140.テース2
霧は一向に晴れる様子もなく、ケープ市を重く覆い隠していた。
それでも夜に比べれば幾分かはいいのかもしれないが、目に入る色が黒から白に変わっただけで基本的に視界が良好と言い難いのは同じだ。
そんな中、カフェの中でアウグストは一言も発することもなく黙ったまま外を眺めていた。ただただ誰かを待つように、あるいは時期を待つように彼は霧を眺め続けている。
カラン、と乾いた音が出入り口から聞こえてくる。数秒後、自分の席の向かいに重苦しい何かが腰を落とす音が静かな店内に響いた。
「やぁ、アウグストさん」
「……君か」
自分の本名を言われたことに驚くことはなく――というよりも今更その程度に驚くことなどないのかもしれない。ある種の達観した冷静さが彼には備わっていた。
「私の本名をどのように知った?」
それでも敢えて訊ねなければならなかった。自分の名前を知るということは、
「とある人物とアポが取れましてね。いやはや、長年記者をやっとりますがねぇ、あんな緊張したのは初めてですよ」
「そうか……彼に会ったのか」
「ええ、『右腕』と呼ばれているこの街の闇ですよ。ケープ市の裏の顔とも呼べるマフィアの頭だが、それ故にこの街で隠された事実を知っていた」
「どうやら大体の事情を知ったようだな」
「いいえ、おそらくまだ半分といったところでしょうなぁ。――あの『右腕』ですら全てを話そうとはしなかった。それは話さなかったのではなく、話せなかったのではないかと睨んでるんですがねぇ」
アンドレアフの記者として長年培ってきた勘が全体の半分しかまだ知らないと断定する。彼が知っているのはこのケープ市で行われた実験の内容と、彼らの行く末だ。どうしてあの『右腕』がそんなことを話す気になったのかは不明としても、それら一連の出来事が本当に事実なら大スクープになるのは間違い無かった。
「知りすぎだ」
そこでアウグストはそう断言する。
「お前は、剰りにも知りすぎた。これ以上この街にいるべきではない。できるだけ、そう、国外に逃げろ。この国にいるべきではない」
「おや、冗談にしては恐ろしいですなぁ」
ウェイトレスにコーヒーを注文したアンドレアフは太った身体を背もたれに預けて窓の外に目を向ける。
「しかし私もとある少年を捜していましてねぇ。『右腕』は結構なヒントをくれたんですが、まだまだ辿り着きそうにない」
そして一連の事件に深く関わっているのがハンス・ハルトヴィッツという少年だった。彼と会うことで深い闇は日の下へさらされることとなるだろう。
「会うな」
アウグストの否定の言葉は予想していなかったものではなく、むしろそうくるだろうと踏んでいた。この町の闇が深く根深いのなら――アウグストという人物が知らない筈が無いのだ。
そう、かつてこのケープ市をほぼ支配したであろう眼前の男が、このケープ市の最奥で行われた最悪の実験に関わっていないなど考えられない。
「アウグストさん」
だから記者は彼を逃がす訳にはいかないと、その双眸を視線で射貫く。
「貴方は何をしたかったんですか?」
そしてアウグストという男には遠回りで訊こうが単刀直入で訊こうが変わらない。アンドレアフがこの男と交わした言葉はあまり多くもないが、それでもアウグストという人物が世の中の大半を諦めているのだということだけは知っていた。
そういう人物に搦め手は無駄だ。諦めている人間はすぐに考えることを放棄する。ならば放棄させる前、反射的に答えそうになる質問を投げるべきだった。
「何を、か……決まっている」
(どうせ神を作りたかった、とかいう与太話だろう)
そう、あの実験の話を聞いている最中によく耳にしたのは、神の降臨や神の再来という言葉だった。どちらもこの地方に伝わる御伽噺を考えれば密着していないともいえない内容だが、それでも与太話の範囲を出ない。
(神を降臨とか、再来とか……むしろ神を冒涜しているんじゃないのか)
だがそれも人間の性とも呼べるものだろう。たとえ禁忌だとしても手が届く力があるのなら伸ばしてしまう、恐らくはそういうものなのだろう。
「そう、決まっている」
アウグストは目を合わせることなく、その視線はひたすらに外の霧へと注がれていた。
「娘を、守るためだ」
それはあまりにも予想外の答えであり、アンドレアフは彼に対する評価が的外れだったことを知る。
「守れなかった」
「守れなかった?」
「この町で守れるものなぞ、何も無いということだ」
「……今、娘さんは?」
「生きている」
「そうですか。一緒には暮らしてない……ようですな」
「暮らす、ねぇ」
何が楽しかったのか、アウグストの口元がわずかにだけ歪んだように見えた。
「もう彼女と暮らせる人間など、おらん」
「……しかし、いくら過去に何かがあったとはいえ娘なのでしょう? なら関係も時間が修復してくれるのでは」
「人間ならそれもあり得るだろうが、相手が神なら、一体何をどうしろというのだね。愚かなことを言うものではない。何も知らぬ者は何も知らぬままでいるのがいい。これ以上追うな、求めるな。君が知ろうとしている事実は、君が想像するよりも遙かに巨大で深い。もう一度言う。これ以上関わればあんたは死ぬことになる。死にたくなければ今すぐ何もかも捨てて国を出ろ」
「……」
流暢に喋り出したと思えば、アンドレアフは圧倒されていた。彼の言い放す内容もそうだが、今まで微塵もそんな気を起こす様子の無かったアウグストが怒りで表情を変えているのだ。
「これは私から君へ贈る最後の忠告だと思ってくれたまえ。今この時よりこの忠告を蔑ろにした瞬間、もう未来はない」
凡そどのような脅し文句も鼻で笑ってきた、あるいは一定の引き際を弁えた熟年の記者といえど、アウグストの醸し出す異様な空気には圧されてしまう。
「……忠告は有り難く受け取っておきましょうかねぇ」
努めて冷静にそう言い放ち、アンドレアフは席を立つ。
「これからハンスを探さなけりゃぁならんのです。見つかりましたらそっちにも連絡しますよ」
「……構わん。連絡も要らん。ただ、二度と私の前に来るな」
「それは今後次第、ということで」
アンドレアフはコーヒーを一気に煽ると、その分の代価をテーブルに置いて店を出た。
すると出た先には数人の男が――その中心に見覚えのある小柄の男がニヤニヤと笑みを浮かべてアンドレアフに顔を向けている。その瞬間「しまった」と呟きそうになるのを飲み込んで、高鳴る鼓動を如何に隠すか、顔に出さずにいるかに気を遣いながら両手を広げた。
「これはこれは、どうしましたか? お散歩ですかねぇ」
「安心してくれていいよ」
小柄な男は――『右腕』はゆっくりとアンドレアフへと向かって歩いてくる。
「今はあんたに用事は無いから、どうか気楽にしてほしいものです」
向かっていたというのは彼の一方的な勘違いだった。記者の脇を通り抜けて『右腕』は店内へと入っていく。
「……ずっと、見張っていたっていうのか?」
遅れて入ろうとしていた『右腕』の付き人に向かって言うものの、その男は肩を竦めただけで無言のまま店内へと消えていった。