151.ハンス5
(……この先は何があるんだ?)
周囲を見回してみるとここだけは他と違う装飾に飾られているようだ。階段から廊下に出てすぐ突き当たりを左手に曲がる。そうすると鋼鉄製でありながら女神の形を摸した彫りの扉が現れ、来訪者を足止めさせる。
明らかに何かが違う。
(ここが神教官府の教会にあたる部分ということか。神教官府は教会の支部でありながら、あまりそういう雰囲気じゃ無かったってのもあるけど……)
実際にはこうして教会の役目を担っているというのだろう。ただしこんな階数の、さらにはこんな奥に造っているのだから誰にも祈らせる気はないということだ。
(祈る対象はあくまで毎朝の行事――大通りを神官達が歩き、ケープ市民に頭を下げさせているあの時のみにさせてる。神に祈ってるのか人に祈ってるのかわからなくなる……それも狙いなのかもしれないけど)
あらゆる手で神教官府はその権力を高めて来たのだが、ここまで顕著なのは国中を見回しても恐らくケープ市だけだろう。元々十分だとはいえ首都ですら教会は強引に支配力を強めようとしていない。
やはりここは異常な街だということなのだろう。教会がここまで意固地とも言える強硬手段に出るのも、簡単に言えば実際に神が存在しているからに他ならない。
(畏れているんだ、神を……テースを。神教官府だけの秘密じゃなくて、きっと教会そのものが彼女を知っている。テース本人が神であることは知られていないとしても、本物の神がここにいるって知っているから……)
それらを人々に知られてしまった場合、教会は即座に威厳を失うこととなるだろう。それもそうだ、彼らは唯一神を崇めているというのに、それとは違う本物の神が自分達の権力下である地に降臨しているとなれば、果たして信者達のみならず国民中がどう思うだろうか。さらに事態はそこに留まらず世界中へと広まり、教会による支配力は根底から瓦解する可能性すらある。
本来なら神を始末したいとすら思っていてもおかしくはない。自分達の信じる神とは違う存在がいて、何百年、それこそ千年を優に超える年月を掛けて築き上げてきた全ての財産が失われる事態に発展するのだ。
その中心となるのがケープ市。しかも彼ら教会側がさらに畏れたのはここの市民達の特徴ともいえる、盲目に近い信仰心だ。系列として初期の頃は同じ宗派だった教会とケープ市の宗教だが、ここ数百年でここだけは多少変わっていた。それはかつて死神が訪れたという御伽噺に由来しているのだが。
(信仰する彼らの神から、その対象を協会側へと変える意図が、恐らく幾つもあるんだろう……)
あらゆる爆弾の元を抱え込んでいる一つの市。生半可に力があるものだから迂闊に手も出せずにいたのだが、ここ数年でようやく神教官府の支配下へ置くことに成功したといえるだろう。
「で、その神教官府の教会に何があるんだか」
神教官府立の学校に通っていたハンスですら見たことのない場所だ。
扉を押してみるが、軽く押しただけでは開かない。鋼鉄製の見た目そのままに重量もかなりのものらしい。両腕に力を込めて扉を開くとようやく開いた。こんな重い扉ならば益々誰かが祈ることなど難しいだろうと思わず愚痴を零しながら、ハンスは中を見据える。
「……」
扉の奥は――見覚えがあった。
「おいおい、幾ら何でもこれは……」
扉を抜けたことによって空間でも移動したのか、と本気で勘違いしそうになるぐらい、ここはとある場所と全く同じ造りとなっていた。
「……シャングリラ孤児院じゃないか」
かつてケープ市の――まだ町だった頃にあった唯一の教会であるシャングリラ孤児院の聖堂と全く同じ形をしている。記憶違いでさえなければ見上げた先の正面にあるステンドグラスの模様ですら全く同じだ。
「どうなっているんだ?」
三年前に排除しようとすらしたシャングリラ教会と全く同じにする理由に心当たりは無かった。
そしてこの聖堂の中にはハンスの他に――もう一人だけそこにいる。その人物のおかげで益々ここがシャングリラ孤児院に思えてならない。
「セーラ様……?」
薄く微笑む女性は黒装束に身を包み、その手には全く似付かわしくない巨大な剣が握られていた。かつて聖女と呼ばれた背中を向けている女は今まで感じたことのない凄みを滲ませている。
「ここで出会うとは思っていませんでした。いえ、これもあの子の導き……いえ、狙いだったのかもしれませんが」
ゆっくりと振り返る。その遅さに思わず何かを飲み込んでしまう。
「こんにちは、ハンスさん」
「……なんで、ここに。いや、その格好は――」
その剣で一体何をしようとしているのか。そもそもシャングリラ孤児院にいるべき彼女がどうして因縁のあるこの神教官府で剣を握っているのだろうか。尽きない疑問が浮かんできたとしても、では一体何から問えばいいのかがわからず混乱する。
「出会ったのでしょう、ツヴァイに。ならばこの姿の意味は自ずと理解できましょう。なにしろ賢い子なのですから、この程度で答えを求める必要はありません」
「……巡回神父。ホマーシュと同じってこと、か。じゃあ誰かを殺す予定でもあるんですね。貴女がそんなことするなんて信じられませんけど」
「信じる信じない、そんなことに惑わされているからいつも真実を見逃してきました。けど、信じる心というのは人間の本性の一つでもあります。文明を得て、文化を育み、人と共に生きてきた人は誰かを信じる心を手放せません。――それに惑わされてきたとしてもです」
「じゃあ、見たままの姿が本当ってことですか」
「そうです。見たモノは基本的に真実です。真意こそ隠れているでしょうが」
「……真意」
「真意です。真実を見なければ真意など覗けません。しかし真実は真意を語るとは限らない。今、貴方は私の真実を見ています――真意がわかりますか?」
「……わからない」
「ならば見ていなさい。そこで黙っていなさい。これから私はやるべきことを為さねばなりません」
「……まさかセーラ様、あなたは」
「そこで見ていなさい」
それは命令だった。
一言でハンスの身体は強張り、セーラ言う通り動けなくなる。
(……テースと、同じ……!)
死神によって金縛りを受けているのと同じような状態だ。こんな真似が出来るのは死神であるテース以外にいないと思っていたのに、どうしてセーラも似たような力を有しているのか。
「当然です。……いえ、私の場合はただの人間ですが」
それが答えだとばかりに、それ以上は語らなかった。
いや、語らないのではなく、扉の向こうから静かな足音が規則的に聞こえてくるので黙ったというほうが正しいだろう。
徐々に大きくなる足音は扉の前でピタリと止まり、躊躇するようにその場で数秒立ち止まっているようだった。
誰が来るというのか。
(テース……?)
だとしたら都合が良すぎる。一方でハンスにとってはチャンスともなりえるが、その為には身体が動かなければどうしようもない。
扉が軋むような重い音を奏で、ゆっくりと開かれていく。
(あいつは……!)
そこから現れたのはテースではなかった。
テースとは別にもう一人追っていた――アンドレアフの情報で神教官府へ来るきっかけとなった人物が、想像以上に窶れきった顔で現れたのだ。
「……そうか、もう、終いということか」
老人にも見える男は手近の椅子へ腰を預けて背もたれで背中を伸ばすように天井を仰ぐ。
(老人?)
ちょっと待て、とハンスは自分の記憶をひっくり返す。
(奴はアウグスト・メルゲンブルグだよな……そうだよ、なんであんなに老けているんだ!)
喩え気苦労があったとしてもあそこまで老いてしまうだろうか。奴はまだ四十代前半だというのに、記憶の中のアウグストとは幾ら何でも人が変わりすぎている。面影こそあるからまだ良かったものの、少しでも顔を伏せられていたら間違い無く気付かなかっただろう。
「私を、恨んでいるのかね?」
「恨む?」
セーラは微笑みながら、しかし一歩だけ前に進み、剣の柄に触れていない左手を前に持ち上げる。
「実験は成功しましたね。テースは貴方達の理想通り、神として降臨しています。神とは人間の制御の及ばぬ尊き存在であるが故に、結局は意味の無い結果だけが残されていますが」
「……それは違う。『奴ら』はそれでも、今でも実験を続けている。こことは違う地で、ここの実験データを以てだ。成功の有無は関係ない、天才と賞するに値する人間を人工的に生み出し続けている」
「ハンス・ハルトヴィッツみたいな、でしょうか」
「……彼は、君は恐らく一番の成功例だ。全てにおいて平均を逸脱する成績を残す。あらゆる事象を成功へと導く。天才の枠に収まらない成功例だ」
「それはいいでしょう、本題ではありません」
「そうだろうな……やはり恨んでいるのだろう。当たり前だ……私は今、圧倒的な憎悪を覚えてここまで逃げてきた……そうだ、逃げてきたんだ。惨めに、哀れに! 受け入れるつもりだったが、出来なかった!」
口では幾らでも罪を受け入れると嘯いたところで、罪そのものが目の前にあれば、その時こそ人間の本性がさらけ出される。アウグストは自覚すらしていなかった己の弱さと醜さをまさに思い知ったばかりだった。
「私の娘を利用した挙げ句に自分の娘まで実験の材料にした貴方を恨むな、というのは些か都合の良い話ではないでしょうか」
「……私は、あんなことをするつもりは無かった。娘を実験に使うつもりなんて無かったんだ。だが、あの時は仕方なかった! 私だって最初は知らなかった……どうして、何故! あそこにあの子がいたのは何故だ! 誰があの子に気付いた! 誰があの子の才能を!」
「黙りなさい」
もう懺悔をさせることすら許さぬと、鋭き一言でセーラは場を支配する。
「当然私にも罪はありましょう。ですが、先ずは貴方がそれを償うべきなのです。貴方が居るからこそ実験が続く。貴方の名はそれだけの影響力がある」
「……ならば……」
「死んでください。あの子に魂を狩られる、その前に」
一体何年前まで使用されていた剣なのか、そこは全く問題とならない。
あれだけの質量と重量を叩き付けられれば即死しても不思議はなく、良くても重傷だ。相手を行動不能に陥らせるという機能において年数が経とうと衰えることはないのだ。
もともと神に逆らう愚か者を処罰する役目を負う一部の巡回神父は聖職者ということもあり、刃の携帯を許されていない。
だから斬って殺すのではなく殴打で殺す。
剣の形を摸しているのはそれを逆さにする際、ただ十字架として見えるからだ――
「せめて私の娘のところで懺悔しなさい。ただし、それが可能ならばですが」
「可能ではないから、こうして殺そうとしているのだろう……?」
「父親をテースの手には掛けません。せめて最後の家族として、その程度は守ってみせましょう」
高々と振り上げられた刃はアウグストの頭上に。
ここまで高ければ、もう力は一切必要としないだろう。刃の重みだけでアウグストの頭は潰れる。
「やめ……!」
ハンスはそれでも腕を動かそうともがく。
間に合うなんて到底思える筈もなく、アウグストの死は確定しているのに、ハンスは藻掻くように右手を伸ばした。
こんな真実など認められない。
こんなものがセーラの真意だというのだろうか。
だとしたら、その真意は止めなければならない。
恨みだけで人を殺すことなど、あってはならないのに。
無情にも――刃は重力に引き寄せられた。