129.憎しみの始まり5
施設は何も一箇所ではない、とテースは語る。
あのシャングリラ教会が最終的な施設の地となったが、しかしそれ以前にも実験は行われていた。
その話は少なからずハンスに衝撃を与えることとなる。あの施設の実験は、おおよそ子供達から人間としての権利を剥奪するようなことを平然と行ってきた。ただ神を造り出すような、そんな夢物語を語るような実験は一体何年間、そしてどれだけの子供を犠牲にしてきたのだろうか。
――想像も付かない。
その元実験場へ足を運んでいる最中に、テースが訥々と語ってきたのだ。その声はハンス、そしてフォルカーとアンナだけに届く。
「そ、その実験ってのは、一体……?」
詳しくは知らないフォルカーが身振りも加えてそう尋ねてくる。
「おそろしい実験だって、話だよ?」
その問いに答えたのはアンナだった。
「とってもとってもこわい話だって。きっと、あたしもおじさんも、だれも知らないような……」
「……誰も知らない、実験……?」
信じられないといった顔でフォルカーは首を振る。今までハンスが何かを抱えてテースという少女を追い掛けながら、そして自分に起こっていた事実を探していたのは知っていた。
ハンスはまだ大人ではない。ついこの間までは学生として平和に暮らしていた筈だった。
それが突然学生を辞め、そして何かに追われながら真実を求めるという、到底普通の人生とはかけ離れた道を歩み始めた理由がそこにあったのだ。
(けど、実験?)
優秀な、それこそ天に才能を与えられた人間というのは希にいる。そういう人間は時に一人で歴史を動かすほどの力を有し、世界に名を残してきた。もしそういう人間を人工的に造ることが可能なら? そして自分達の手足として動かすことができるのなら?
(まさか……そんな……)
だとしたら、この実験そのものの主体はただの金持ちが道楽で行っているような物ではなく、もっと巨大な、それこそ――
(それこそ……まさか、この『国』そのものが……なんてこと……)
この国は周辺国との緊張状態が続いている。
いざという時のために国力を溜めようとするのは当然だろう。それが如何なる手段だろうと、周辺国より強くあらんとするのは国を治める者達にとってある意味義務であるとも言える。今の時代はそういう流れなのだ。
そういう緊張状態の時、なるべく周辺国を出し抜こうとして様々な手段を用いる場合がある。
――その一環が、特殊な人間を造り出す為の実験だとしたら、どうだろうか。
いかなる兵器を造り出そうとも、操るのは結局人間なのだ。
だから人間そのものの質を高める。いっそ、どのような人間ですら追い付けない程の天才というのを造り出す。そんなことが可能なら、人道を棄てた人間のみに許されるようなことなのならば。
それはただの教育では無いだろう。
「ハンス君……君は、いや、君も」
考えてみればハンスの行動はまだ未成年とは思えぬ鋭さと、かなりの頭の回転の良さを見せる時がある。余程のことがない限り取り乱すこともないし、大人であるフォルカーですらハンスの話にはついて行けないことがあった。
それでもまだハンスが自分の能力を全て出し切っておらず、敢えてフォルカーに合わせている可能性もある。
「俺は天才なんてもんじゃないですよ。俺だけあの実験の中で普通だったんだ。何でも答えを導き出せるワケじゃないし、計算が得意ってわけじゃない。――ましてや」
そっとテースに目を向けるハンス。
「神でもない。ただの、何の力もない、学生なんですよ」
それでもハンスは自らをただの人間と語る。
「そしてテースも……」
「……」
それについて、テースは何も語らない。自分には関係ないという素振りにも思える。
「着きました」
本当にそういう素振りだったのだろう。テースはまるで関係がないという風に、着いた、と語る。
「ここは」
三人がその建物を見上げる。
このケープ市には高い建物があまりない。それでも全ての建物は二階はあるのだが、二階以上、三階までの建物は本当に少ない。
「最初はここで行われていました」
それでも見上げなければならないほど高い建物は、シャングリラ教会を他において、二箇所しかない。
その建物はこのケープ市を代表するに足る威圧感を備えていた。ケープ市の歴史を語る上で決して離すことのできない建造物――
「……行政官府……」
フォルカーの呟きは風に消えていった。
「この奥に」
しかし今はその機能を果たしていないだろう。ここは何もしらない一般人が働いている場所だ。
「この、暗闇に……」
誰も何も知らない場所の底で、子供を使った実験が行われていた。
「覚悟はいいですか」
そう呟いてくるテースの声は決して大きくはなく、すぐにでも掻き消されてしまいそうな声なのに、やはり人混みの雑踏などまるで意に介さず耳に届いてくる。
「私達に至るまでの、人間がどこまでおぞましい存在に堕ちてしまうのか、それを知る覚悟はいいですか?」
人の事を決して悪く言わない、言う姿などあり得ないとすら思っていたテースがそこまで語る。
フォルカーは唾を飲んだ。
「分かった」
誰よりも真実を知ろうとしているのはハンスであり、やはりすぐに返事したのもハンスだ。
「アンナも、フォルカーさんもいいですね」
「あ、ああ……」
辛うじてだが、フォルカーは返事をする。
アンナは黙ったままだったが、きゅっとテースの手を握った。
「いいでしょう、それでは行きましょう。それと、私がいいというまで一言も喋らないでください」
三人は静かに頷いた。
テースを先頭に、ハンス、アンナ、フォルカーの順で歩いていく。行政官府の受付を無視し、テースはどんどん奥へと進んでいった。受付前でごった返す人混みの中、これだけの速度を保ちながら歩くのは如何なる魔法か、不思議な感じだった。
それもそうだ。テースは誰にも触れることが無かった。まるでそこに柱でもあるような、あるいは荷物が運ばれてでもいるように人々がテースを避けていった。その後ろをついて行っている三人もまた誰にも触れられることがない。いくら行政官府が広くても昼間のこの時間に肩がぶつかりそうなほど人がいるのだ。指一本触れることがないなどあり得るだろうか。
(……そういえば市長が殺されたっていうけど……)
ちらほらと警官の姿も見える。悪いことをしているわけではないが、フォルカーは思わず身を小さくしたくなった。よくよく考えてみると自分はここのバイトを無断で辞めているので、縮こまるのも無理はなかった。
受付を抜けると途端に人が捌け、広い廊下が現れた。
全く速度を変えることが無く歩いていくと、途中でハンスとフォルカーは互いに目を合わせた。
見覚えがあるな、と言いそうになって慌てて言葉を飲み込んだ。テースが許可を出すまで喋ってはいけないことをぎりぎりで思い出したのだ。
テースが進んでいく廊下、そしてその先には覚えがある。というよりも、フォルカーはその先にこっそり忍び込んでいた。
――そう、その廊下の先にある、地下への階段を。
黄色いロープを乗り越えて四人はその階段に辿り着き、下へと降りていく。
一歩降りる度に、甲高い足音が響く。四人分の不協和音が強く強く、弱く弱く、それぞれの個性を奏でている。
恐らくは無尽蔵の図書が保管されているであろう部屋の中は相も変わらず視界を塞ぎ、暗闇に包まれている。一歩進むことすらも躊躇うようなところだが、テースの歩が弱まることはなかった。
フォルカーの手を小さな暖かい手が握ってくる。
その手に引かれて奥へと進んでいく。
フォルカーとハンスが調べた書棚はもうとうに通り過ぎていた。さらに奥へと、闇の底へと進んでいく。
(……どれだけ広いんだ、ここは)
暗闇だからだろうか、距離感が全く掴めない。何歩分この足を動かしたのか、真っ直ぐ歩いているのか、あるいは何度も曲がった末にここまで来たのか。
全ての感覚が失われているようだった。この手を握っているのはアンナでいいのか。ハンスとテースは近くを歩いているのか。いや、今聞こえてくる三人の足音は自分の知っている三人のものだろうか。
するりと何かが撫でてきた気がして、フォルカーは足を止めかける。
そういえば、ここには誰かが居なかっただろうか。
その人物と――人物達とハンス達は入れ替わっていないか。
そうだ、いっそ声を出そう。声を出してあの三人か確認を取ろう。そうしなければ、そうしなければ気が狂いそうだ――!
「ここです」
その寸前、透き通る声が流れてくる。フォルカーはそれが合図だと受け取って強く咳き込んだ。もう少しで無用な大声を上げるところだった。
聞こえてくる声はテースに相違なかった。
「ここが、犠牲になった子供達の部屋の前です」
「……犠牲?」
ハンスが問い返していた。
「一見して何も無い部屋ですが、ハンスさんなら理解できます。――フォルカーさんとアンナには難しいでしょう。申し訳ないですが、私から二人に語る言葉はありません」
あくまで部屋を見て察しろと言うことらしかった。そして正しく察して判断できるのは、この中だとハンスのみだという。
テースは扉を押したようだ。ギィ、という鈍い音が静かな図書館に響く。
「この先には全ての地獄があります。何も無いですが、そこには『在る』のです。正しく理解するのはハンスさんのみですが、もしかしたら――」
そこで言葉を句切ったテースは、コツンと足を慣らした。中へと入っていくのだろうか。
「開きました。この図書室と、そしてこの部屋には鍵が掛かっていません。それは当時、ここで地獄を再現した者が恐怖の余り鍵すら掛けられなかったからです」
「そんな、そんなことが鍵の掛かってなかった理由だっていうのか? そんな馬鹿なこと……」
「フォルカーさん」
馬鹿らしいと一笑しようとした彼を、テースが諫めるように名を呼んだ。
「貴方は本当の恐怖を味わったでしょう」
「……あっ……」
その言葉を聞いて、途端に膝が震え始めた。忘れようとして忘れられなかった恐怖が甦り、心を蝕んでいく。――愛した女が叫び、呼んだ真実の神の名が、
「フォルカーさん、気をしっかり保つんだ」
ドン、と肩を強く叩かれて意識を取り戻す。
「ここで呑まれちゃ駄目だ」
「あ、ああ……」
頭を振って意識をはっきりさせる。
「中へ」
促されて、その部屋へ入り込む。床が一段上げられているのか、爪先に引っ掛かりながら中へ入る。
部屋の中は図書室と違い、明るかった。高い位置にいくつも窓があり、そこから光が漏れてきているのだ。
フォルカーとアンナがテースに続いて中へ入り、そして二人は部屋の中を見回した。図書室と違うのは窓から差し込む柔らかな太陽の陽射しだが、それ以外は恐ろしいぐらい何も無かった。部屋の大きさは相当あり、ちょっとしたパーティーなら問題なく開けるだろう。壁には飾り付け用の絵画が一枚も無く、テーブルや椅子すらもない。相当埃が積もっている様だが、それでも壁は白くカビ臭くはなかった。
「な、なんだここ」
こんなところが本当に全ての地獄だというのか。
ただ何もない、言うなれば使用されていないだけの大部屋ではないか。
「テースおねえちゃん、ここはなんなの?」
アンナが天井を見上げながら尋ねる。
「ここは全ての地獄の部屋よ、アンナ」
部屋の中央でテースは三人に振り返った。
「だからほら、私の一番近くにいた人が、この部屋の真実に気付いたのよ」
「え?」
アンナが振り返る。
「……ハンス、おにいちゃん……?」
ハンスは自分の両腕を抱き締めて、震えていた。
「て、テース……なんだ、ここ。なんだよ、ここ……?」
一歩だけ部屋に踏み込んだハンスは、そこからさらに一歩踏み出せずに留まっている。ついさっきフォルカーへ「呑まれるな」と忠告した少年こそがこの部屋に呑まれそうな顔をしている。ハンスは青ざめた表情で、それでも部屋を見つめることを止めなかった。
「答えろ、答えてくれ、テース」
部屋の中央に立つ白い少女へ問い掛ける。
「ここで、何人死んだ?」
その言葉は衝撃的で、フォルカーが唾を飲み込んだ。
「大人は十三名、子供は百八名ほど。ここで亡くなりました」
「ひゃっ……」
この部屋で一体何人死んだと、彼女は言った? ――二人は何に気付き、知っているのか、最早それはフォルカーの想像を遙かに超越していた。
なぜこの部屋に入っただけでハンスがそれに気付いたのかや、どうしてテースが知っているのかなどフォルカーの疑問は尽きないが、それを聞いたところでやはり理解に及ばないだろうと頭のどこかが語りかけてくる。
「どうやって、死んだ?」
「ここに」
テースはすっと右手の指を自分の真下に向ける。
「私が立ったのです」
何年も前のこと、一人の少女がこの部屋の中央に立った。それは命令か、あるいは自主的か。
「そして一言だけ」
その一言こそが、彼女の存在そのものを証明する何よりの証拠と化す。
「貴方がたの望むものはなに?」
彼らは一斉に望むモノを、一番多く望むモノを求めた。
そうして少女は彼らの望むモノを理想的な形で応えた。
その数こそが。その時の最も多かった望みの数が。
「……大人、十三名……子供、百八名……」
恐らくこの部屋にいたテースを除く全ての人間の数なのだろう、ハンスが繰り返しその数を呪詛のように呟くのを、フォルカーはただ黙って聞いていた。
「……なぁ、テース。それを、君は……地獄だと思ったんだよな」
「私を中心に広がる死者の山。この部屋を絨毯のように埋め尽くしたのは先程まで元気だった人達なのです。ここにいた子供達は私達七人の子供より酷い実験を受けさせられていましたが、あくまで予備扱いでした。罪など全くありません。実験で未来を奪われていても、将来への可能性やはりあったことでしょう」
その全てを奪ったのは自分だとテースは語りたいのだろうか。しかしそんな話を聞かされたところでどう慰めるのか、まだあんな十五そこそこの少女にかける言葉が浮かばない。フォルカーは自分が一番年齢上だというのにそういう経験が不足していることを呪う。
「そんなことの経験不足を悔いる必要はありません。こんな話についてこれる人なんておりません。――この世界の誰一人として」
今度はハンスですら駄目だと断言する。
「私はここがこの世の地獄だと言いました。確かに人が死んだことは地獄そのものでしょう。――ですが、それだけではありません」
テースは下げていた右手をそっと自分の胸に当てる。
「ここで、死神が生まれました」
ドクン、と心臓が跳ねる。
「ここで、今の私が形成されました」
ハンスの目が見開かれた。
「ここは、どこまでも広がる荒野に立つ、老いた巨木の行き着いた最果ての地のような場所です」
その心こそテースそのものだった。
「人は、自ら望んだ最悪の結果を、ここで造り上げたのです」
そしてここで目覚めた少女は、その日の夜に施設である事件を起こすこととなる。
「おかえり」
テースはうっすらを笑みを浮かべながら続ける。
「その時の少女は施設に戻ればおかえりって言われると、そう願っていた。この部屋で頽れていく人々がどうなったか知ったから。怖くて逃げました。逃げて、逃げて、一人で施設に戻り――道なんて知らなかったのに――施設のみんながいつものように迎えてくれると思った。けど、そんなのは幻想だった。だって、その子は誰にも迎え入れられたことなんてなかったんだから」
施設に戻った少女は、そこでも同じ問いを繰り返す。
――人が望んだものは、何?