153.ハンス7
「なに、これ……?」
そこにいるのは黒い霧を纏った黒いシルエットだった。
手には鎌を持ち口は鳥の如く尖り全体的に細い。そしてボロボロの布を纏った何者かが片手に捕まえたばかりの女性を掴んでいた。
「悪魔……」
アンナの第一印象はそれだった。
その存在は人間でも神でもなく、紛れもない悪魔だった。鎌は女性の首を易々と刈り取り、そして次の獲物を捕まえるべく手を伸ばす。
「ファイリー! これはなに!」
『まぁ、黙って観るのが大人ってもんよ』
そして悪魔は次々と人間を狩っていく。最早最初に見た数の半数以下となっていた。悪魔の背後には狩られた人間が瞬く間に髑髏へと化して死屍累々の山となり、緑の美しき大地は一転して地獄へと変貌を果たしていた。
悪魔は留まることを知らない。
人々はとにかく逃げるだけ逃げ、やがて教会を発見する。草原の中にぽつんと建つ大きな教会だ。まさに神の助けとばかりに人々はそこへと殺到し、中から鍵を掛ける。教会の奥から神父が現れて命辛々逃げてきた人達の肩に手を乗せたり、あるいは水を用意などしている。
一方で悪魔は教会の前で立ち止まっていた。神聖な場所へは入ることが出来ないのか、そこで立ち往生しているようでもある。
「悪魔だから……?」
『あれってぇのが果たしてなんなのか、俺っちに訊くなよ?』
「うん……」
十字架を握った神父が意を決した様に外へと向かう。人々はそんな神父を止めようとしたものの、彼は緩やかな笑顔を人々に向けて安心させた。
『ちなみにあの神父の名前はアンクウってんだ』
「あん……くう……?」
覚えのある名前のような気がした。
(――そうだ、アンクウって、確か)
前にテースが語って聞かせてくれた、ケープ市の古い御伽噺の主人公。しかしその時の物語には悪魔なんていう存在は出てこなくて、代わりにとても疲れた人々がとある一つの願い事をしたという話だ。追い掛けられている下りこそ同じものの、ここまで一方的で、まさか地獄のような光景だとは思わなかった。
(じゃあ、ここってケープ市の……ここ?)
さすがに形こそやや違うものの、よくよく観察してみればシャングリラ孤児院と構造が同じだ。
(この人達は……ケープ市のみんなの、ご先祖様?)
追われてきた、教会に辿り着いた、ここまでは同じなのだ。だとしたらアンナの結論も案外間違ってはいないだろう。
神父は彼らを一通り見回した後、外へと出て行った。
あの悪魔の元へと。
悪魔は神父の姿を見るや否や、真正面から向かい合い、動きを止めた。それは不思議な光景だった。人間とあらば容易く首を狩り取ってきた悪魔が神父を前に躊躇している様子なのだから、疑問を抱かない訳がない。
神父はそれを予想していたかのように十字を切って右手を挙げる。すると悪魔はその場に屈して片膝を突いた。まさに信じられない光景だった。
「す、すごい」
この神父ならあの悪魔を退治できるかも、なんてアンナは期待を膨らます。いくら勘が良くても映像越しでは神父と悪魔、互いの感情が読めないので、今だけは歳に相応しい表情で見入っていた。
「やっつけちゃうのかな?」
『……』
ファイリーは応えない。
神父は何事かを呟き、悪魔の肩に手を乗せる。
悪魔はただひたすらに跪く。それは完全に屈服した者の姿だった。
――神父はいとも容易く悪魔を下したのだ。
「やった!」
アンナは喜んで両手を挙げるものの。
そんなものは束の間だった。
教会から一本の槍が飛んでくるまでの間だった。
映像のみのそれからは音が決して聞こえない。それでも生々しく感じたのは映像が鮮明だったからか、あるいは余りにも残酷な結末を見てしまったからか。
飛んできた一本の槍は神父の心臓と悪魔の心臓をちょうど貫く形となっていた。
神父は顔を教会へと向け――そして目にする。
助けたはずの幾人もがその手に武器を持ち、神父ごと、立ち止まった悪魔を滅さんとしているのを。
「……」
声を失ってしまう。
人々は笑っていたのだ。
恐怖の悪魔を退治できたことに喜んでいたのだ。
「……神父様、は……?」
たった一人の犠牲であの悪魔を殺せるのならば安いものだと言わんばかりに。
「なんで……?」
『そして奴は何を想ったか、お嬢ちゃんにはわかるわきゃぁねぇわな』
幾つもの槍はさらに二人を貫いていく。肩、腕、足、喉――神父はとっくに息絶え、悪魔もまさに事切れる寸前だろう。そんな悪魔が眼にしたのは残酷にも嗤う人間という種族だ。
『嬲り殺しを楽しむ動物が他に居ないとは決して言わねぇよ。たとえば雀の天敵であるカラスだってそうさ。けどよ、ここまで醜悪にゃならねぇ』
「醜悪……」
まさにその言葉通りだ。
ここまでくると悪魔はどちらになるのだろう。
悪魔と思い込まされていた黒い影は本当に悪魔と呼ぶべきなのか、あるいは黒い影こそ悪魔を狩っていたのではないのか。
本当に――悪魔はどちらだ。
『じゃあ、下へ行こうぜ。もう少しだからよ』
映像はそこで止まる。神父と悪魔を人々が囲んだ映像で停止していた。あの後悪魔と神父はどうなってしまうのだろうか。せめて神父は丁寧に葬られるだろうか――串刺しにされた後とはいえ。
もしそのまま放置か、悪魔と共に燃やされる運命というのならば、なんて憐れであろう。
(でも、あの悪魔は……ほんとうに、そうなの?)
見た目とその時の行いだけで判断を下していいものか。あの悪魔は単に人間を狩ることだけを目的としていたのか。
『着いたぜ』
眼前に木の扉が現れた。
その木も相当古いのだろうか、触れても大丈夫だろうか、という危惧は一瞬にして消え去る。かなり古い階段を降りてきた割にその扉はまるで古びた様子がない。
(くさってない?)
それだけ時が止まったようだった。
『腐るってこたぁ、それが生き物であるという証明だからなぁ。残念ながらその木は死神の手で生き物であることをやめちまってる。そもそもここに生命体は俺っちとお嬢ちゃんしかいねぇのさ。どんな微生物もここにいやしねぇ』
(……?)
ファイリーが何を言いたいのか、はっきりとは理解出来なかった。
それでも決していいことではないという、その事実だけは不思議と察していた。ファイリーは喜ばそうとしてここへ連れてきた訳ではない。アンナにただ真実を見せるためだけに連れてきたのだ。
その真実をどう受け止めるか、アンナに問うのは実に過酷なことだろう。
それでも少女は真実を知りたいと願う。
死神の生まれた瞬間をすら受け止めた少女は、今度も受け止められるだろうか。
――ゆっくりと扉を開く。
やけに冷え切った空気が中から溢れてくる。光を点す壁が扉から流れてきた空気の色を映し出し、アンナは二歩も三歩も後ずさりする。
それでもその映し出された黒い霧はアンナの足もまとわりついて離れない。逃がさないつもりなのか、あるいは物珍しい客を歓迎しているのか。
「この先に……」
恐る恐るだが、扉を完全に開く。
中は――なんとなくそんな気はしていたが――壁全体がうっすらと光り輝いていたために光量不足でまったく見えないということはない。むしろその『惨劇』をよりよく目に焼き付けさせられた。
「……ッ」
声もなく後ずさりする。
そこにあったのは、アンクウと呼ばれた神父と、先程の悪魔が貫かれた状態で横倒しになっているモノだった。
(葬ってくれなかったの……?)
あの人々は悪魔を抑え込んだ神父と、その悪魔を地下に閉じ込めたのだ。二度と動かぬように、しかし完全に殺しはせず。あるいは殺したと思ったものの、それ以上刺激を与えるのを畏れたか、または復活を畏れた故のこの状況なのかもしれない。
『ありゃぁ悪魔じゃない。むしろまったく逆さ』
「逆?」
『悪魔って呼ばれたら悪魔になるってんならよ、じゃあ何がそうかってわざわざ言う必要あるかい?』
「……悪魔は、人間?」
槍を投げて神父ごと殺した男の笑いが脳から離れない。
「この黒い『人』は……悪魔を狩っていたっていうこと?」
もしそうなのだとしたら、この人々は一体今まで何をやらかしてきたのだろうか。
『黒い人間はむしろ神様ってぇ奴さ。神は昔からいた。ま、今だっているんだから大昔にいてもおかしかぁねぇだろ? んで悪魔共は人間さ。悪魔と呼ばれてもおかしかーねぇ所業を繰り返してきたってだけの、人間だよ』
「……ねぇ、死神ってもっともおおい願い事を叶える神様なんでしょ。ううん、もっともおおい願い事が死にたいってことだったから、死神がきたんでしょ?」
『よく覚えてるじゃねぇか。嬉しくなるね』
「……じゃあ、その時の神様がもしもっともおおかった願い事を叶えていたのなら……」
『そういうこった。悪魔と呼ばれるに相応しい連中だってぇことさ。――ここに住む連中の先祖ってのがな』
そしてこの教会の神父はその悪魔達とは違う人間だったから、黒い神様は神父に手を下すことはなかった。そして神父を前にして神で無くなった瞬間を奴らは狙ったのだ。
この町に住む人間は――つまり神殺しという大罪を背負っていることになる。もちろん身を守る為には仕方ないのだろうが、それ以前に人々が最も多く望んだのが彼らの死というのが相当な異常事態だ。一体何をすればそこまで恨まれるというのだろう。
「この槍は……引き抜けるの?」
『そうだな』
「じゃあ、引き抜く」
『別に今更引き抜いても感謝されねぇぜ?』
「かわいそうだもの。泣いてのがわかるの。その神様も神父様も……誰も恨んでいないのに、ここで閉じ込められてる。そんなのかわいそうだもの」
『そいつぁ面白い。なるほど、なら頑張ってみるんだな。手伝ってやりたいところだが生憎手が無いもんで、ちょいと難しい。応援ぐらいならしてやるさ』
「うん、ありがと」
神父と神は一本の槍によって串刺しにされていた。これは先程の映像とまったく同じだ。それを引き抜くだけでいいだろう。アンナは槍に手を掛ける。ぬめりとした液体が手について気持ち悪かったものの、敢えてその手に目を向けるようなことはしなかった。
「んっ……!」
そして思い切り槍を引き抜く。子供の力ではかなり辛かったものの、槍は想像していたよりもあっさりと引き抜かれた。
そして引き抜かれた槍はその場で一気に腐敗し崩れ落ちる。
手に着いた槍の滓を払い除けつつアンナは神父と神へと目を向けた。引き抜かれた後も変わらず彼らはその場を動かず、互いに向かい合ったまま――死んでいた。
「神様も、死ぬんだね」
『みてぇだな。尤もテースが死ぬシーンなんて想像つかねぇけどよ』
「ねぇ、ファイリー」
アンナは再び肩に乗ってきたファイリーに問いかける。
「死神がここに現れたのは、やっぱりこの神様がここにいたから? みんながおかしくなったのは……元々そういう人達だったから? ……ケープ市に死が蔓延するのは、もう大昔から決まっていたことなの?」
『そうさ』
いくつもの問いを、ファイリーはその一言で肯定した。
『てめぇ達で勝手に過去をねつ造していい様に御伽噺を作っちまったり、てめぇ達は神様を一番信じていますなんてぇ面しながら実は平然と神殺しをしちまったりと、滅茶苦茶な種族じゃねぇか。だからよお嬢ちゃん、その勘の良い『眼』で二人を観てみな』
言われた通り、アンナは二人の姿をもう一度確認する。槍の抜かれた二人は辛さから解き放たれた代わりに、全く違う何かが黒い霧に乗って溢れてきていた。
「……え?」
先程までは全く無かったどす黒い感情だ。
『誰も恨んじゃいない、ねぇ。まぁ、人間は恨んでねぇかもしんねぇな。だが、ここに住む連中が一人でも来れば話は変わる。そいつぁお嬢ちゃんでも変わりゃしないってもんよ』
恨みや怒りとはまた違う、アンナの知らない強烈な負の感情。絶望というには彼らは孤独に屈しておらず、かといって決して好意的とは言い難い――いや、むしろ敵対していると呼んでもいいぐらいだ。
『神父は自らの使命をまさに魂にまで刻み込んでいた、正真正銘の聖職者だった。そしてそこの神は自分一人だけで罪を背負えるならそれでも構わないと覚悟を決めて、やりたくもない死神としての職務を果たしていた。んで、結果がアレさ。二人とも今までの人生で自分の結末を想像しなかったわけじゃねぇだろうけどよ、ありゃぁ酷い。覚悟と使命、自分の結末の残酷さが入り混じっちまってよ、それが死神としての力に影響して』
ファイリーは羽を広げて神父の肩に乗る。
『――この町は、呪われた』
ケープ市は特殊だ。
今更語るまでもなくケープ市というのは他の町とは一線を画す特殊なケースが多い。信仰心や夜になると発生する濃い霧、元は同じ宗教だというのに本家の教えから外れた教会。対立するような神教官府、行政官府。現状に至っては昼でも霧が発生し、すでに数百名が命を失っている。
過去には人工的に天才児を造り出す実験施設。
そして生み出された死神。
ケープ市の生まれる昔にはあの映像のような事実が隠されているとなれば、益々一つの街が抱え込むには重すぎる闇が潜んでいると言わざるを得ない。
正しく理解せずともアンナにはその怖ろしさが実感として沸いてきている。現にあの神と神父はこの地を呪ったのだ。
「呪って、テースおねえちゃんを死神にした……」
「ああ、そうともいえるな。もちろん実験ってぇのが功を奏した部分もあるがな、人間が『神様』を人工的に生み出せるわきゃぁないさ。人間の感情を正しく見抜く抜群の洞察力と観察力、そして強靱な心の強さがあった上で、何かしらのキッカケがあった」
(それは……あの地下の、大量に人が死んだとき……?)
テースの一言によって大量に人が死んだ地獄があった。あの時彼女は死神として覚醒したのだが、そうなると神父と神の影響を受ける直前に放ったテースの一言は彼らの心を見抜いてのものだったのか。
あるいは……その時のテースは既に彼らによって呪われていたのかもしれない。どちらにしろ死神としてのテースが誕生した真のキッカケはそういうところにあった。
「でも呪いって、テースおねえちゃんだけなの? おねえちゃんだけが呪いにかかったの?」
『当然違ぇさ』
ファイリーはまるで笑っているようだが、鳥の表情はいまいち掴めない。だからアンナは首を傾げる。
『もう二日前から【呪いは始まってる】じゃねぇか』
「あっ……」
あの霧によって死んでいく現象。
さらには何者かによって錯乱する人々。神殺しの子孫なればこそ神に踊らされ、己の為ならば隣人ですら容赦なく射殺する。
呪いはとっくに蔓延し、再び地獄が始まったのだ。
「……じゃあ、わたしはどうすれば……」
『さぁね。別に何かをさせたくてお前さんをここに連れてきたわけじゃあない』
ファイリーは再びアンナの肩に留まる。
『けどよ、わかってんだろ。自分がどういう風になっていくのかってな。――なぁ、アンナ』
黒雀の宣告はアンナ自身が薄々と感じ取っていたことだ。
そう、自分は余りにも似ているのだ。人の心を見抜く能力に余りにも長けている。
かつてそれに長けた少女がいた。その少女と似ている自分を、嫌でも自覚させられる。
――あの白き聖女、黒き死神の少女と同じだと。