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死神少女  作者: 平乃ひら
Acht
133/163

133.疑いの始まり3

 この部屋では大人が十三名、子供が百八名死んだとテースは語った。驚くべき数字だが、それ以上にそれだけの人間の全てが死を望み、テースが叶えた。

 ここまでいくとハンスですら事実を飲み込むのに苦労する。テースは確かに奇跡とも呼ばれる現象を何度も起こしてきたが、この部屋に起きた事実はそれらの奇跡を簡単に超越したものだ。


「彼らは、今どこに……どうなったんだ?」

「もちろん埋められました」

「……どこに?」

「……それは……」


 テースは言葉を濁した。まさかここで濁されるとは思わず、ハンスを首を傾げる。この柔らかい陽射しの差し込む部屋の中が一層に冷え込んできた気がして、ハンスは一瞬震えてから地面に目を向けた。


「……え?」


 一歩引く。


「どうしたんだ、ハンス君?」

「おにいちゃん……?」

「い、いや、何でもない……ああ、何でもない」


 もし、自分の考えが合っているのならと、ハンスは震える手をもう片方の手で押さえる。本当に押さえるべき、いやここから離すべきは足ではないか。


「大丈夫か、ハンス君」

「あ、ああ……大丈夫だって」

「無理はしないほうがいいですよ、ハンスさん」


 テースがそっとハンスに近寄ってきた。今にも倒れそうな顔をしている彼を支えようとしたのだろう。


「おにいちゃん!」


 アンナが叫ぶ。

 はっとしてハンスは顔を上げた。


「教えてあげましょうか」


 今、この場にいる四人とは違う別人の声が、すぐ傍から聞こえてきたようだった。


「……テース!」


 ドンと彼女を押して、そして自らもその場を動く。

 間髪入れずに凄まじい重量感のある何かが目の前で振り下ろされ、その床を破壊する。


「なんだ!」


 目の前ということは、まだ眼前に脅威が迫っている。ハンスはすかさず頭と気持ちを切り替えて目の前の脅威に対しての行動を取った。距離を取り、相手の姿と、そして何よりその武器を確認する。

 ――武器は巨大な剣だった。斬るというよりは叩き付けるという印象を受けるのだが、ハンスが目を見張ったのはその剣の巨大さや特殊さではなく、そのものが覚えのある剣の形をしていたからだ。


(調べ事の中にあった……あの人の、剣だ……)


 以前、ある神父がバッグに隠していた剣と同じだった。

 そして今、その剣を振り回して襲ってきた男の恰好は、その時の神父とうり二つだった。上から下まで何もかもが同じ黒に染まっていた。――巡回神父という存在だ。神に背く者を秘密裏に殺して回る、教会の殺し屋だ。普段は巡回をしながら神の教えを説いているが、実際は戦闘のプロだ。かつて出会った人も表の顔は優しかったが、いざ裏の顔ともなれば神に逆らう者を容赦なく殺していたのだろう。

 確かに姿恰好は同じだが、似ていないのはその表情だ。

 少なくともハンスが出会った神父は優しそうでありながらどこか悲しげに笑ったり、人の話を真剣に聞いたりと、誰もが在るべき心をまだ保っていたように思える。

 しかし、目の前の男の顔はどうだろうか。


「良く避けた。一瞬で殺してしまうことに寂しさすら覚えていたんだよ。だから良く避けましたね。――ハンス!」


 両手持ちが前提だろう大剣とは思えぬ素早さで二撃目が放たれる。ハンスは身を屈めてそれを避けてさらに距離を取った。


「おにいちゃん!」


 アンナが近寄ろうとしてきたが、それをフォルカーが手を掴んで止める。


「は、ハンス君!」

「逃げてくれ! すぐに!」


 今の動きだけで分かる。相当な手練れだ。フォルカーやアンナを守りながらでは到底逃げ切れないだろう。世界中を旅して回り、様々な危険を体験してきたハンスならではの危機回避能力があってこそ、今の一撃を躱せたようなものだ。次また襲って来られたらその時こそ首が飛んでしまうかもしれない。

 テースはどうしているのだろうか。そちらを見ようと思ったが、しかし神父から一切目を離せない。神経を集中させなければそれこそ一瞬で命を奪われる。


「なんだよあんたは……!」


 それにしても突然命を狙われる理由はない。


「覚えていないのですか。寂しいものです。――あの施設では兄弟みたいなものだったのに。兄の顔を忘れましたか。折角お互いに生き残ったというのに」


 ハンスは愕然としてその男の顔を改めて見る。確かにその面影には覚えがあった。


「……生き残りの……まさか、ツヴァイ……?」

「今はホマーシュと名乗っていますがね。ハンス、君とはもっとはやく会っておきたかった!」


 神父ホマーシュが両手に握り直した剣を一直線に向けてハンスに突き出してくる。横に飛んで避けたハンスはそのまま脇をすり抜けようとしたが、ホマーシュは重量のある剣を振ったところで自身の重心を崩してはいなかった。

 剣を引き戻すのは無理でも、足は出る。ハンスの腹部を蹴り、その身体は床を転がっていった。


「がっ、はっ……」


 蹴られる寸前に腹に力を入れていたから全く動けなくなることはなかったが、それでもハンスは苦しそうに息を吸う。一瞬とはいえ呼吸が止まったのは辛い。


(な、なんだこの人……強すぎる……)


 隙を突いて扉の向こうへ行くのは相当難しいだろう。一度抜けてしまえば、いくら鍛えてあろうともあれだけの剣を持っている人間が素手の少年に追い付けるとは思えない。

 だが、そもそもすり抜けることが至難だ。


「考えていることは大体分かりますよ。同じ立場なら僕でもそうするでしょう。けど、せめて事実を確認せずに逃げようとするのはどうでしょうか」


 ホマーシュは高々と剣を振り上げる。


「ここで突然死したという人間は、決して表に出されることはありませんでした。さて、じゃあどこに処理されたんでしょうかねぇ? 賢明なハンス・ハルトヴィッツなら重々理解してるのでは?」

「……やめろ……」


 その刃を振り下ろすな。


「どうせ気付いているのなら、その目で確認すべきだ」

「やめろ!」


 叫び、その手を伸ばす。

 しかしそれよりもずっと早く、神父の手は振り下ろされていた。

 床に強烈な罅が入ったかと思えば、間髪入れずに砕け散る。叩き付けた刃は僅かに刃こぼれしたようだが、意に介さずホマーシュはもう一度剣を床に叩き付けた。

 床が割れる。


「……アンナ! 部屋から出てるんだ!」


 ハンスが叫び、その叫びから何か只ならぬ気配を察したフォルカーがアンナの手を引いて部屋を出ようとする。

 しかしフォルカーの目の前をナイフが突き刺さった。余りに深く壁に突き刺さったので、フォルカーは思わず唾を飲み込んでしまう。


「ここで逃げるのは良くないですねぇ。久々に陽の光の下に登場される彼らを前に退席は良くありません」

「やめろ! アンナに見せるな!」


 フォルカーはせめてアンナの顔を背けさせようと抱き着いて隠そうとしたが、ホマーシュが一睨みするだけでやはり動きが止められる。


「あっ……!」


 かつて浴びた殺意ほどではないが、ホマーシュという男から漂う殺気も只者ではない。いざとなれば人間を殺すことに全く躊躇いを持たず、そもそも自分以外の人間は死のうが生きようが問題にすらならないと、そういう考えの持ち主だ。


「さぁ、全員見るがいい! 会話による予習のあとは復習だ! その目で、肌で、感じ取るんだ! はは、ははは! ははははは!」


 黒き神父は両手を広げる。何がおかしいのか、大声を上げて笑い出し、その姿は白日の下にさらされた彼らを出迎えているようでもあった。

 ――フォルカーはどうしてハンスがまだ小さいアンナをこの部屋から出すように言ったのか、正しく理解した。

 この光景は、アンナが見るには、刺激が強すぎた。

 割れた床から覘くその白い色は、白い色の正体は。


「……白骨……」


 そう、人間の身体の一部だった。

 割れた床はほんの一部だからこそたった一人分しか見えなかったが、おそらくはそんな程度の数ではない。

 この床は、一段高く上げられている。

 わざわざそうする必要があったのは何故か。


「ここには百二十一人の死体が埋められていると考えるのが妥当でしょう。ははは、実に面白い。世間に知られないようにするため、わざわざここの政府は自分の足下に隠した! はは、立ち入り禁止にするわけだ。わかるだろう、別に禁止にしていたのはそこの図書室なんかじゃない」


 ホマーシュはそう言いながら別の箇所にも剣を振り下ろす。当然、そこからも白骨の一部が覗けた。


「さてハンス、この事実を知ってどうしますか」

「ど、どうするって……」

「その場で立っているそこにも、哀れな子供が今も埋まっているのです」


 思わず足下を見てしまう。ぞわりと、その床から何本もの白い手が足に絡み付いてくるような錯覚を覚えて、喉の奥から声を出して一歩後ずさった。


「意味がありません。この床全てに埋まってるんだよ、この死体は!」


 さらに次の箇所、もう次の箇所へと剣で床を割っていく。その度に晒される骨は確実に幼い少女の瞳に飛び込んでいった。

 まるでそれを楽しみように――少女の心に世の中の非常さと悪夢を刻み込むことに喜びを感じるかのように、ホマーシュは次々と破壊していく。

 ハンスは止めようとしたが、いざ動こうとするとホマーシュは油断無く彼を睨む。実力差ははっきりとしていた。動こうとすれば斬られてしまう。フォルカーも同様だ。


「かつてあの実験は子供を追い込むことで絶望を得た! なら、ここでこの僕が同じようにすることを、誰が止められるんですか! はは、これが絶望です!」

「しってるよ」


 ――だが、その少女はさらりと応えた。


「これが普通じゃないってことぐらい、知ってるよ。……ううん、もしかしたら部屋に入る前から、知っていたかも」

「……知っていた?」

「しってたよ」


 アンナはじぃっと白骨を眺めながら、応える。


「この人達を見て、わかったの。わたしはここに入ったときから、きっとわかってたって」

「じゃあ、全然ショックじゃないと、言いたいわけですか。知っていたから大したことないと」

「しってたんだもん」


 アンナの応えはまったく変わらない。

 ホマーシュの顔が笑顔から無表情へと変化し、目を見開いてアンナを睨む。


「どうして知っていた? まずは周りから絶望に叩き落とそうとしたのに、いきなり頓挫か。なんだこれ、計算がまるで合わない。どうして狂う、どうして狂う、どうして僕の計算が狂う?」


 狂う、と単語の連発にハンスは寒気を覚える。

 嫌な予感がしてすかさず立ち上がり構えるが、ハンスに身体の向きを変えたホマーシュは瞬時に間合いを詰め、その腹を思い切り殴ってきた。


「がはっ……!」

「全部! 全部お前が! ハンス! お前が連れてきた子供だからか! 僕の計算が合わないのは! お前がお前がお前が!」


 顔と腹を何度も殴られる。鋭く重く、手で防ごうにもその隙間を縫って拳が潜り込んでくる。反撃しようにも痛みと衝撃で身体を守るのが精一杯だった。


「ぐぅっ……」


 意識が朦朧とする。殴られすぎたのかもしれない。


「……ならハンス、君に絶望を与えよう。この場にいる君以外の人間を全て殺せばいいだけだろう。ああ、君には弟と妹がいたようですね。彼らの首を丁寧に切り取って、両手両足を縛られ目だけ開かれた君の前に差しだそう。瞼は閉じられないように切り取ってやる。自殺できないように口に布を詰める。餓死するまで愛する者達が腐るのを見届けさせる。逃がさない。絶望に叩き込むまで逃がさない。絶対に、絶対にだ」

「……腐ってやがる!」


 同じ施設を抜け出した子供同士で性格が違いすぎる。以前出会った当時アインズと呼ばれた少年だったスティーブは施設を調べていたとはいえ、まだ常識で考えられる範囲で動いていた。むしろ出来る限り法に則り、正攻法に従ってだ。

 だが、このホマーシュという男はスティーブとは違う。人を殺すこと自体が自分の目的を果たす選択肢の一つにしか過ぎず、いっそ殺しすぎて精神が破壊されているのかもしれないとさえハンスは考えてしまった。

 昔の――施設に居た頃のツヴァイはここまで壊れた性格ではなかった。

 何か、彼を壊す何かがあったに違いない。

 壊れた人間ほど理屈は通じない。とにかく活路を見出す為にハンスは今にも途切れそうな意識の中で周囲をもう一度、一瞥する。使えそうなものはあるか、逃げ出せる道はあるか。――あるいは。


「ハンス、これだけ殴られて何か考えているようだが、所詮は無駄なことですよ。僕は」


 ハンスの胸ぐらを掴み上げるホマーシュ。


「あの聖女を名乗った娘、君の友達なんじゃないですか?」

「……聖女。――アンジェラ……?」

「そう!」


 さらに胸ぐらを強く掴み上げ、ホマーシュは叫ぶ。


「そうですよ、アンジェラです。僕が殺したかったアンジェラだ!」

「……殺し、なんだって?」

「アデナウアー家に取り入ったのも、この行政官府を自由に行き来できるように人の信頼を得たのも、アンジェラを希望から絶望に落とし、自殺させようとしたのも、全ては僕なんですよ! そうしたかったからだ!」


 首を締め上げながら、ハンスは自分を好きだと語った少女がいざ最悪の結末を迎えようしたかもしれないある一つの話を仮定する。


「どういうこと、だ……?」

「本当は僕が殺したかった。だけど、そうはならなかった。だから聖女にした。逃げられないような存在にした! 本当は何の力もない小娘が深層心理で願っていたことを、僕が裏で叶えていた! 生真面目な娘はたったそれだけで追い込まれていった――それは愉快だったよ。実に愉快だった。勝手に追い込まれて、精神的に逃げ場を無くした彼女の前に、彼女の母親と友達のようなメイドの死体を晒す。――後はわかりますね? 分かってくれますよねぇ!」

「――アンジェラを、おまえは、アンジェラを……」


 ハンスの視界が揺れる。頭が揺れる。声が震える。目の前の男が何を語ったか分かってしまったからこそ、ハンスの心は震えた。


(アンジェラ……)


 ――私は、ハンスに出会えて、オットーを救えて、こうして最期の最期にテースと出会えた。


 アンジェラが残した最後の言葉が甦ってくる。


 ――けど、私にはどうしようもない罪がある。だから、償わなくてはなりません。これだけ汚れた心でも、友達を一人救えたのだから、もう思い残すことはありません。


(アンジェラ……君は、何故、せめて俺を待っててくれなかったんだ!)


 それとも待てない程目の前の男に追い詰められていたというのか。母と友人を殺され、さらには父を殺され、それでも正気を保っていられるほどに強かった少女にも限界はあった。最後の最後に重傷のオットーを前に、これ以上自分の所為で死んでいく人を見たくないアンジェラは、最後に神へと祈った。せめてオットーを助けて欲しい、助ける為ならこの命さえ惜しくないと思ったのだろう。実にアンジェラらしく、まさにその通りの行動を彼女は取った。

 そうして祈った時に現れたのが、ハンスだった。

 命さえ捨てても、いや、神に『自分の命と引き替えにオットーを助けて欲しい』と願い――そして、その通りとなった。少なくともアンジェラはそう思い込んだ。

 ここまで追い込んだのは誰だ。

 彼女を殺したのは誰だ。

 追い込んだのは――殺したのは、その結論を招いたのは、誰だ!


「お前が……」


 ハンスはホマーシュの手首を掴む。


「お前が、アンジェラを……!」


 あらんばかりの力を込めてその手首を握りしめる。いっそ握り潰すつもりでハンスは掴んだ。


「ぐっ……!」


 ホマーシュの顔が痛みで歪む。


「お前が……お前が!」


 あの優しかったアンジェラの心を利用し、隙間を突いて殺したのはホマーシュだ。かつての施設での兄弟だ。


「お前の所為で――アンジェラが!」


 だから俺だってコロシテイイ。アンジェラの仇をこの手で討ってイインダ。


「よしましょう」


 煮え滾る心の熱が一瞬にして冷め切った。


「争う必要は無いのに、どうして争うのです。私には理由が解りません」


 白い手が伸びて、ハンスとホマーシュを引き離す。

 二人は唐突に抜けた力の所為で少女の手の為すままとなり、数歩分距離を開ける。


「だから、争うのは止めましょう」


 白き少女がとうとう二人の間に割って入った。

 テースは二人を見ず、ただ真正面の壁を眺めている。


「行きましょう、ハンスさん」


 そしてハンスの手を取った。


「ここは死者が眠る、地獄の底。これ以上の死者を積み重ねる訳にはいきません。せめて私の前でだけは、止めてください」


 かつてテースがここで見た本当の地獄とは、一体どれだけ想像を絶したことだろうか。死神として魂を狩り続けた少女は、しかし二度と死体を見たくないと常に願っていたことだろう。死体を見たくないと願った少女の願いだけが届かず、死を望む人間の望みだけが彼女に届いた――


「……テース……俺は……」


 一瞬、激情に身を任せてホマーシュに殺意を抱いた。アンジェラを追い詰め殺したホマーシュだけは許せないし、冷静になった今でも許すつもりはまったくない。

 だからといって、守ると誓ったテースの前で人殺しを是とする理由にはならない。地獄を見た結果が彼女を死神としたのなら、もう二度と彼女の双眸に死体を映してはならないのだ。最後まで人間として彼女を救おうとするならば絶対に――


(――絶対に、二度と、死神にはさせない。死を匂わせない。死を、望ませない。死者を、見させない……)


 それを理解していた筈だ。彼女をこのまま白き人間としていさせるのなら、それが必要だということを重々承知していた筈だ。


「地獄を、二度と――思い出させない」


 今までテースが味わってきた、一人で抱えてきた想いが徐々に彼女から溢れ出ていくのを感じ取る。一つも顔色を変えずに自分を追い込む人々へ笑みを浮かべるその心情は、如何に辛いことか。


「……テース」


 ここは彼女にとって地獄のまさに中心。

 白い部屋に閉じ込められた白骨の上で、ハンスは彼らの無念から守るようにテースを抱き締める。

 こうして抱き締めるだけで彼女の温もりや鼓動が伝わってくる。時々伝わる震えや漏れる声が、彼女の内に詰め込まれた苦しみの一部となって漏れ出てくる。

 これ以上ここでの死は彼女の許容範囲を超える。そうすればもう彼女は戻って来られなくなるだろう。今ですら彼女は恐らく限界に近いところで踏み止まっているのだ。


「分かったよ。行こう。テース、君は二度とここに来ちゃ行けない。思い出しちゃいけない。――いや、何も知らずにテースをここまで案内させた俺が悪かったんだ。だから二度と君をここに来させないよ」


 守ると決めるだけでは足りない。だから誓う。


「二度とこの地獄に君を近付けさせやしない」

「ハンスさん」


 ハンスの指に絡む手が、僅かに強くなった。


「……地獄? これが?」


 しかし、そんな二人をホマーシュが嘲笑う。


「この程度が地獄だって? この程度が?」


 片手で自分の顔を押さえながら、くつくつと男が嗤う。


「人をそんな殺し続けたところで何が変わる! だったら僕は何だ。僕は人を殺し続けてきた。どれだけ殺し続けたら何が変わるというんだ! 心が壊れるとでもいうのか? 僕の心は壊れていない!」

「壊れています」


 冷静に、囁くようにテースは言う。


「残念ながら、貴方は自ら望んで自らの心を破壊し、本当の気持ちに気付かなくなっています。ハンスさんとは違うんです。貴方は自分の心を受け入れられなかったのです」

「……受け入れ? 僕が?」


 ホマーシュは自分の両手の平をぼんやりと眺める。


「はは、何を言ってる? 僕は――」

「一度崩れかけたから、耐えきれなくなって自ら破壊したのです。貴方は本当に弱い人です。弱いから、そんな剣を振るう。強ければ誰も傷付けませんし」

「……なんだと?」

「ましてや人を殺しません」


 ホマーシュは両手を一度広げて、そうして剣の柄を握りしめる。


「……ホマーシュ!」


 ハンスはぐっとテースの肩を抱いて、自分の身体を前に出した。


「はは、なんだ。おかしいじゃないか」


 突如ホマーシュから放たれた気配に震えたのはフォルカーだった。


「本当なら、僕なら、そこまで侮辱されたら殺す筈なのに、どうしてこの手は上がらない。……なぜ?」


 じっとホマーシュを睨み付けていたハンスは、ちらりと扉と自分達の距離、そしてアンナとフォルカーの位置を把握する。相手がこちらを見ていないことを確認してから目でフォルカー達に合図した。

 ハンスはさらに強くテースの手を握りしめて、一気に走り出す。

 そこでようやくホマーシュは気付いたが、さすがに出遅れてしまった。途端に顔を歪めて追い掛けてくるが、大剣を持ったままではハンス達に追い付けない。


「ハンス! 後悔するぞ!」


 そのハンスの背中にホマーシュが叫ぶ。


「結局のところアンジェラを殺したのは誰だ!」


 ハンスは目を見開いたが、今は足を止めなかった。

 暗闇の中を駆け抜けて、そうして地上へと這い登り、悲鳴や怒声を上げる人混みの中を掻き分けながら外へと飛び出した。



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