149.ハンス3
ケープ市の中を走ると、なるほど街中がピリピリしているのを肌で感じ取れた。
全市民が『霧に毒を混ぜている奴がいる』などという噂話を耳にしているのなら当然この状況も納得がいく。いくら常人とは違う異常な視力を有していたところで身体能力が格段に上がったわけでもなく、肉体そのものはそこらの少年とそこまで差はない。格闘技術にだけは腕に覚えがあるものの、それでも途中で銃を持った連中と鉢合わせでもしたらひとたまりも無かった。
神教官府まではそれなりに歩く。フォルカーの自宅はケープ市でも外側にあり、ここから中心へ向かうとなると普通に歩いただけでもうんざりするのに、今は曲がり角一つ一つに神経を尖らせなければならないのだ。ましてやたった今眼前で知人が死なれたばかりのハンスにとってそれからくる疲労度は半端無い。
「はぁ……ふぅ……」
何度か深呼吸を繰り返して次の曲がり角を行く。誰とも鉢合わせなかった幸運に感謝しながら進んで行くと、やがて神教官府が建物の屋根を越えて視界に入り込んできた。ここまで来ればもうそこまで離れているとは言えない。
「あそこに奴が……」
自分達の運命を操った男があの棟にいる。
テースが死神だと知った直後、アウグストは最初からあそこにいるものだと思って調べていた時があったのだが、そうではなかった。
それを知ったのは毎朝ケープ大通りを行く神教官府の行列だ。その馬車には神教官府の最高幹部であるアウグストがいるというのが定説だったのだが、ハンスはすぐにそれが偽物だと知れた。それもこの眼のおかげなのだが、しかしすぐさま疑問が浮かぶ。――では本物はどこにいったのか。
実際は名を変えて郊外に住んでいたのだが、スティーブと違ってハンスはそこまで調べられなかった。アウグストの行方は謎のままアンジェラの件が起こり、そしてテースと再び出会うことになった。
――元凶であるアウグストがそこにいる。
「待ってろよ。絶対にお前の前に行ってやる」
決意を固めてハンスはとにかくそこへと向かう。
「……!」
大通りに出ようとしたところで数名の男が眼に入り、慌てて物陰に隠れる。そっと観察すると、三名ほどの男が互いに銃で牽制しあっているようでもあった。それなりに距離があるので彼らが何を話しているのかまでは聞き取れない。激しく口論をしているのだろうという空気が伝わってきて、ハンスは嫌な予感がした。
(あいつら、互いを疑ってんじゃないのか? ……だとしたら非常に危険だぞ)
アンドレアフを追っていた連中と同じ人間かは知らないが、それでも互いに撃ち合って殺し合いを始められるのは気分が良いものではない。
(でもどうやって止めたら……)
うまく三人を無力化できればいいのだが、到底説得には応じないだろう。話し合いで解決できるのならばそもそも人を殺そうという状態に追い込まれていない。せめて相手が一人ならなんとかなったかもしれないが、三人は危険だ。
そうこう悩んでいる内に、突如大きな音が響き渡った。
「撃った!」
遅かった。いや、迷っている場合では無かったのだ。
三人の男の内、手前の一人がゆっくりと倒れていく。
向かい合っている男が握る銃口の口から細い煙が上がり、もう一人が撃ったばかりの男へ向かって引き金を引いていた。
瞬く間に二人の命が失われる。
「……なんだ、これ……!」
状況こそ知っていたものの、ここまであっさりと人を殺せてしまった彼らをハンスは信じがたい気持ちで見ているしか出来なかった。――しかも殺しに慣れたプロならともかく、ついこの間まで普通に暮らしていた人がだ。
見つかった途端に撃たれても仕方ない。改めて心が震え上がる。追い詰められた人間は簡単に人を殺せるというのは、なんと怖く、なんと悲しいことか。
「……だけど」
ここであの男を放っておけばさらに被害が拡大する。危険があろうとも取り押さえて銃を奪っておいたほうがいいのではないか?
(……近づくか)
霧の中なら視界が通る自分の方が有利だ。それにこの霧は小さな音程度ならかき消してくれるほど濃厚でもある。距離さえ詰められればなんとかなる――
(え?)
その男は何かに気付いたのか、突然振り返った。
拙い――と思ったのも束の間、男はハンスに振り返ったのではなく、むしろ逆方向へと銃を向けていた。別の人間を見つけたのだろうか。
(女の子?)
その先には自分より明らかに年下の少女がトボトボと歩いていたが、男の銃に気付いた途端に足を止める。銃を向けられたのだから足を止めるのは当たり前だが、そこで止まってしまうのが問題だ。自分の身を案じている場合ではなくなり、ハンスは一気に駆けだした。出来るだけ上半身を前へと押して背を低く走る。いくら霧が音を隠すとはいえある程度接近してしまえば背後から迫りくる足音が相手にも聞こえるだろう。実際、その男は慌ててハンスへと振り返った。足が竦んでいる黒髪で褐色の少女より明らかに敵意を放っている方へ銃を向けるのがごく自然の対応だ。
先程人を殺したばかりのその男はまた殺すのに躊躇するか、あるいは吹っ切ってしまったか、できれば前者であって欲しいと願いながらハンスは銃口から一切目を離さず、なるべく速度も殺さずに半歩以上身体をひねるようにして位置をずらした。ほぼ同時に耳元を熱が抜け、鼓膜を破裂音が強烈に刺激する。クラリとする視界をそれでも無視して次弾が放たれる前にその懐へ潜り込み、右の掌底が腹部を直撃して身体がくの字へと曲がったところを、顎に左手の掌底を加える。
「はぁっ……!」
動かなくなった男を前に息を吐く。すぐには動けないと思ってはいても、ある程度の警戒をしつつ少女へと顔を向けた。
「大丈夫か?」
「は、はい」
いつの間にか地面に尻餅をついていた少女に手を差し伸べて立ち上がらせる。少女は礼を告げて頭を小さく下げた。
「今ケープ市は非常に危険な状態だ。どこかに隠れて暫く動かない方が良い。安全なところまで送っていきたいところだけど、そんな時間の余裕が無いから……ごめん」
「い、いえ! あの……」
「どうしたんだ?」
「……えっと、ありがとうございました」
何を言い掛けたのだが、止まる。結局出てきたのは感謝の言葉でその後が続かなかった。
「……じゃあ、もう行くから。隠れてろよ」
そう言ってその場を離れるべくハンスは彼女に背中を向けた。
そんなハンスを少女はじっと見送っていたが。
「……あ……その、待って……!」
呼び止められて足を止める。
「……一人じゃ帰れないか」
つい今し方大人が殺意剥き出しで銃を撃とうとしてきたのだ、そう簡単に立ち直れるものではないだろう。急いで神教官府に向かわなければならないが、脅えている少女を放っておくのも気が引ける。ならせめて自分の手で安全な場所まで送り届けてやるべきだろうか。
「とりあえず隠れる場所を探そう。一応訊くけど、家は遠いのか?」
「……うん、ここからだと結構あるかも」
「じゃあしょうがないな。安全な場所まで送ったらほとぼりが冷めるまでそこにいること。約束できる?」
「うん」
「じゃあ一緒に行こう。はぐれないようにな」
「……うん、お願いします。あ、メイって言います」
「メイ? ああ、名前か。俺はハンスっていうんだ。ハンス・ハルトヴィッツ」
「……ハンス? え?」
目を大きく開いたメイだったが、そんな少女に気付かずハンスは手を取って軽く走り出した。
「じっとしている暇は無いから。今、このケープ市は誰が人殺しなのか判断できない。少なくとも霧の中で出会う人は危険だと判断したほうが――」
振り返って忠告を促していたハンスは突然足を止めて、メイの身体を強く抱いて壁側に押しつけ、さらに地面へ押し倒す。
「きゃぁ!」
「静かに」
顔を赤くする少女に喋らないよう告げ、ハンスは鋭く正面を睨んでいた。濃い霧の奥にはナイフを持った男が一人いる。顔はよく分からないが、少なくとも友好的ではないだろう。メイを押し倒してまで伏せたのは霧に紛れてこちらの姿を相手から隠れる為だ。さらにこれだけ壁に近ければ向こうからこちらの姿など把握できないだろう。
「あ、あ、あ、あの……?」
「人がいる。ナイフを持っている。声を立てると聞こえる恐れがある」
簡潔にそう説明するだけでメイの顔がふっと真面目なものとなり、こくりと頷いて口を閉じた。
「……」
ハンスの眼だからこそ捉えることが出来る男の姿は、しばらくするとその場を離れて道を曲がっていった。
「……ふぅ、もう大丈夫だ」
「そ、そうなんだ……ドキドキしてる。色んな意味で」
「おっと悪かったな、すぐにどくから」
なんてことのない様子でハンスは覆い被さっているような体勢からその場を退き、立ち上がる。メイに手を差し伸べて立ち上がらせようとすると、彼女は何故か少しだけ躊躇った後にその手を握った。
「……ハンスさんって、鈍感?」
「え? なんで? いきなりどうしたんだ?」
「なんでもないです!」
とにかく近場で隠れられそうな場所はどこだろうか。本当は安全な人達がいるような場所に匿って貰うのが一番なのだが、まさかここから結構距離のあるフォルカーの家まで戻るという訳にはいかない。一人ならまだしもメイと一緒なら確実に誰かと鉢合わせしてしまうだろう。
「……あそこは?」
道路の向かいにある建物の二階、どうやら飲食店のようだが、この状況下に置いて店を閉じている様子は無い。多少不信感を覚えなくもないのだが、まともな店ならば事情を説明し、メイを預けてもいいだろう。
そう判断したハンスはそこを指差してメイを見る。ハンスの考えを察したメイはすぐに同意の意を示すために首を盾に振った。
ああいう飲食店が二階にあるのは珍しくはない。夕方から夜にかけて霧が発生するケープ市ともなれば、一階で飲食する家はほぼ無いからだ。飲食店にしても一階にあるのは夕方ともなれば大体店を閉じてしまう。夜中までとはいかないものの、夜に限りなく近くなるまで開いているああいう店は大体二階に構えているものなのだ。
そして大体外から階段を伝って行けるように造られている。ハンス達もその階段をゆっくりと昇っていき、店の前に着く。そっと中を覗き込んでみるとやたらと薄暗かった。
(……鉄臭い?)
妙な臭いがする。嗅いだことのある、嫌な印象しか与えない濃い臭いだ。何があったのかは分からないが、メイになるべく壁際に寄って下から姿が見えないように指示をしてハンスはそっと店の中に入り込む。これだけ薄暗かったら誰も居ないのだろうが、運が良ければ隠れる場所にも丁度良いかもしれないという期待もあった。
――だが。
ゴツ、と足が何かを蹴る。
「……え?」
見下ろしてみると、そこには。
「うあっ……!」
死体が、転がっていた。
驚きの余り身体を起こして壁に背中をぶつけてしまう。
「な、なんで……まさか、ここも……!」
恐る恐る周囲を見回せば、そこかしこに死体が転がっていた。テーブルの上の料理を見る限りこの店の客なのだろうが、今はもう客ではなく物言わぬ物体と化している。どのような惨劇が行われればこれだけの客が殺されてしまうのか、ハンスといえど頭の中で整理がつかなかった。
「……だ、誰だ……!」
カウンターの奥から声が聞こえ、そちらに振り返る。するとそこから髪の毛を剃っている男がナイフをこちらに向けて――震えている。
「ま、待ってくれ、一体ここで何があったんだ!」
「お、お前は私を殺しにきたんじゃないのか!」
「落ち着けって! そんなわけないだろ!」
敵対する意志はないとばかりに両手を挙げる。しかし大声を出したのが悪かったのか、ハンスの後ろから女の子の短い悲鳴が耳を突いた。
「メイ!」
すかさずその口を閉じる。
「落ち着け、見なくていいから! 目を閉じて一度店から出るんだ……いいな」
「や、やだ……離れたくない……怖い……! な、なんで人がこんなに死んでるの……やだぁ……!」
これだけの死体を前にメイの心が限界を迎えたのか、堰を切ったように泣き出してしまう。そんな彼女の手を握りながら再びナイフを持つ男へと向き直った。
「とりあえず何があったのか、教えてくれますか?」
こちらが一人ではなく少女を連れていることから多少警戒心を解いたのか、男はナイフを持つ手こそそのままだがカウンターの裏から姿を現す。
「……男が突然、暴れ出したんだよ。みんな死ぬんだって、手遅れだって叫き散らしながら……まずそこの女を撃ち殺した。そして、そこの大柄な男がいるだろう……彼も犠牲になった」
ちらりと一瞥すると、大柄の男の顔は吹き飛ばされて判別不可能な状態だった。
「……あとは、必死に隠れた。悲鳴が終わった時、もう私以外に生きてる人間はいなかったよ」
「犯人は……?」
「……。そこに、銃を持った奴がいるじゃないか」
店の中央で倒れている男のことだろう。確かに右手に銃を持ち、こめかみから血が流れているようだったが――すでに血液は凝固していた。それ以上目を向けているのも辛く、逃げるように目を逸らす。
「なぁ、一体何が起こってるんだ……? さっきから外で銃声が聞こえるし、おかしいだろう……ケープ市は一体どうしちまったっていうんだ……?」
「それは……俺が訊きたいぐらいです。とにかくここに居ちゃいけない。亡くなった人には悪いけど、ここにいたら良くないから……」
「……そう、だな。店はもう諦めるしかないか」
「それしかないですね。そういうわけだからメイ、ここを移動しよう」
「うん」
店の中には死体があちらこちらに転がっている。踏まないように、だけどできるだけ見ないように気を付けながら出口に向かった。
そして店を出ると――
店の前には、五人ほどの人間が待ち構えていた。老若男女入り交じったグループがまるで待ち構えているかのようにハンス達を取り囲む。
「な、なんだあんた達は!」
店の主がそう大声を張り上げるものの集団は一切聞く耳を持たず、ただハンスをじっと見ていた。その不気味さにハンス達は半歩下がるものの、店の中に戻ったところであるのは死体ばかりだ。
「あんた、ハンス・ハルトヴィッツかい……?」
「……なんだよ、あんた達は。何の用だ?」
「やっぱりそうなんだねぇ!」
集団は互いにひそひそと耳打ちした後、決して逃がしはしないとばかりに間合いを詰めてくる。
「待て、だから俺に何の用だよ!」
「あんたを守ればいいんだろう?」
「……は?」
「お前を守れば街が救われるんだろう!」
「いや、訳が分からな――」
「ハンス・ハルトヴィッツを拘束して外に出すな! 悪魔が狙っているのはハンス・ハルトヴィッツだ!」
「なっ!」
悪魔と言ったか。この神が顕現している地でよりにもよって悪魔という単語が人々の口から出てくるとは予想もしていなかった。ましてや悪魔に狙われているなどと。
「訳が分からないっつってるだろ……!」
突然こちらの腕を掴んできた青年の手を捻りあげ、肩を胸へとぶつけて距離を取る。
「走れ!」
メイの手を掴んで一気に階段を駆け下りる。店の主もすかさず階段を駆け下りてくるのを確認したハンスは霧の中を一切迷い無く走っていった。霧のない日ならまだしも、今の状態なら逃げ切ることは容易いだろう。
「けど……」
けど、本当にケープ市で何が起きているというのか。
先程までは疑心暗鬼に囚われて人殺しをしていたかと思えば、今はハンスを守れば街が救われるという噂でも流れているのだろうか。
(それが……一体何に狙われてるっていうんだよ)
「悪魔……」
まるでハンスの心の問いへ応えるように、手を引っ張られているメイがぼそりと呟いた。
「悪魔が……悪魔に、狙われているの?」
「いや、そもそもその悪魔っていうのが……」
「……悪魔はたぶん、あなたは狙わない」
「え?」
「悪魔はきっと――」
いたぞ、という怒鳴り声に近い音声が二人の会話を止める。先回りされたのか、という信じられない事態を予想したものの、どうやら道の先にいたのは先程とは別の集団らしく、一人として見覚えがない。
つい足を止めてしまうものの、ここで引き返したら挟み撃ちにされるのは必至だ。前方の集団が何人かにも寄るが無理にでも突破するしかないだろうか。
「ひぃ、はぁ……」
店の主人の息が荒い。両手を膝について大きく肩を上下させ、弱々しくハンスを見上げていた。
「ど、どうなってるんだ……あんたを差し出せば逃げられるのか?」
「いや、それはどうだろう。あいつらが狙っているのは俺だろうけど、だからといってアンタが無事に家へ帰れる保証はどこにもない」
「……やっぱりか。くそ、悪夢だ。最悪だ」
まったくその通りだよと心の中で同意する。誰がどう見てもこの状況は悪夢としかいいようがないだろう。人の命が余りにも軽んじられており、悪魔やら救いやら情報が入り乱れ、それらに踊らされ人達が狂っていく。一体何が真実で誰が引き起こしたのか。
(それのみならず……この霧は、実際に人を殺す)
テースの言うことが本当ならば、霧は魂を狩る。この現象はもうテース自身ですら止められないということだが、そう考えれば霧が毒であるというのは間違っていないのだろう。
(それに乗じて……誰かが噂を流している)
一体何のメリットでそんなことをするのか。
真正面から迫ってくる連中を嗾けた謎の人物がいるのなら、これらを止める方法もその人物が知っていないだろうか。
「そして狙っているのが俺なら――」
「駄目!」
囮になれば二人は逃げられる――そのセリフはメイによって物の見事に音と鳴らなかった。
「駄目……ハンスさんは、悪魔と会うんでしょう?」
「え……?」
「悪魔は、ハンスさんを待っているから!」
「……悪魔って、まさか――」
「わかったの! あの悪魔が……あの人が人間と言って欲しいって心から願ってる人は、きっとハンスさんだって。だからあの人はあの時私を神教官府から外に出るように……」
もし自分を待っている人がいるのだとしたら。
「全て見透かしていたんだ……今、外に出れば、ハンスさんに出会うって。でも自分から出て行かないのは、自分からは会えないからなんだと思う……」
(いや、でもそんな……)
そこまで言われて一体誰のことか気付かぬのは愚かだ。
「それは、美しい金色の髪に……悲しそうな瞳の女の子だった……?」
その問いに、メイは一つの答えを示した。
「……待ってる、彼女が。俺を」
神教官府で待っているという。
「わかった」
待っているのなら迷う必要はない。
どこか心の中が吹っ切れたような気分だった。彼女は二度と近寄るなと、二度と会わないと断言したにも関わらず、無意識にでもまだ救われたいと願っている。あれだけ強烈に拒絶され、少なからずハンスの心を痛めたというのにだ。
その心の一端に触れることが出来たのだから、ハンスにとって心の中の障害は取り除かれたといっても過言ではないだろう。彼女がハンスの心を痛めさせたのはこれ以上ハンスを苦しめないようにするためだとしてもだ。むしろ今心を痛めているのは彼女自身ではないか。
「テース」
優しく響く名前を口ずさみ、ハンスは一歩前へと踏み出す。
「二人は少しだけここで待っていてくれ。これ以上余計な邪魔が入る前に、ちょっと黙らせてくる」
アンドレアフが教えてくれた神教官府にいるというアウグストの情報から、こうしてテースへと続く道が拓かれた。一度は掴んだその手だ、今度はもう離すつもりなどない。嫌だといっても無理矢理掴む。
喩え眼前の空間に何人もの人間が邪魔をしていたとしても、今のハンスを止められやしなかっただろう。
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