131.疑いの始まり1
ヴィレムがいつものように目を覚ましてカーテンを開き、窓を開けるともうほぼ霧は晴れていた。布団に潜り込んだ妻を起こさないように部屋を出る。
階段を降りて玄関を開き、店を開ける準備をする。雑貨屋の旦那は早死にすると妻は噂を信じて脅えていたようだが、今日もこうして無事に身体を動かしているからこそ何もおかしいことはない。平穏無事に暮らしていくことこそ最高に良い事だ。
店を開くと向かいの店で主人となった女性が小さな笑みを浮かべて頭を下げてくる。陰気くさい空気を嗅ぎながらもヴィレムは同じように頭を下げた。この間あの店で何かしらの事件が起きたと言うが、新聞にも載らなければ当然現場にいた警察も教えてくれない上に、あの主人を亡くしたばかりの女もまた何も語らなかった。
正直、不気味だ。
すぐ傍の店の主人が不可解な死を遂げたという話だけは伝わってきた。それとは別に店の中が血だらけとなっていて、その方はまだ解決していないとか。どれもこれも不気味な話で気分が良くなる事は一つも無い。
前の店で自分の旦那の跡を継いだ女の名前は何だったか。覚えていたつもりだが、いざとなると思い出せない。それでいいのかもしれない。不気味な話は出来るだけ遠くに在った方が良いのだ。たかが女の名前といえど、それを脳裏に刻み込んでしまえば不幸が近寄ってくる気がして、ヴィレムは目を逸らす。
向こうの店は主人が亡くなった事件以来、めっきり客足が減ってしまったということだ。一度でも評判が地に落ちてしまえばそこから立ち直るのは難しい。
「大変だなぁ」
一生を共にと誓った最愛の者が亡くなるというのは、一体どういう感覚なのだろう。もちろん悲しいのだろう。辛いのだろう。しかし現実は一切止まってくれず、時は留まることを知らない。故にどれだけ途方に暮れようとも二本の足で立ち上がり、こうして一人でも再び店を開かなければならないのだ。
太陽が動いて店の中を明るくしてくれるのと同じで、彼女はこうして悲しみを胸にしまい込みながら店の前を掃除している。
不幸なのはただ主人が病気で死したのなら、近所の人達は彼女を手伝いもしただろう。しかしそうではない。彼女の旦那は謎の死を遂げ、その直前に店の中は血だらけと化していた。
近所の噂話として一花咲かせるには、十分な内容だ。真実など知らずとも近所の連中は身勝手に自分達が造り上げた仮想の真実を語り出す。ああでもない、こうでもないと誰も知らない本当の真実に近付く遊びを繰り返す。下卑た遊びと理解しながらも、ヴィレム自身ですら止められない甘美な遊びだった。
しかしだからこそ、彼女には誰も近付かなくなった。
「俺もあいつを失うと、ああなっちまうのかなぁ」
妻はまだ上で寝ているだろう。少々寝過ごす事もある妻だったが、基本的には気だても良く、ヴィレムにとってこれ以上ない相棒だった。多生自分より信心深いところもあるが、そんなことは些細な問題だった。
向かいの店の女が店の奥へと引っ込んでいく。確かに店の前は綺麗になったが、経営している人間がああも暗い顔をしていては客の一人も入らないだろう。
「さて、店を開くか」
こちらも生活がかかっている。そろそろ出勤する人や登校する学生が通る時間となる。そのタイミングを逃さずに開店するのは基本中の基本だ。
ヴィレムは肩を回して店の戸を大きく開き、いよいよ開店させる。今日もまた食べていくだけの稼ぎを叩き出さないと妻に怒られてしまうからだ。
「それにしても」
ヴィレムは階段を見上げる。
「本当に、今日は遅いな」
二階で寝ている筈の妻はいまだに降りてくる気配が無い。
そもそも目も覚ましていないのだろう。
「まったく、あいつはねぼすけだなぁ」
ヴィレムは最愛の妻の寝顔を思い出し、微笑ましく笑う。今日は日常と少しだけずれてしまったが、どうせいつも通りの平和な日が送れるだろう。
送れるはずだと、この時のヴィレムは信じていた。
――だが、妻は降りてこない。
全く、目が覚める様子はない。
本当に静かに、永遠の眠りへと就いていた。
そういう似たような話が、その日は百以上流れることとなった。