124.悲しみの始まり5
突然現れた少女に驚いたのは、何もフォルカーだけではなかった。あんぐりと口を開けているのは隣で立っているアンナも同様だった。最近目覚ましく知識を付けて閃きが冴える女の子といえどこの状況は予想していなかったのだろう。
兎にも角にもハンスと追い掛け続けていた真実の全てであるテースという少女が自分の家に居る。この状況をどうすべきか、フォルカーにはどうしようもない。
「テース……おねえちゃん……」
やっと戻ってきたと思っていたハンスが連れてきたのは、今までそのハンスが探していた女性その人だったのだ。アンナもまたテースのことを気に掛けていたから余計に驚きが隠せない。
いつの間にハンスが彼女を発見したのか、いや、それよりどうやって説得してここまで連れてきたのか。フォルカーの疑問は色々とある。そも、フォルカー自身も彼女とは『一度会っている』のだが、実際にその目で真正面から見るまで顔すら忘れていた。
そう、記憶から彼女の姿が完全に消え去っていたのだ。しかしこうして見ると、何故か記憶が甦ってくるのだ。
――あの時、あの場所で、一人の女性の魂を狩りとったその姿を。
フォルカーは拳を強く握った。
目の前に彼女の命を奪った存在がいるというのに、どういうわけか怒りも何も湧いてこない。それが不思議で悔しくて、けど恨む先が見つからなくて、行き場のない感情だけが胸の奥で渦巻いている。
「どうして、なんで?」
アンナはテースの袖を掴んでいた。
「なんで一緒に来たの! テースおねえちゃんは違うでしょ! こんなことしたら、おねえちゃんは――」
「アンナ、いいんですよ」
今にも泣きそうになっているアンナを、テースはそっと抱き締めた。
「私はいいの、大丈夫。それよりもこれから起こること、アンナは分かるでしょう?」
「……おねえちゃん、本当にいいの?」
「ええ。私は大丈夫。けど、これから起こることそのものは私にも想像が付きません」
「テース?」
ハンスはそこまで聞いて首を傾げる。二人の会話を理解しようとして、さっぱり分からないといった顔だった。
「ハンスさん、これから私はハンスさんと一緒に過去を振り返ろうと思います」
「……テースがそう思うなら、俺は文句ないさ。今の俺は君を救うつもりでも、どこから手を付けていいか分からないからな。単純にここを、このケープ市を逃げ出すだけじゃ問題が解決するなんて思っちゃいない」
「いいんですね、ハンスさん」
「……俺は過去をはっきり思い出してないんだ。そうしたのもテースなんだろう?」
「はい」
「ああ、なら自力で思い出す。そうすることがいいのならな」
「ええ、それでは行きましょうか」
「わかった」
「そして、この子も連れて行きます」
テースはアンナを抱き寄せる。
何故だ、と問い掛けようとしたが、二人の目を見てハンスは黙ってしまった。彼は何かを察したようで、テースとアンナへ一度だけ交互に目を向けて、そして目を逸らす。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。一体何がどうなってるんだ? 分かるように説明してくれ」
このままではテースの事を知る前に三人ともどこかへ行ってしまうと焦りを感じたフォルカーが間に割って入りそう言うが、しかし三人とも口を閉じたままだった。
「なんだよ、ここまで来て俺だけ除け者か? ちょっと待ってくれよ。俺だって知りたいからここまで君達に協力したんだ。なぁ!」
「……けど」
ハンスはすぐに何かを言おうとしたが、その前にフォルカーが叫んでいた。
「俺を置いていくな! 俺にも知る権利はある!」
ハンスの目が見開き、開いた口はそのままとなる。
「はい」
止まってしまった少年の代わりに、テースが応えた。
「貴方にも当然知る権利はあります。いいえ、このケープ市に住む全ての人は、誰もが知る権利を有しているのです」
「テース……」
ハンスを片手で制したテースは言葉を続ける。
「だから一緒に来てください、フォルカーさん」
「……」
一度も名乗った記憶はないが、テースはするりと名前を呼んできた。もしかしたらハンスが自分のことを語ったのかも知れないと思ったが、なぜかそれはないと確信する。誰も名乗らないのにテースは名前を当てたのだ。
「感謝する」
それだけで異常なことだが、フォルカーはその異常な事態に飲まれながらもなんとか感謝を述べる。
「け、けど今すぐ行くのか? ハンス君も疲れているだろう、少しぐらい休んだ方が」
「いえ、大丈夫ですよ。俺はこの程度――」
そんなハンスを、テースが軽く手で押した。
「うわ、た……!」
蹌踉めいた少年に、アンナが溜息を吐いた。
「ほとんど寝てないでしょ、おにいちゃん」
「本当は今すぐ行くべきでしょうけど、これは一度お休みしたほうがいいですね」
弱みを握られたみたいで、ハンスはむすっと顔を顰めた。
「俺は大丈夫だって」
「駄目です」
「だーめ!」
「うっ……」
テースがハンスの手を取って、肩を押し、椅子に座らせる。抵抗することも叶わずハンスはテースの為すがままだった。
「私のために無茶をし過ぎです。私を救うと言いながら自分から倒れたら意味がありません」
「……そりゃそうだけどさ」
頭を掻き毟りたくなる。
別にテースに心配を掛けさせるために奔走してきたわけではないのに、これでは立場が逆だった。
「……いいさ、休むよ」
だが、目を瞑れるだろうかとハンスは彼女達に聞こえないよう本当に小さく呟いた。
「逃げません。だから、ゆっくり休んでください。目覚めた時、私は常に貴方の隣にいますから」
テースの声はとてもとても優しかった。
ハンスは小さく笑った。
本当は笑うなんてしたくなかったが、どうしても自分の感情がごちゃ混ぜになって本当はどうしたいのか、どういう顔をしたいのか分からなくなっていた。
今日一日で起こったことは余りにも多かった。
オットーと出会ったことはもちろん、アンジェラを救おうと屋敷に忍び込んだこと。
そして、忍び込んだ屋敷で起こったこと。
(……アンジェラ)
二度と会えない少女を思い出し、アンジェラの魂を狩り取ったテースを恨めずに、結局この心の整理をどうしたらいいか判断つかないまま。
ハンスは目を閉じた。
「もういいか」
その言葉にアウグストは唸りながら振り返る。長身の男、一番目の男、最も答えを出す術を知る男を前に下手な隠し事は無意味だ。むろん、隠すつもりもない。
(この歳になって、ようやく肩の荷を下ろせるか)
その長身の男が名乗るべき本当の名はアウグストですら覚えていない。彼は最初からアインズだった。アインズというネームだけが与えられた。それはまるで精密機会が世に並べられる前に付けられるコードネームだ。事実、そのつもりでアウグストはそう呼んでいた。
「語ってもらおうか」
「いいだろう。だが、その前にコーヒーを淹れさせてくれ」
コールタールのようなコーヒーが欲しい。
「これから語ることを、アインズ――いや、スティーブ、君だけは忘れないでくれ」
それだけを念押しし、アウグストは語り出す。
彼の知る、彼だけが知る、過去を。