125.憎しみの始まり1
酒屋のエーリヒが目を覚ましたのは、まるで窓を叩くような、しかし遠くから聞こえる鈴の音らしき音が聞こえてきたからだ。
この街において酒屋は自前で飲める場所を提供していない。そういう店もあるが、夜中になると街を覆う霧によって夜遅くまで飲むことができやしない。それなら酒を購入し、自宅で飲むというのが主流だった。
「……なんだぁ?」
こんな夜中に目を覚ましたところで得も何もない。まだまだ日が昇るまで時間がある。もう一眠りしようと目を閉じたのだが、またもや音が外から聞こえてきた。
「……んだよぉ」
一体誰がこんな夜中に音を鳴らすというんだ。そもそも、音なんて夜中にするものじゃない。エーリヒは寝ぼけながらそこまで考えたが、それ以上の考えには至らなかった。
もし彼がその事態に少しでも違和感を覚えたならば、ここで音の正体を確かめようと起き上がりはしなかっただろう。
その鈴音が響き、エーリヒは怠い身体を持ち上げながら窓に近寄った。一歩歩く毎に身体の疲れを自覚する。ああ、どうしてこんなに身体が重いのだろうか。昨日はそれほど働いたのだろうか。
――リィン――
窓に手を掛けて、ゆっくりと開く。どうせこの高さまで霧が届くわけでもないので、真下に広がるだろう霧を見下ろそうとした。
霧は一階までの高さであり、二階にまで届かないのが定説だ。
――白い霧がエーリヒを両頬を撫でていった。
えっ、と彼は呟き、目を見開き、何故自分の部屋に霧が流れ込んでくるのか、そこでようやくこの部屋で何かが起こっていることを理解する。
瞬間、身体が震えて、そして止まる。
手の震え、舌の震え、視界の震えが止まり。
そしてエーリヒはゆっくりと前のめりに倒れていき、窓の縁は彼を押し返すことを拒み、地面に向かって落ちていった。
「あの時はコーヒーだけが楽しみだった」
間もなく太陽が目を覚ますことだろう。一晩中、この狭い部屋の中で一人の刑事と睨み合うように黙り込み、そうして話すタイミングを伺っていた。
アウグストは根負けしたわけではないが、一つ大きな息を吐いて今やすっかり大人となったアインズに目を向ける。コップの中のコーヒーは既に冷め切っていて飲めたものではないが、目を覚ますだけなら十分な効果を発揮することだろう。
そのコーヒーを空にして、話し始めたことは、結局コーヒーのことについてだった。
「真っ黒いコーヒーが一番の楽しみだったのだ。砂糖もミルクもいらない、ただ何の変哲もないコーヒー。あの苦さは舌を痺れさせ、頭を冷徹にさせた」
「必要だったことみたいだな」
「ああ、必要だった。冷徹になることがその時の私には必要だったのだ」
しかし次のコーヒーを求めようという気にはならない。今は空のコップでも十分に覚醒を促せていた。
「子供達はコーヒーが嫌いだった。それはそうだ。子供は甘い物が好きだ。こんなただ苦いだけの飲み物など欲しがるだろうか」
「……」
「子供は正直だ。そう、実に正直だ。それはスティーブ、君とて例外ではなかった。この私の実験にはそういう子供達が必要だったのだ」
「その実験のモルモットはこんな歪んだ性格になったようだがな」
スティーブは自嘲気味に笑う。
「いや、君は純粋だろう。世の中を正しく把握した上で、それだけ真っ直ぐな心を持つ人間は珍しい」
「むず痒い事を言うな。俺が聞きたいのはそんなことじゃない」
「甘い、苦い、好き、嫌い、それを素直に口に出し、素直に受け止める子供達が重要だった」
「……それは」
「全てを素直に受け入れるのならば、結果としてどのような人間にも育てられるということだ。言うなれば特化した超人を造り出すようなもので、小説にでも出てきそうな人間の創造が我々の目標でもあった」
「……」
「君は答えを出さずにはいられない」
スティーブは黙り込む。
「ツヴァイ、彼はあらゆる計算を複雑にこなす能力がある。――そして今生きているのは六番目のゼックスだ。彼は、彼は……」
「……ハンス・ハルトヴィッツは何だ?」
「彼は特別だ。君達の中で最も特別な役割を与えられた」
「お前達の実験の中でより特別だとか抜かすということは、余程のことだろうな」
「七番目の子の為だけに、六番目は存在する」
「……七番目?」
「あの子は特別コーヒーが嫌いな子だった。しかし、顔色一つ変えずに笑顔のままでコーヒーを飲み干すような子だったのだ。私は彼女がそうだからコーヒーが嫌いだなどとは思わず、よくあの子のコップに注いでやった。だが、それを止めたのは六番目だ」
アウグストの視線がコップの中からスティーブに戻される。
「六番目は私にこう言ったよ。なぜ嫌いなものを飲ませるのか、と。そこで私はあの子に訊いてみた、コーヒーが苦手なのかと。すると笑顔のまま、あの子は『本当は飲めません』と答えたのだ」
「ただ我慢していただけだろう」
「ああ、そうだ。我慢していたのだと考えた。だが、そこで気付いたのだ。何故あの子は我慢をしていたのか。そうしなければならなかったのか」
「我慢する必要なんか無かったということか」
今までの話の流れから、スティーブはそう結論を出す。少女は何も『我慢する必要がない』状態だった。
「我慢するということは、そこに相応の理由が存在する。その子とやらが我慢していたというのなら、アウグスト、お前にはそれだけの理由が想像ついたのだろう」
「ただ我慢しているのなら我々も気に留めはしなかった。だが、彼女の場合は本当に我慢していたのか」
「どういうことだ?」
「我慢していたのではなく、目の前の人間が望んでいたことをしただけではないのか?」
「……お前はコーヒーを飲んで欲しいと一言でも言ったのか?」
アウグストは首を横に振る。
「何も。ただコーヒーを飲むかとだけは言った。だがそう言うことはつまり心の底で『飲んで欲しい』と願っていたということだ。彼女はそれを察したのだ」
アウグストの手が少しだけ震える。
「わかるか、これが? 年端のいかない少女が自分自身ですら気付いていない心の奥を察するということが。これはただのキッカケに過ぎないが、彼女は笑顔のままでありとあらゆる人間の願いを見抜いていた。まだ、あんな年端のいかぬ少女がだ」
段々とアウグストの語気が強くなっていく。
「彼女こそ我々の望んでいた子供だと歓喜したよ。彼女さえいれば我々は超人ではなく、神が造れるのだと確信した」
「その驕りのような施設だったな」
アウグストが思わず煙草を口にくわえる。火を付けなかったのは、ここでそんなものを付けて散乱する書類に引火することを畏れたからだ。
「結論から言おう。彼女は神になった」
その告白は、暗い部屋の中で妙に響いた。
壁中の壁に染み込むような音に、スティーブはぞっとする。
「神は、人間の手で造り出せるのだ」
その創造に至るまでの過程に、スティーブ達はいた。アウグストの言葉をそのまま受け入れるなら、やはり自分達は失敗作として扱われていたのだと、妙に納得する。
――神が居る。
信じる気は無いが、しかしあのツヴァイに殺されかけた夜に出会った一人の少女は、まさにそう呼ぶに相応しかった。この世の人間ではないと瞬時に確信し、どんな凶悪犯を前にしても脅えなかった己の身体が、あの時だけは恐怖に打ちのめされたのだ。刑事としての経験や施設の時の地獄の記憶など、彼女の前では何の役にも立たなかった。
あれは人間がどのような努力をしようとも、どのような手段を執ろうとも、その蚊帳の外から眺めているような存在だ。
「我々はあの子にひたすら人の願いを聞かせ続けた。毎日別の人間と出会わせ、その願いをずぅと聞かせたのだ。何人も、何十人も――何百人とだ」
それは地獄と呼べる環境だろうか。
人の願いを聞き続けるという状態を表現する術をスティーブは持ち得ていない。
「顔を見せず、気配を感じるだけの薄い壁越しに、声だけをあの子に聞かせていった。恐ろしいのは姿が見えずとも、相手が声を発する前にその願いを言い当てたことがあるということだ。それはそう、十三人目からだった」
叶えられない願いの場合はどうしたのか、そう問おうとして躊躇う。
「それまでは願いを聞くことに子供らしい拒否と抵抗もあったが、ある時からそれがふっと失われた。それはそう、大凡六百六十六を超えた辺りからだった」
恐らくはそこで止めておけば良かったのだと呟くアウグストに、スティーブは舌打ちした。今更悔いた言葉を聞いたところでどうしようもない。今ここでこの老人が語るべき言葉は真実のみだ。
「それからの彼女は、まるで人間を辞めたかのように、人の願いをその耳に、心に受け入れていった。無表情ではないが、無表情だった。表面上は笑顔を取り繕っているのだが、どこか乾いていた。諦めたのではなく、開き直ったのではなく、そう、違う何かになったかのようだった」
「それが神だとでも言いたいのか」
「そうだ、神になりかけていたのだ」
人の願いから生み出された神が、そこにいたというのだ。
「到底神だとは思えんがな。――それだけでは」
願いを聞き入れているだけで神となるのなら、それを認める方が難しい。神とはその程度でなれるものなのか。この信心深い人間ばかりが揃うケープ市でただ人の心を見抜くのが得意という少女が、それだけで神を名乗れるようになるというのか。
「まだ神ではない。神になったのは、ある出来事によってだ。我々はその土台を着々と作り上げていたに過ぎん」
「……出来事だと?」
「ああ、お前もその記憶があるだろう」
「……。まさか……」
もしその出来事がスティーブの記憶にあることだというのなら。
「あの時の……」
あの施設に起こった、最悪の出来事。
「あの、施設で起こったことは……まさか」
七人の子供の内、三人が突如として命を落とした。その時、まるで操り人形の紐が断ち切られたかのようにカクンと彼らは床に伏したのだ。
冗談のように命を失ったのだ。
誰かが触れたわけでもなく、誰かが傷付けたわけでもなく、何もない場所で突然にだった。
「人がそんな簡単に死ぬのか、と、当然考えなかったわけではない。だが、その時だけはどうしようもなかった。思考が完全に停止した。何が起きたのか分からない。いや、分からないのではない」
ぎろりとアウグストの目が動く。
「理解したからこそ、我々は言葉を失ったのだ」
人間の言葉で表現できる範囲を優に超えていた。その場で起きた現象はまさしく神の所業であり、人間が起こす事件のそれとはレベルが違っていた。
「……アウグスト、貴様の実験とやらは、神を生み出すことで正しかったのだな?」
「正しいが、正しくはない」
「――神のような人間を生み出すこと、か」
スティーブは我慢できずに煙草へ火を付けた。
「神を生み出すなんて戯れ事だ。ずっと考えていたよ。超人みたいな人間を生み出せれば、一部に特化した普通の人間とは到底格の違う人間を生み出せれば、なるほどそれは神にでもなれるかもしれないな」
「……そうだ、我々が求めた実験の答えがそれだ」
「だが、それは予想を超える神を生み出したのか」
人間を超えた存在を本当に生み出してしまった。
――人間は、どれだけ才能を発揮しようとも人間のままだ。
「だからだ。人間の枠を超えた存在は」
その答えはもう分かっている。スティーブは付けたばかりの煙草をすぐさま消した。
「人間ではない」
アウグストは椅子から立ち上がり、静かに断言する。
「人間の望みが濃縮された、死神だ」
人は神を生み出した。
本当に望んだ神の姿を。