157.ハンス11
警察の受付にはまだ大量の市民が押しかけている。
誰も彼も不安そうな顔をしながら助けの言葉を待っている。警察に救いの神でもいると勘違いしている顔ぶれを前に、その警察署まで逃げてきたペシェルは憐れすら覚えていた。彼らは自分達が救われないことを知りつつもこうして救いを求めているのだ。寄りにもよって彼らを殺そうとしている連中が潜む、この警察署に詰め寄ってまでだ。
「しかし、助かったよ」
神教官府に現れた死神を前にして全員が動けなくなったものの、彼女が消えた瞬間に金縛りが解けた。死神の言葉によって精神的なダメージを受けていた実験素材の生き残り二人はすぐさま動けなかったこともあり、ペシェルはそこを逃げ出したのだ。途中でアウグストを捕まえても良かったが恐らくはそんな時間など無かっただろう。スティーブはともかくホマーシュが追ってくれば数秒と生かされることなどないからだ。
だからこそ警察署に逃げ込もうと決めていた。警察は神教官府からさほど遠くもない。道さえ覚えていれば視界が塞がれていても何とかなるものだ。それはここに押しかけている市民も同様だった。
警察署長は恰幅のいい腹を揺らしながらヘラヘラと媚び諂うように笑っている。ケープ市の実質トップの人間が頼ってきたのだからそれもそうだろう。ここで人脈を作っておけばこんな辺境の地で終わることなく中央へ行けるのでは、という欲を隠しきれていない。
(お前如きの小物、ここの署長になれただけでも奇跡だと思うがいい)
敢えて言うことでもなく、ここは調子に乗らせておいたほうが都合が良い。そうすれば手駒として従順に働いてくれるだろう。
「アウグストさん、ここでゆっくりおくつろぎください」
すぐに反応出来なかったのは、先程まで本物のアウグストと会っていたからだろう。この町ではアウグストといえば自分なのだ。本物はベルンホルト・ベックと名乗っている。
「ああ、それより君、ここの警備は万全かね?」
「それはもう。今現在このケープ市においてここより戦力のある場所は存在しないでしょう」
「ここにいる君の部下は全員君に従っている、と?」
「真実を知る人間は一握りですが、ある程度の命令なら自分に従う者ばかりです。警察署長の命令に従わない警察は最早それに足る資格などありませんからな」
はっはっは、と笑い声を上げる署長にペシェルは顔を顰める。どうにも不安が拭えない。
「で、作戦の状況具合はどうかね?」
「順調ですよ。市民は順調に殺し合っています」
「では、警察署に詰め寄っている人間の『処分』は?」
「これも間もなく。もうすぐ始まるでしょう。命令は下されているのです。放っておくだけでいい」
ケープ市民は全て処分しろ、というのがペシェルのさらに上から下されている命令だ。
その為にこうして下準備をし、そしてその準備は終えようとしている。今このケープ市は尋常ではない狂気に包まれている。
「……ならば、ここで待つのみだな」
ケープ市が死滅する理由としては、彼らは業深き者だからと自分を納得させている。神に祈ることなどしようとも思わないが、多少その不憫な運命に思うところもある。今を生きる彼らに罪は無い。あるとするならば、彼らの先祖が大罪を犯した名残のようなものだ。少なくともその罪深き先祖が築き上げてきたこの街でぬくぬくと暮らしていたのだから罪の一端を背負う責務が彼らにはある――
(くだらんことを考えるな)
今から死ぬ運命の彼らなど、これからの自分の人生において一体どれだけ関係するだろうか。このケープ市に長年住んでいたとはいえ、今更特別な感情を抱こうという気にもなれない。間もなくこの地は滅ぶ。そうしたら二度と訪れることもないのだから。
――そう考えていたとき。
カツン。
ドアの外で何かが倒れる音がする。署長の部屋の前で何者かがいたのか、ペシェルは慌てて立ち上がった。
「誰だ!」
署長の怒鳴り声に怯んだのかは不明なものの、ドアの外にいた人間は急いで走っていったようだ。
(聞かれた……!)
今の会話を聞かれていた。署長の部屋はそれなりの防音性能を誇っていたとしても、ドア越しに耳を澄ましていれば声が聞こえても不思議ではない。
「……君の部下は、どこまで信頼がおけるのかね」
「わ、私の部下は、私の命令をですね……」
「もういい」
こんな悠長な問いをしている場合では無い。
警察内部にもし『正義感に燃える』刑事でもいれば、厄介なことになりかねなかった。
ケープ市はもはや死に体だ。そんな身体でも抗体が働いているというのか、こちらの企みを疑う者が内部にいたのだろう。
「厄介な……君、事情を知る部下を呼べ。裏切り者をすぐに始末させるんだよ」
「は、はい!」
ドアを開いて部屋を出て行く署長だったが。
その姿を横目で眺めていると、署長の身体が押し倒されているのを目撃する。
「なっ……」
逃げた、と思ったのはフェイクだったのか。
ペシェルが状況を認識した頃、既に部屋の中は数人の刑事に囲まれていた。
「……何をする。まさがこの僕を捕まえるとでも?」
刑事達が指で合図を送り合っている。一人が手錠を持って近寄ってくるのを思わず鼻で笑っていた。
「君達は僕を殺せない。そうだろう?」
「何を――」
「こういうことさ」
そして銃を引き抜く。
刑事達の間に動揺が走り、すかさず二人ほどが同じく銃を抜いてこちらに向けていた。
「ただの脅しでは意味が無い。ボクを捕まえたところで状況はもう変わらない。既に殺しは始まっている。――ボクが死んだところで変わらない」
この正義感に燃える刑事達が自分を捕まえたところで状況は何も好転しないと教えてやる。続いて彼らに動揺が走るものの、ここまで行動を起こした連中だ、そう簡単に心が折れるようなことはなかった。
「お前は重要参考人だ。抵抗はするな」
「で、捕まえてどうする? 仲良く心中でも?」
「馬鹿にしやがって……市民を騙しておきながら!」
「今更その程度の『認識』でよく捕まえようと思ったものだよ。……なるほど、君が唆したのか」
自分を囲む刑事達の奥から現れたコート姿の男を目にして、ペシェルは思わず苦笑いを浮かべていた。予想できていたことではあったが、いざこうして自分を地獄の底まで追い掛けてくる執念深さを垣間見ると、もはや呆れを通り越して一種の感動すら覚えてしまう。
「アインズというべきか、あるいはスティーブ刑事と呼ぶべきか」
「市一つを潰すにはそれなりの大義名分が必要だ。この異常事態の中で住民が殺し合い、さらには国家権力に逆らった既成事実さえあればそれも容易く達成可能だがな」
彼はそう説明してから、煙草に火をつける。
不安な市民へ向けてこう語ればいい。
「今ケープ市はとても危険な状態です。この霧の中、毒を撒く犯罪者がいます。我々は必死に連中を追っていますが、どこにいるか霧の中だと捜索も困難です。皆様も家族や大切な人を守ってください。その為に護身用として『武器をお渡ししておきます』といったところか。精神が不安定なところへ銃なんて渡せばどうなるか、それを狙ったんだろう?」
「はは、冷静に考えれば辿り着く答えだ。この状況下において君だけは冷静で居られたようだ。どんな時も答えを求めてしまうのは悲しい性だねぇ、アインズ」
「お前を逮捕して豚箱にぶち込んだら、アインズなんてナンバリングは捨てるさ」
そうして銃を引き抜いてその男は――スティーブは銃口を向ける。
「それと別に殺しはしない。刑事は殺すのが仕事じゃない。お前は逮捕することにも意味はある」
「では状況の改善は別の方法で探すというのかね? どちらにしろこのケープ市は終わりを迎えるんだ。無駄な足掻きをせず、どうせなら逃げ出すのが利口じゃないのかな?」
「利口? 別に学力テストでいい点数を取る答えを求めていたわけじゃない。ここにいる連中は全員そうだ」
スティーブを中心にしてそれぞれ刑事達がしょうがないとばかりに呆れて笑っている。
「少なくとも刑事になったことを悔いたことはないさ。辞めたつもりもないが、雲隠れした俺をここまで慕ってくれる連中がいるんだ。――後悔などあるわけがない」
刑事になった理由はもちろんあるものの、それを抜きにすれば何があろうと己を信じてくれた仲間達がいる職業に就いたことを後悔などしようはずもない。スティーブの言葉が『虚しく』響き渡る。
「なら、絶望に打ち拉がれてくれ。そして最期にこのぼくを楽しませてくれないか――」
彼の背後にあるガラスに小さな穴が開いた。
ペシェルからは見えなかったもののその正体は明らかで、こうして奴らは最大の貢献者ですらあっさりと見限る冷静さを備えているからこそ。
「お前らは、助からない」
顔中を笑いに歪めて口から血を吐き出し、ペシェルは両手を広げて前へと倒れていった。