148.ハンス2
「……はっ……」
目を開くと、そこにはアンナとフォルカーがいた。
一体自分はどこにいるのだろうかと周囲を見回して、すぐにどこかか思い当たる。フォルカーの家だ。いつの間に自分はここへ戻ってきていたのだろうか。
「戻ってきたんじゃないよ、ハンス君」
そんな自分の疑問に応えたのはフォルカーだ。
「アンナちゃんが倒れた君を見つけてここまで運んできたんだよ。まさか道の真ん中で倒れてるなんてね、骨が折れた」
「……すみません」
差し出されたスープを手にとってハンスは頭を下げる。
「君こそ何があったのかは……教えてくれないんだろう」
「すみません。今は、まだ」
「わかっている。でも今は出ない方が良い。なんだか異様な雰囲気なんだ、街が」
窓の外を見てみろとばかりにフォルカーがカーテンを開く。すると何かの冗談かと思えてしまうぐらい外は白く、先がまったく見えなかった。
実際は何も見えないわけではない。今のハンスは霧の中だろうと視界が通ってしまうのだが、、意識すれば人間とさほど変わらない程度の視力となる。無意識化では人間を超えた目になってしまうのだが。
「やっぱり二階にまで霧が届いてたんですね。下からだといまいち分かりづらかったから」
「それもあるんだけど、街全体が妙な空気になっている」
「妙?」
「うーん、ピリピリしてるっていうか、緊張感があるというか……とにかく今は外へ出ないほうがいい」
そうかもしれない、とは思うものの、そういうわけにもいかなかった。テースが去っていった後、情けないことにその場で気絶をしてしまったようだが、だからといって彼女をここで追わなければ今までやってきたことは全て無駄になる。
最後になるだろう真相が間近にある。
彼女を救い出す術がその真相にあるのかもしれないのだ。それを知るまで立ち止まるわけにはいかなかった。
(それに、テースはこの霧について何か言っていなかったか……魂が人の命を喰らう、とか)
もしそれが事実なら異常気象なんてものではない。霧そのものが死神みたいなものである。
(でも本当にそうならフォルカーさんが平気だった理由にはならない、か。魂が狩られる条件みたいなものがあるんだろう。俺とフォルカーさんは引っかからない。……恐らくアンナも。死ぬ人と俺達の差はなんだ?)
もしかしたらテースに、あるいは死神を見ているか否かと特定しようにも、それだけで断言するには些か強引すぎた。ホマーシュも問題無い様子だったが、ではスティーブはどうなるだろう。
霧には何かしらの判断基準が存在するからこそ、自分達が外を歩いても問題無かったのだ。
「ごめん、フォルカーさん。でも俺行かなくちゃならないんだ」
「え、で、でも」
「折角掴んだんだ。テースがいたんだ。……だから」
「……。そうか、後悔しないんだな」
「しない」
「はぁ……わかったよ」
頭を軽く掻いてからフォルカーは一端台所へと戻り、料理を持って戻ってくる。
「出るにしても何か食べてからだ。ろくに食べてないんだし、途中で倒れたら元も子もないだろう?」
「……まぁ、そうですけど」
肉の焼ける匂いが鼻をつく。意図せず腹の虫が鳴り、ハンスは少しだけ顔を赤くしながらも並べられた料理をとにかく平らげた。
「そういえばアンナは?」
「向こうで寝ているよ。さすがに疲れたんだろう。仕方ない、あれだけのことがあったのだから」
テースが死神として覚醒したという行政官府地下の閉ざされた大部屋、その真下にあった大量の骨。その場で起こった惨劇こそ過去のこととはいえ、まだあの部屋は当時の空気を残しているような場所だった。勘の鋭いアンナがそれにあてられたとしても仕方ない。
「なぁ、ハンス君」
「なんですか?」
「俺達は、これ以上調べていいのかな」
「え、今更何を……」
「ああ、今更さ。けど、相当危険なところに足を入れているのも確かなんだ。俺だって何が起こったか知りたいさ。……あの人の魂を狩ったのが、本当に……あの子だったのか、知りたいんだよ。だけど」
「……俺やアンナを巻き込んでいるのが怖くなったんですか?」
「――ッ!」
言葉に詰まり、フォルカーは目を逸らす。
「……ああそうだよ。何も感じてないわけじゃない。むしろ罪悪感がある」
「罪悪感、ですか」
「君と出会った時、無理矢理にでも君を引き留めていれば……っていうね。だけど知りすぎてしまったんじゃないか、俺達は。もう後戻りできないところにいるんじゃないか。事態は俺達の思っているより深刻になってんじゃないかって、そう思うようになったんだ」
「だけど、あのまま放っておいたら!」
「ああ、君の言う――あのテースという少女は助からないんだろう」
「なら、迷うことなんてない!」
「アンナを巻き込んでもか?」
「……あっ……」
気付かない振りこそしていたが、決して逃げて良い問題ではなかった。アンナという小さな子はもう巻き込まれているとはいえ、これ以上先の闇に引き摺り込んで良いものかどうか。フォルカーは大人だ。ハンスも自分の力で自分の身ぐらいなんとかするぐらいの能力はある。しかしアンナだけは違う。聡明で勘が鋭いといってもまだ小さな女の子なのだ。自分の身を守る術をあの子は持っていない。
そんな子を引き摺り回してあの死神が生まれた部屋のような場所に連れて行こうというのか。
「……なら、俺一人だけでも」
「テースを助けに、かい」
「ああ……俺がやることはそれしかないから」
「それで君が死ぬ可能性は?」
「……。ある、と思う。だから弟と妹を教会に預けてきたんだ」
「命を失ったらそこでお終いなんだぞ?」
「――分かっています」
ハンスは拳を強く握りしめて、
「だけど、テースは独りなんだ。誰もテースを救ってやれないんだ。孤独で死にそうな彼女を救わないなんて、俺に出来るはずがない!」
それがハンスの決意だ。
アンジェラを殺したのはテースかもしれない。あるいはテースに殺してくれと残酷な願いをしたのはアンジェラで、それに応えただけなのかもしれない。あの時の出来事をどう受け止めるべきかまだハンスの中では整理が着いていなくとも、テースを助けなければならないというこの気持ちだけは本物だった。
「フォルカーさん、俺は間違っていますか?」
「……さぁ、俺には分からないよ。俺は愛していた女性が目の前で死んだんだからね」
色々と込み入った事情こそあれ、フォルカーは死神によって愛していた女性を失ってしまった。その時の悲しみは喩えようもなく、そしてあの時の光景は嫌でも脳に刻み込まれて風化することがない。
――その悲しみをハンスにも味あわせるのか。
「……自分の立場で考えた時、やっぱり好きな人には死んで欲しくないと思う。命を賭してでも、いや、命を失ってでも守れたほうが良かったと後悔した夜は何度もあった。今でもこの命と引き替えに彼女が蘇るなら躊躇うことなどないだろうさ」
「フォルカーさん……」
「だから、自分に素直になるとさ、何も言えなくなるんだよ。……ハンス君の気持ちが分かるからね」
「……ありがとうございます」
「さ、食べ終わったんならコーヒーを一杯飲んで、それから行くんだ。何事も落ち着いて対処しないといけない場合があるからね、その時はコーヒーの苦みを思い出すと案外冷静になれるもんだよ」
カチャカチャと音を立てて食器が片付けられている間、ハンスは外の様子を眺めていた。先程フォルカーがピリピリしていると言っていたが、果たしてどういう状況なのだろうか。
霧が濃すぎる所為で間もなく正午だというのに歩く人の姿は極端に少ない。皆無といっていいほどだろう。時折歩いている人の姿を見かけるが、それでもまるで霧から逃げるように走っているではないか。
「あんなに太ってるのに、一所懸命に走って……」
そこでハンスは驚いて目を見開く。
「……あれ、アンドレアフさんじゃないか!」
通常の人ならこれだけ濃い霧の中で人が走っているのを発見することは相当難しいだろうが、今のハンスは違う。さらによく意識して霧を見通すせば、幅の広い身体を懸命に振り回しながら走っているのは間違い無く見知った顔だった。
一体何から逃げているのか、その後方に目を向けると二名程度の男が手に何かを持って追いかけ回していた。
(銃か……!)
「何やってんだ、あの人は!」
窓を開いて飛び降りる。二階からなら着地に気をつけさえすれば怪我をすることもないだろう。
「アンドレアフさん!」
そして叫んでその記者を呼び止めた。
「その声、ハンス……ハンス・ハルトヴィッツか!」
「いいからこっちに来てください!」
よく見えない霧の中では方向が定まらないのも仕方ない。アンドレアフの手を掴んで家の中へ引き摺り込み、すぐさま扉を閉めた。
「ぜぇ……はぁ……た、助かった……」
「どうしたんですか、何をやってるんですか!」
「お、俺にだって……わかるもんかい……ぜぇ……」
とにかく酸素を吸い込んでアンドレアフは呼吸を落ち着かせる。
「と、突然襲ってきたんだよ、霧の中を歩いてる奴が犯人だっつってな……」
「犯人……?」
「……あ、ああ、あいつら……霧の所為で、いや、霧と最近の大量死のせいで、頭がイカれちまってるんだ。霧に毒を混ぜてる奴がいるっつってな……」
「まさか……霧の中を歩いても平然としてるから……そいつが毒を撒いてる奴だって、そんなことを?」
「馬鹿な話だろ、平常時ならあいつらだって信じないさ……問題は事実がどうあれ今が異常事態だということだ」
椅子に腰を下ろしたアンドレアフはハンカチで額を拭う。
「なんでそんなことに」
「外歩いていたらいきなり襲われたからなぁ。この霧の所為でこうなっちまったが、霧が無かったら殺されてたってところがなんとも……」
「そんなこと言い始めたのは誰だろう」
「わからん。だが」
ふぅ、と空気を吐き出すアンドレアフ。
「吹聴している奴がいるのは確かだ。もしかしたらケープ市全部にそういう噂が広がっているかもしれない。そいつが霧に紛れて毒を撒き、ケープ市を全滅させようとしてるってな」
「……突拍子もなさ過ぎる。馬鹿らしい」
「ただでさえ正常な判断を奪われちまってんだが、これがまた全く信憑性の無い噂ってぇわけじゃない。ここ二日で死んだ遺族の中にはよ、霧に触れた瞬間に死んだって目撃もあるぐらいだ。あ、ここ喫煙いいかい?」
「禁煙です」
「はぁ……喫煙者にゃぁ厳しい時代だ。んで、事実人が死んでいる。二百人以上もだ。今だって死に続けている。その中で神が降臨したであろうケープ市という土地を狙っている連中がいる、と噂の中に練り込んでおきゃぁ……ああもなるかもな」
「どういうことですか?」
「わかんねぇのかい。このケープ市の特徴を考えてみろよ。信心深い連中がたくさんいるだろうが」
「……信心深い……あ、もしかして――」
「ああ、奴らはこの神聖な地を守ろうと必死なのさ。それこそ命懸けで。さらに人によっちゃぁ敵討ちだ」
「そんな……」
だとしたら、もう街の人達は――どうしようもない事態が展開していっているのに、これは止められない。止めようがない。
「止まらないんだろうよ。ほとぼりが冷めるまで逃げ回るっきゃねぇ。……はぁ、ここで救われたのは運が良か――」
ドン、という音と共に、アンドレアフの巨体が揺れる。
「え?」
アンドレアフと向かい合っていた扉には小さな穴が一つ空き、その先には何者かの姿が見えていた。誰かまでは判断が付かない。ただ、さらに二つ、三つと穴が開き、アンドレアフの身体に何かが突き刺さった。
突然のこと過ぎてハンスといえど状況が飲み込めず、全く動けなかった。ただアンドレアフが口から大量に赤い液体を吐いて前のめりに倒れていくのを見て、辛うじてそれを支えるだけだ。
「アンドレアフさん……?」
「が、はっ……」
三発の銃弾が無造作に身体へと撃ち込まれている。そうした人物がまだ扉の向こうにいると思うと、ハンスの身体が緊張して固まった。かといってここでこの記者を見捨てることもできず、呼吸を荒くして扉を睨む。
扉の向こうにいるだろうそいつの気配は暫くその場に留まっていたが、やがて遠ざかっていく足音が聞こえた。まだ油断こそできないが自分まで固まっているわけにも行かず、すかさずアンドレアフに振り返る。
「大丈夫ですか!」
「ぐ、ああっ……」
「しっかりしてください!」
階段の上へと周り両脇に手を入れて階段の上へと引っ張ろうとするも、重すぎてそう簡単には持ち上げられなかった。
「な、何があったんだ!」
階段を下りてきたフォルカーは目の前の惨劇に小さな悲鳴を上げたものの、ハンスが老記者を抱え上げようとしているのを見てすかさず手を貸した。
男二人掛かりでも二階にまで連れて行くのに苦労したものの、すぐさまその場で出血を抑えるために服を破き、怪我の様子を見る。
――だが。
「うっ……」
フォルカーはそう呻いて口元に手を当てた。
「がはっ、ぐ、あ……!」
「アンドレアフさん、しっかりしてください! 包帯を、早く!」
「あ、ああ!」
急いで走って救急箱から包帯と、そしてタオルを数本持って行く。それだけで出血が止まるとも思えないが無いよりはマシだろう程度の考えだった。
「くそっ……!」
ハンスの手際は素人目にはなかなかに見えるものの、アンドレアフの怪我はそんなものでどうにかなる範疇を超えていた。
階段もそうだがアンドレアフを中心として床への出血が夥しい。
「駄目だ……! 止まらない……!」
それでも必死になって、決して諦めずにハンスは手を動かす。三発も撃たれているのだから手が二本あったところで足りないのだが、それでもハンスは諦めなかった。
「ぐっ……ハンス、いい、や、めろ……! はぁ……助からない……お、れは……」
「弱気なことを言わないでください!」
「聞け……、俺を撃ったのは……たぶん、『右腕』だ……!」
「……右腕……まさか」
実際は右腕の部下だろう。一度だけ奴のアジトに乗り込んだきり関わらないようにしてきた人物でもある。実質的なこのケープ市の支配者と呼んでも差し支えない権力を有しているという話も耳にしたことがあった。
しかし撃ってきたのが先程追い掛けてきていた連中ではなく、別の連中だというのはどういう理由か。それを知りたいと思いつつもハンスは先に手を動かす。
「あいつは……! 俺を、利用して……ハンス……お前を発見、した……!」
「いいから! 黙っていてください!」
タオルはもう元の色も分からなくなるぐらい赤く染まる。アンドレアフの顔から血の気が失せ、唇は青くなっていた。それと同時に体温も失われているのだろう、段々と暖かみが失せていく。
「聞けッ……、アウグストは、神教官府にいる……!」
「……え……?」
アンドレアフは突然ハンスの胸ぐらを掴み、死が直前に迫っているとは思えない迫力で、叫ぶ。
「真実、知りたいんだろうッ……! 記者だから分かる……真実は、命懸けじゃないと、掴めねぇッ……!」
「ですが……」
「だからお前は……! 今まで……あの時から、必死扱いてやってきたんだろうがッ……!」
今までハンス・ハルトヴィッツという少年が何をして、何を達成しようとして全てを投げ捨てたのか、アンドレアフは何となく掴んでいたのだ。そんな彼を追い続けることで特ダネを得たいという下心はあったものの、内心彼を応援している自分は誤魔化せなかった。
このケープ市という特殊な街に隠された闇を、少年は全力で暴こうとしていたのだ。その目的理由は何か、たった独りの少女を救う為に。余りにもドラマティックで美しく、余りにも愚かな行為を実践する若き冒険者を前に、年老いた記者は自然と心が躍ったのだ。何か一つに打ち込むことなんて忘れて久しい。年寄りの冷や水でもいい、彼の行く先を見てみたかった。
だからハンス・ハルトヴィッツを追い掛けた。
追い掛けて。
そして今、成長した彼を前にアンドレアフは少しだけ後悔していた。ここまで踏み込まなければ良かった。もう少し離れていれば良かった。そんなことは自分の性分からしてあり得ないと知りながらも、そうすれば――
(――そうすれば、もう少しこいつの未来を、見ていられたなぁ……)
それが唯一の心残り。
「ああ、焼きが回ったもんだ」
もう少しだけ生きていられれば、自分が失った物をもう一度掴めたかもしれない。
そんな望みがあろうとも。
「ま、いいさ……」
ここで終わったとしてもせめて若者に自分の意志を継がせることが出来ればいい。家族が一人もおらず、天涯孤独の身である自分でも、誰かに何かを伝えていけるなら。
だから、この狂った街の真実を知ってくれ。
「……アンドレアフさん?」
ふと力が失われてしまった彼の手を掴んで、名を呼ぶ。
「アンドレアフ……さん……」
名を呼んでももう反応はない。二度と顔を上げない。口も聞かない。何度も何度も、それこそ何十年とペンを握り記事を書いてきたその手は二度と動かない。
「……俺は……また目の前で……!」
「ハンス君……」
「なんで俺は、誰も助けられないんですか……?」
「……それは」
「なんでだ、なんで……どうして……!」
「お兄ちゃんはがんばってるよ」
「……え」
顔を上げると、そこには暗い顔をしたアンナが立っていた。
「がんばってるの、しってる。だから……」
だから、の後が続かなかった。元気づけてくれているのだろうか。こんな血だらけの部屋の中、たった今命を無くした人の前で己の無力に打ち拉がれているハンスを元気付けようとアンナは声を掛けたのだ。
「……ああ、そう、だよな」
ここでただ落ち込んでいたところで何も始まらない。アンドレアフを死なせた直後に動くのは精神的にかなりの負担が掛かろうとも、折角くれた情報を無駄にしてはいけない。
「フォルカーさん、俺行くよ」
「……ハンス君、だけど」
「アウグストは、神教官府にいる。今まで逃げ回っていただけだと思っていたのに、あいつはそこにいるんだ。だったらもう逃げている場合じゃない。俺はアウグストに会って、聞き出さなきゃならないんだ」
「死神の止め方を、かい?」
慎重に訊ねたつもりだったが、ハンスは首を横に振った。
「違う、死神を……人間に戻す方法を」
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