139.テース1
この町は緩やかに死へと向かっている。
それを肌で実感したのはただの偶然ではなく、コンラッドにとってはごく日常の中に混ざった違和感を嗅ぎ取っただけに過ぎなかった。誰だって食べ慣れているシチューの中に普段は入っていない唐辛子が浮いていたら気づくように、老人が培ってきて、且つ染み込んだケープ市の日常というのは深く重い。余りの違和感にぞくりと震えるが、しかしてこの違和感を拭う術がないことも長年の経験から導き出された答えだ。
そう、ケープ市は緩やかに死へと歩き出したのだ。
「死者が百名を超えた……」
新聞の記事はその死者数を大きく取り上げて連日騒いでいる。連日といってもこの異常な死が発生し出したのは二日前だ。連日というには日数が足りないだろう。それでもコンラッドはまるで毎日その暗い祭りが行われている気がしてしょうがなかった。
大量殺人鬼でも、流行病でもないと新聞には書かれている。もしそうではなければたった二日で老若男女関係なく、家系も交友関係も生活も職業も全く関係のない人間達が百名以上死んだのだ。新聞が発行された時間を考えれば現時点で二百名を超えているのではないだろうか。
死因は不明。
怪我も病気もない。原因はまるでわからない。あくまで現時点で不明というだけで、将来的には解明するのかもしれない。しかし病以外、一体どういう原因でそんなことが起こり得るだろうか。
そもそも人というのは存外簡単には死なないものだ。もし簡単に死んでしまうのなら、普段の生活からして死を常に意識していなければならないだろう。戦争でも紛争地域でもないというのに、そこまで意識して生活している人間はそういるものではない。
もしこれらの人間に共通しているとするなら――いや、このケープ市に住むすべての人間に関係するものならコンラッドにも心当たりがあった。
「水……か?」
その水に何かが投入されているのか。毒か。病気か。しかし人が死ぬ程のものなら、もっと多くの人間が死していてもおかしくはないだろう。しかし水と空気、それ以外にこの市に住む人間に共通するモノは他にあるだろうか。
「ない、か」
「ないですね」
そして静かな声が聞こえてくる。
「おはようございます、コンラッドさん」
「……テースちゃん、か」
黒い服に金色の長い髪。静かな蒼い瞳に変わらない笑み。そう、彼女は普段と変わらない。変わらないのに、黒い。まるでこのケープ市の闇へと溶け込むような、そんな黒い色だった。
それでも目を奪われるほどに美しい。
「珍しい服を着ているなぁ」
「いえ、そうでもありません。もう私は元には戻れないので」
「戻れない?」
妙な違和感を覚える。ただ黒い服を着ているというだけで、一体何が違うのか。
「コンラッドさん」
静かな笑みをたたえたまま、彼女は新聞を一つ手に取った。
「不思議ですね。新聞はこんなにも情報を載せているのに、どれが真実か分からないんです。私は文字から事実を読み取れません」
「そうさなぁ、けど新聞はそれ故に売れるんじゃないか」
「真実と嘘が混じり合っているかもしれないのに、ですか」
「大体は事実だろうが、文字に起こせん真実というのもあるのだろう。そいつは否定できんし、否定する気もない。そしてそのことについてとやかく文句を言うつもりもないがのぅ。こうやって束になった新聞を売る商売人が、商売道具を悪く言っちゃぁおしまいだ」
その商売道具を一つ手にとってぽんと肩を叩く。
「それに新聞がそうだからこそ、人は好奇心を煽られてまた明日も手に取るのだろう。政治家のスキャンダル、有名人の不用意な発言、スリルとサスペンス溢れる怪奇事件。どれもこれもフィクションじゃない。しかし完全な事実が報されることもない。新聞はその絶妙な部分を見事に突いて人々のたわいない好奇心を駆り立てるのさ」
「さすがです。本当にそう思います。文字というのは、私にはない素晴らしい力のようです」
「ふふ、長く生きたからのぅ。そういうことを考えちまう時間もたっぷりあったのさ」
「そうですね。でもコンラッドさん、あなたは」
優しい笑みの筈なのに。
コンラッドはゾクリと、今まで生きてきた中で感じたことのない寒気に襲われる。
「あなたは、そこまで聡明でありながら」
彼女の笑みは優しい。優しいのに、まるで暖かみを感じなかった。表面だけを観るならいつも通りの美しい少女だというのに、どうしてだろうか、コンラッドはまるで別人と会っているような気分にさせられる。
「どうして」
そっと、少女の手が伸びてくる。
「どうして、ハンスさんをここに閉じ込めるようなことをしたのですか?」
「……ッ!」
その言葉だけでコンラッドは声を出せなくなる。
「三年前ハンスさんがこの街に戻ってきた時、貴方はハンスさんに近寄って身近な人間を演じました」
少女の手がコンラッドの肩を掴む。びくりと身体が一度だけ跳ねて、それ以降全く動かなくなった。
「彼に、親のいないハンスさんに近寄って、今後はどうやって兄弟を育てていくかのアドバイスをしましたね」
コンラッドの身体は決して震えてなどいないのだが、それでも確実に寒気に震えていた。芯の芯から心が震えた場合、身体は何も反応しなくなるらしい。目の前の少女に――自分の四分の一程度しか生きていない少女にこうも気圧されている事実もまた信じがたかった。今まで出会ってきた中で最悪の人間は何人もいたが、そもそも目の前の少女は『人間』なのだろうか。
「そのアドバイスはハンスさんを効率よくこの街に留めることとなりました」
ヒュー、と喉から音が聞こえてくる。そこで初めて口の中が渇き切っていることに気付く。
「『ここで君が頑張らなければ、弟さんと妹さんは将来どうなるのかね』」
「……はっ、ぁ……!」
「『ご両親がいつ帰ってくるか分からない今、君が頑張らなければならない。君が、二人の面倒をみるんだ。だがまだ君は子供だ。蓄えがある内に稼げるようになるのなら、そうだな、一番良い方法がある』」
終には誰にも知られず墓にまで持って行こうと思っていた彼の中の真実が、眼前の少女によって抵抗も許されず引き剥がされていく。
「『神官学校に入り神官となることだ』」
「……な、んで……」
「なんで、ですか」
コンラッドの問いを、テースの問いが覆い被さる。
「なんでハンスさんを閉じ込めるようなことができたのですか?」
その問いはとても不思議だった。疑いようがなく眼前の少女は全てを見透かしている。その少女がどうしてそのような問いを投げかけてきたのだろうか。
そう、ハンスを閉じ込めたのか、ではなく、そのような真似ができたのか、というコンラッドの行為について疑問を投げかけてきている。そしてそれに対してコンラッドは即答できるだけの言葉を持っていながら、喉からそれが吐き出されることがなかった。
「わかっています」
彼の喉の代わりに答えを用意したのは、よりにもよって問いを投げかけたテース本人からだった。
「貴方は当時、神を信じていました」
「……」
「神の代弁者の手先となって動くことに誇りを感じていました」
「……なんで、そんなことを……」
「神はハンスさんを欲していたから、貴方はそういう行為に出ました」「しかし」「しかし今のコンラッドさんは神を信じておらず、自分が被害者とすら考えています」
コンラッドの弁明の言葉を遮るような形で、テースは語り続ける。
「ですが、おかしいですね。貴方は心から神を信じていたのに、どうして今は信じていないのでしょう」
何があろうとも神を信じるつもりでいたのなら、多少のことでその信念が揺らぐものではない。コンラッドの心が変わっただけの何かが起こったと、テースは指摘している。
「コンラッドさん」
そしてテースは変わらない笑みのままで、さらに責めるように――しかしまったく責めていることなどなく、彼女の口調は一切変わらない。ここまでくるとテースという少女は一切感情が備わっておらず、その顔に張り付いている笑顔はまさに仮面ではないかという疑いすら持ってしまう。
「二度と、ハンスさんに近づかないでください」
そしてまたコンラッドは――ここにきて初めてそれを見た。
ここまではっきりと人に命令をするテースなど、今までの彼女を見て誰が想像できただろうか。
「それでは、もう私も二度と会うことはないでしょう」
一度だけ小さく頭を下げた少女はそう言い残して霧の中へと消えていった。深く濃い白い霧は彼女の黒い姿をすぐに飲み込んでしまう。深く白いそれの中に姿が消えると、コンラッドはようやく肩を大きく上下させて肺の中に空気を流し込む。それと同時に全身から溢れるように汗が噴き出した。
そこでコンラッドは気付く。
死を感じていた具体的な原因は、その霧にあるのではないか、と。
その霧の中に消えていった彼女の姿は、まるで霧を自在に操るか――守られているようにすら思えた。