136.地獄の始まり2
テースはフォルカー達に家へ戻るよう強く言った。
肩に乗っている黒い雀と会話していた事も驚きだったが、その会話から何かを聞き取ったのか、テースは無理矢理フォルカーとアンナの背中を押した。
「絶対に出てはなりません。フォルカーさん、霧を絶対に家の中に入れてはいけません」
「はっ、え、あ?」
テースの豹変ぶりに一番驚いたのはそのフォルカーだった。出会ってからまだ数時間という少女だが、そのあまりの完璧ぶりと落ち着いた行動から、その慌てる姿が想像出来なかったのだ。
しかしテースの顔はフォルカーが見ても明らかに動揺の色を隠せていなかった。とにかく戻ってくださいと懇願するように言い続け、結局フォルカーはアンナの手を引っ張って戻ることを選択する。
「君達はいいのかい。戻らないのかい?」
「私達は大丈夫です。私達だけが、大丈夫なんです」
「おねえちゃん……」
「アンナも戻りなさい。今のあなたでは危険過ぎるから」
「……うん」
アンナはそう頷いたあと、フォルカーに引っ張られていく。二人の姿が消えた後、ハンスは改めてテースに問いを投げる。
「……何が起きたんだ、テース」
「後で詳しく話します。状況は把握しました。――これは私と、ハンスさんでなければ何も出来ません」
「何も、とは……?」
「地獄が始まるのです。私が味わった地獄、それ以上の事が起ころうとしています」
「それ以上の……だって」
顔が強張る。一度地獄を味わい、その後もずっと人の願い通りに魂を刈り続けてきた少女がなお地獄と呼ぶ事態が起ころうとしている、ということだ。
「こちらへ」
「どこへ行くんだ?」
「――宛はありません。けど、今このケープ市には死が蔓延しています」
テースは少年の手を掴んで裏通りを走り抜ける。こんなところをテースみたいな少女が通ればどんな危険な目に遭うかわからないのだが、それを知らない少女ではないだろう。しかしテースは普通ではなく、先程の行政官府であった人混みの時みたいに誰にも気付かれない方法を取っているのかもしれない。
薄暗い通りは黴臭く、湿った空気が肌にまとわりつく。恐らくは誰にも気付かれていないと知りつつも、やはり隠れた隙間から人の視線を感じるようで、どうしても気分が落ち着かなかった。
通りを抜けて表通りに出る。
「テース、何を知ったんだ?」
そこでようやく言葉を発した。
「……私が死神を一度でも拒否したから、たった一度で最悪な事態をもたらしてしまいました。死を望む人が魂を狩られなかったから……違う、そうじゃない。私が『存在を一度でも否定したから』、町を覆う霧が、人を殺し始めたのです」
「……え?」
「人が神を求めた代償――とでもいいましょうか。町はこれから霧が覆う時間になると百名余りの人が死んでいくことになります」
「なんだ、それ……」
「これは私も予想が出来ません。この霧が最終的にどうなるのか、誰にもわかりません。どうして……」
テースですら想像もしなかった事態が、今、町を覆おうとしている。ハンスは咄嗟に道行く人を一瞥し、人々の顔から明るさが消え去っているのを察する。
(町の雰囲気が、変わっている?)
いつの間に変わったのだろうか。少なくとも昨日まではいつも通りのケープ市だった筈だ。誰もが笑い、誰もが明日に希望を持ち、そして辛さや苦しみを内包した日々を過ごしていた――
(……いつも通り?)
どこか違和感を覚える。昨日までの人達は本当に『いつも通り』だっただろうか。
「ハンスさん」
はっとして彼女に振り返る。
「どうしましたか」
「い、いや……」
テースは気付いていないのだろうか。正体不明の違和感に。ケープ市はこの間までいつも通りだったが、ここ数日の間は異様な熱気に駆られていた事を。
「霧はどうしたって晴らすことは出来ません」
「霧が殺すって、触れると駄目なのか?」
「触れるだけという条件だけじゃなく、きっと別の――」
テースはそこで言葉を句切り、足を止める。ハンスも前方からその殺意を感じ取り、同じように前を見据える。
「追いつきましたよ」
道行く人達が悲鳴を上げていた。その中央から堂々と歩いてくるのは、巨大な剣を片手で握った神父だ。ずるりとだらけた刃先が地面に一筋の線を作っていた。
「……ホマーシュ!」
思わず対峙するように身体を構えるが、ハンス自身、頭の中で相対すべきではないと叫んでいた。地下で見せたホマーシュの身体能力、そして戦闘能力はまだ若いハンスの全てを超えている。
「やる気ですか? その方が都合が良い。僕は君を殺したくて仕方ないんだ」
「やっぱアンタ、心が壊れてるよ」
「それでも構わない。すべきことさえ失われなければ、この心が壊れようと一切構わない。僕は僕がやるべきこと、僕に地獄を見せた連中を皆殺しにすること。――あの時の記憶を全て否定することこそ、僕のすべきことだ」
「だから俺とか……テースを殺そうというのか!」
「テース? ……ああ、彼女の名前はテースというのか。七番目。そうだ、何もかも殺したい。僕を侮辱した奴らを、その記憶を持つ連中を、全て殺したい!」
「それで」
殺気を放つホマーシュ、その気とはまるで違う落ち着いて静かな声に、神父の視線がねっとりと向けられる。
「それで、最後にはどうするのです。人を殺して、魂を奪って、罪を重ねて、その重圧に耐えながら、最終的に貴方はどうするのです?」
「最終的に? 僕はそこまで考えていない。ただ、僕を侮辱した連中が許せない」
「それだけ? それだけしか考えていませんか?」
「……何が言いたい」
「感情は壊れません。人の感情だけは何があっても壊れないのです。貴方は心が壊れているでしょう。けど、人は感情を失うことなんて出来ないのです」
「……ああ、だから僕には怒りがある!」
刀の柄を握りしめ、ホマーシュは駆け出してきた。
「やばい!」
テースの前に出ても、あの剣を防ぐ術は全く無かった。
(――殺される!)
テースはともかく、自分は積極的に狙われることだろう。だとしたらテースから距離を置いて自分に引き付けるのが一番良い。町に起こる悲劇を防げるのはテースとハンスだけだというが、しかしここでホマーシュを止めない限りそれも叶わない。
だとしたらテースだけでもこの場から逃がすべきだった。ハンスはテースの胸を押して遠ざけ、ホマーシュが振るってくるだろう剣に意識を集中させる。
だが、その剣がハンスに向かって振るわれることはなかった。
タァン、という乾いた音がホマーシュを貫く。
「ぐぁっ……!」
点々と赤い血糊を地面に振りまきながら、神父の身体が地面を転がっていく。
「銃声!」
神父の撃たれた箇所を見て取ってハンスは瞬時に判断し、テースの手を掴んで物陰に隠れる。遠くから見ていた人達は本当に身の危険を感じて散り散りに逃げていった。
(誰もいなくなった……)
この表通りが裏通りの如き静けさを手に入れるまであっという間だった。物陰に潜んでいるとはいえ、恐らく場所は把握されている。狙っているのがホマーシュだけならばと考えてみても、決して楽観できる状況ではない。
(というか、誰が撃ったんだ?)
少なくともこの通りにはいなさそうだった。どこか建物から狙い撃ちしたのだろう。そういえばホマーシュはどこにいったのかと通りを一瞥するが、とっくに姿を消していた。
「いえ、彼はあそこにいます」
テースが指差した方向に目を向けると、何軒か先の建物の二階、その窓から突然男が窓を突き破って通りに落ちてきた。
「うわっ!」
「ホマーシュさんです」
「……撃たれたばかりだというのに、よく動けるな」
しかも怪我を負いながらあの距離を走り抜け、銃を持った相手を剣だけで殺そうというのだ。まさに殺すために訓練を受けてきた人間の、こういう行動力は驚嘆に値する。
(でも、だとしたら相手は誰だ? 俺やホマーシュを狙う連中なんて……)
しかもまだ陽が落ちる前からわざわざ殺そうとしてくるのだ。ただの殺人者ではなく、明確な目的があって殺そうとしているのなら相当な組織ということにならないか。
「とりあえずチャンスだ。すぐにここから離れよう」
「はい」
物陰から一気に走り抜けるが、ハンスの目の前を銃弾が掠めていく。
「う……!」
やはり狙っていたのはホマーシュだけではなく、ハンスもだった。ならば施設の子供全員を狙っている可能性がある。自分だけではなく、テースもその対象にされているかもしれない。
(くそ、刑事さんも大丈夫だろうな)
当然ながらスティーブだって狙われているはずだった。早々殺されるような人間ではないが、ホマーシュと違ってスティーブは心配するに足る人間だった。
「こちらに」
テースが手を引いてまたも裏通りに逃げ込んでいく。
「一度声を出し認識させられてしまったら、私一人ならともかくハンスさんまでは隠せません。今はとにかく逃げるべきです」
「ああ」
これから段々と夜になっていく。
そうすれば暗闇に閉ざされたケープ市で動ける人間は一人も居なくなる。連中にとって霧に覆われた闇夜はそれこそ対象を殺しやすい舞台になるだろうが、ハンスとテースは視界をも塞ぐ霧そのものが壁とならずに闇夜の下でも昼間と変わらず歩くことが出来る。そうすれば二人がかなり優位になるだろう。逆に言えば最も危険なのは今の時間帯だった。
とにかく障害物が多い道を選び、なるべく人混みに紛れながら一度も立ち止まらずに進む。ふとあれだけの超常現象を起こせるテースは逃げる意味があるのだろうかと疑問に思ったが、すぐに誰が足を引っ張っているかを知る。――まさに自分だった。
テースはいざとなればどんな人間だろうと相手になりはしないだろう。そもそも相手をするような存在ではないのだ。人間が逆らうことすら許されない、誰も並び立つことすらない、そういう孤独な地位にいるのが今のテースという少女だ。
「……霧が」
もわりと、足下を白い霧が覆う。
「思ったより早いです。こんな時間から出てくるなんて」
先程、テースはこの霧が人間を殺すと言っていた。
「俺達は、大丈夫なのか?」
「私とハンスだけは、恐らく……」
かつてテースによって命を狩られ、テースによって命を救われたハンスは、人間でありながら僅かに人間からずれた存在となった。そのずれは一体どれだけ大きいかそれこそ実感は無いが、確かに暗闇や霧を問題としない目や、テースが魂を狩り取る度に全身に感じる苦しみなど、常人とは違う何かだけは感じ取っていた。
「ハンスさん、この霧を止める為には」
「……死神にさせやしない」
「ハンス……さん」
「君が死神になれば霧が人を殺さないとかいうんだろ。でも君が死神になれば、結局誰かが死ぬんだ。君は死を望む人がいるから死神となる。死を望む人間さえいなければ、死神にならない」
「違います」
テースは足を止め目を閉じて首を振る。
「死を望む人を止めるなんて出来ません。死と直面する場面がどれだけあるか知っていますか。人はどのように生を謳歌しようとも、必ず最期が訪れるのです。それを止めるということは、不老不死を手に入れることと同意です」
「それは……」
「人に不老不死を与えますか? 全知全能の神が人間の望みを叶えた結果が、畏れない死を与える死神だというのに――そこまでだったのに、貴方はそれを超えるというのですか? それは夢物語です」
「……そうだけど、けど!」
それでもテースを死神にしたくない。二度と人間の魂を狩らせたりしない。
「人を狩る度に、あんな顔をするなら……俺は!」
「ですが使命です。私が人の魂を狩ることは……この霧が教えてくれました。私は私の定めから逃げられないのだと」
最早それは人として生きることを諦めたという宣言に他ならないだろう。今までも彼女は自分の運命を受け入れながら、意識的にしろ無意識的にしろ、どこか救いを求めようとしていた。しかし死神として魂を狩る自分が救われるなどあってはならないという罪悪感から、決して顔に出さなかったのだろう。
だが、自分が死神を一度でも放棄すると、それは恐るべき結果として彼女に跳ね返ってくる。だからテースは諦めるしかなかった。
その言葉を聞いてハンスは頭に血が上る。今更諦めるなど、どうしてハンスが受け入れられようか。彼女一人が犠牲になれば町の多くの人間が助かるぐらい理解しているが、それでもハンスは別の道を選ぶ決意をしていたのだ。
だからテースの言葉が許せない。
決して許すことはできない。使命などという言葉で諦めてしまう少女を追い続けてきたわけではない。
「使命だから――アンジェラを殺したのか!」
「……!」
テースが目を見開いた。
それを見たハンスは「あっ……」とだけ声を出す。
「……そう、ですよね。私は、魂を狩ったなんて言葉で誤魔化しているだけで……」
「……あっ、あっ……俺は……」
言ってはならない一言を、ハンスは口走ってしまったのだろう。
「アンジェラを殺したのは、私――死神じゃなくて、テースが、私が、殺したんです」
悲しそうな顔で、テースは微笑む。
「この薄っぺらい表情でも友達になってくれたアンジェラさんを、私は殺したんです」
「テース……」
「――そんな私こそ、あの時、壊れてしまったのかもしれません」
チュイン、という音が壁を跳ねる。
「テース!」
彼女の手を引いてハンスは再び走り出す。
「構いません」
しかしテースはハンスの手を振り払う。
「私に構わず、そのまま逃げてください」
「……なんだって?」
「私は、これから死神ではなく、テースとしてあの姿となります。白い時はテース、黒い時は死神だなんて、自分を誤魔化すのはいい加減嫌になりましたから」
「……テース?」
「ああ、もうすぐ夜です」
テースがそっと手を伸ばす。
銃弾が何発も撃たれるが、しかしテースに当たる様子はまるでなかった。弾が勝手に軌道を変えているようにしか思えず、ハンスは目を疑う。
「ほら、東の空はあんなに暗くなりました」
テースが両手を空に掲げる。
空は黒と濃い青と紫、そして滲む朱色がグラデーションとなって一つの絵画を描いている。
一番空に近い袖から、じわりと黒くなっていく。
「やめろ……テース、やめてくれ……」
ハンスは首を振るが、そんな彼に向けられたのは優しげな微笑みだけだった。
「ほら、ハンスさん。見てください。空はあんなに綺麗です。色が移り行く時の空はこんなにも美しいのに、どうしてでしょう、今の私は美しくないんです」
流れるように上から黒色が白色を染め上げていく。
「なんで私はこうなんでしょう」
終わりの夕焼け空のように彼女は染められていく。黒い衣装に長い金色の髪が神々しく映える。足下を覆っていた霧ですら彼女の美しさに恐れ戦き一気に離れ、彼女の周囲だけ一定の距離を保って円を作っていた。
その円の中には彼女と、そして中心から少しだけ外れてハンスが立っている。一人の少女と一人の少年が向かい合い、片方は微笑み、片方は泣きそうだった。
――その手が天に掲げられ、少女が歌を口ずさむ。
彼女の体躯には似付かわしくない巨大な鎌が握られて、そうして再び現れた。
黒き死神が再び降臨した。
突如として周囲に撒き散らされる、耐えることすらできない殺意が裏通りを覆う。ホマーシュが放つ殺意など児戯に等しい、まさに神の殺意。
死神だ。
(あああ、死神、だ……)
その殺意を真正面から受け止めて、ハンスは膝を突いてしまった。一度や二度味わっただけで慣れるような殺意ではない。むしろ、この殺意を浴びて正気を保っていられるほうが不思議なのだと、ハンスは思う。
遠くで人が倒れる音がした。
ハンスが驚いてそちらに振り返ると、銃を手に持っていた男が仰向けに伏して一切動かなくなっていた。自分達を狙っていた男がライフルで当たらない弾に苛つき、建物から降りて直接殺そうとしたのだろう。
しかし、それは霧に直接触れることとなる。
霧が人を殺すなんてどこか信じられなかったハンスだが、こうして真正面から見てしまうと信じざるを得なかった。いくらテースでもまだ何もしてはいないだろう。なのにこうして魂を失っている。
「霧が、またも人の魂を喰らい尽くします」
「……あ……」
「これが私の罪。これが――」
(……地獄)
誰にとっての地獄だろうか。
死神を望んだのは人間だ。その願いを叶えることは、まさに望んだ人間にとって幸福なことだろう。
――だとしたらそれを望まないテースは。
(逃げ道が、ない……!)
テースにとって、余りにも辛い現実だ。
地獄の始まり。自らの『使命』を果たさないことにはどうなるか、それを思い知ったことによる地獄の始まり。
さぁ、これは一体誰の地獄だろうか。
この現実は――