155.ハンス9
何で見下ろされているのだろう。
ホマーシュは仰向けになりながらもそう疑問を呈さずにはいられなかった。ここで見下ろされる理由が無い。そもそも見下ろしている少年はなんと言った?
(負け? 僕が?)
真正面からの殺し合いで自分が負けた?
巡回神父、ましてや始末屋としての訓練を受けていた時代ならいざ知らず、如何なる相手をも屠ってきた自分が――こんなケープ市でぬくぬくと過ごしてきた少年相手に負けてしまったというのか?
(馬鹿なッ……認めない! 認めない!)
身体を起こそうとしても地面に叩き付けられた衝撃が残っているのか、すぐにはそうも出来そうにない。
「だから」
自分を見下ろす少年が告げる。
「今だけでもいい、アンジェラと向き合ってくれ」
その言葉は癪に障るものの、ホマーシュをゆっくり絡め取るように心へと侵入してくる。
(やめろ……)
死神であるテースの言葉より強く響いた。
たかが一人の少年が、死神を凌駕したとでもいうのか。
(止めろ、考えるな……!)
しかし一度走り始めた心は、もう止められない。
彼が強引に押し留めていた本当の感情はこの瞬間を決して見逃さず、そしてホマーシュの理性を破壊して溢れ出してきた。
(やめろォ――――――!)
そして気付く。
自分はアンジェラに対して、何を期待していたのか。
(違う、期待じゃない)
彼女にどのような感情を抱いていたのか。
(そんなことは)
否定は不可能だ。心が認めてしまっているのだから。
「そうか……」
認めてしまえば、後に残るのは一つの感情のみだった。
「僕は、彼女が好きだったのか」
残るのは後悔。
二度と会うことの叶わない聖女。
(僕は……彼女を自分だけの聖女にしたかったのか……)
なのに殺そうとした。
それは仕方ないことだった、としか言い様がない。
好きだったと自覚したところで、あの時の自分が止まっただろうか。そう、結局は全て手遅れだったのだ。心を自覚したところで目的と行動に変化が無いのならば、後はこの心を押し殺す以外に方法はない。無意識にもそうしてしまった。
全身が脱力する。動く気力すら沸かない。
勝負でも負け、心も折れた。もう動く理由が何も無い。
「……俺は行くよ。テースを止めないといけないから」
「……。アインズは街で言い触らしてる国の刺客を止めにいった」
振り返りここを去ろうとしたハンスの足が止まる。
「止められるかは知らない。アインズを信じるかは勝手にしろ」
「……そうか」
伝えたところでハンスがどう判断するか、そこまではホマーシュの関与するところではない。
ただ、殺意が心から完全に抜け落ちてしまった今。
――弟へのアドバイスが自然と口から出てきたのだ。
(僕は……もう)
ただ一度の敗北。
それだけで何もかもを奪われてしまったようではないか。
(違う。奪われてなどいない。ただ最初から――)
――最初から、何も持ってやしなかっただけだ。
復讐という檻に囚われて無理矢理行動することを決めたからこそ、その檻から解放されてしまえば空虚な人間が一人残されるだけだったのだ。
「なんてことだ……」
何も無いというのは、ここまで寂しいものだったとは自覚していなかった。
――もし手に入れたい人がいたとしても、彼女は既にこの世にはいなかった。