の心を体現したようであり――一生を寄り添う契約のようなものであり、その重さと想いがハンスの身体の内へと急速に染み込んできた。
「守るよ。一生」
「はい、お願いします」
甘く優しく一生の契約。
二人は未来を誓い合う。
「ありがとう。私を人間にしてくれて」
トン、とテースはハンスの胸を押す。
たったそれだけで、軽く押されただけで、ハンスは【二度とテースには逢えなくなる】と強制的に認識させられた。
逃がすまいと手を伸ばす。
笑顔を向ける彼女の右手を掴み抱き締めようとしたところで。
ドン、という衝撃が彼女の身体を揺らす。
何が起きたのかは理解できなかった。
ただ彼女を抱き締めた際、その背中に回した手が妙に暖かい液体に塗れており、ゆっくりゆっくりとその手を持ち上げて目を向ければ、紅く朱く染め上げられているではないか。
それはなんだ。
力なくもたれ掛かってくる少女の身体を抱き締めながら、ハンスは今起こっていることがまるで理解できない。
ただ、絶対にどうしようもない、取り返しの付かないことが起きたことだけは知っていた。
「あっ……」
彼女の背中越しに――見覚えのある顔がある。
「……オットー……」
背の高い少年がその手にナイフを握り、震えていた。
「や、った……アンジェラ……仇は取った……! 君を殺した奴を、死神を、殺した……!」
「おい……何してんだ、何してんだよ、お前……」
「ハンス、そいつは……そ、そいつは、アンジェラを殺して……あ、うあ、うあああ、あああ!」
カランとナイフが地面を転がり、オットーは自分のしでかしたことをようやく理解したのだろうか。
頭を抱えて悲鳴を上げていた。
「あああああああああああああああああ――――ッッ!」
絶叫が聖堂に響き渡る。
まったく動く気配のないテースの背中から溢れる血を止めようとするも、ここには全く医療用の器材が無い。包帯一つすらない。――血を止める術が無い。両手で塞ごうにもどうしようもない。
そしてテースは何も言わない。もはや事切れたかのように、言葉一つ身動き一つしなかった。
「テース……!」
とにかく彼女を抱え上げて顔を見る。
「テース! しっかり……今、いますぐ医者に連れていくから!」
かはっ、と彼女の口から液体が吐き出される。その鮮やかで、しかし泡だった一色の液体はまるで自ら命を放出しているようでもあった。
「ハンス! 俺はやったんだよな……! アンジェラを、殺した奴を、俺は、俺は殺してしまったんだよなぁ!」
「黙れェ!」
その顔面を殴り飛ばしたい衝動に駆られたものの、寸前で踏み留まる。オットーの口からアンジェラの名前が出てきたからだ。彼女の名前はいつも頭を混乱させるし、冷静にもさせる。そうすることでオットーが何をどう考えて、何故この様なことをしでかしたのかは一目瞭然だった。
(そう、そうだ、オットーは……テースが……アンジェラの魂を狩ったところを見てしまった……)
だからこそその仇討ちをしようとしたのだろう。
純白の少女の身体が軽くなっていくような感覚だった。まるでその身体から魂が抜け出ていくような――
「ハンス……俺は……!」
「黙れ……! 二度と、二度と俺の前に姿を見せるな……! お願いだからどっかに行ってくれ……っ!」
そうしたオットーへの怒りは収まらないものの、しかしかつては自分もテースに向かって「アンジェラを殺したのはお前だ」と責めたこともある。そんな自分がどうしてオットーを責められるだろうか。
しかしテースの傷は深く、溢れ出る血を前に医者ではないハンスから見てももう手遅れだと強制的に察してしまう。
「テース……テース!」
ただひたすらに声を掛ける。動かしていいのかも解らない。手当すらままならない。ただ彼女の生命力に語りかけるしかなかった。
「……」
そんなハンスに抱え上げられながら、彼女はそっと手を伸ばしてその頬に触れる。
「ありがとう。私を好きになってくれて」
その声はどこまでも普通で。
「だから、これからはハンスさんも――」
最期には音とならず、唇の形だけが言葉を紡ぐ。
ぱたり、とその手が床へと落ちた。
死神という呪いは、この瞬間に解けた。