121.悲しみの始まり2
アンジェラの亡骸をそっと抱え上げてから、ハンスは彼女をベッドの上に寝かせた。穏やかな顔のまま逝った友達の――自分を好いてくれていた――顔を見るのは酷く辛かったが、しかし、二度と見ることはないだろうその顔を胸の奥に深く刻み込む。今後一生その顔と名を忘れないために。
一体どれだけの刻をそうしていただろうか。
窓の傍には漆黒の少女がそれを眺めていた。そっと滑り込む温い風は少女の金髪を梳きつつもそんな二人を慰めるかのようで、とても辛く、しかしその痛さがハンスの意識をよりよく覚醒させた。
この部屋には酷い怪我を負ったオットーもいる。天に召された少女はこの部屋で安らかに眠ってもらうしかないが、オットーはまだ生きている。助かる可能性が少しでもあるのなら助けるべきだった。
「ごめん、アンジェラ。もう行くよ。いつか俺がそっちに行ったとき、神官学校の時みたいに話せたらいいな」
そしてその時こそ彼女の願いを聞き入れてやれるだろうか、とハンスは自問するが、そうするためにはこの暗闇に包まれた現実を、そしてアンジェラの友人であるテースを救い出す以外に方法は無い。
「行こう、テース」
せめて内臓器官だけは無事なことを祈りつつ、応急処置を施したオットーを抱え上げる。
「窓から飛び降りるつもりですか?」
「ああ」
「普通の人にこの高さは危険です」
「俺は、もう人間じゃないんだろ?」
「……」
漆黒の少女は何も応えない。ただ無言で窓から飛び降りていった。ハンスもその後を追うべく窓に足を掛ける。すでにテースは庭の中央で、二人が来るのを待っていた。
姿恰好はあの死神なのに、今のテースからは先程まで感じていた圧倒的な殺意が微塵も感じられなかった。ただ、黒装束を着込んだ少女がそこにいるだけだ。異様なのはその手に少女の背丈に見合わぬ巨大な鎌を握っていることだが。
どれだけの怪力だろうとあの鎌を持ったままこの二階から軽々と飛び降りるなんて芸当は不可能だろう。それだけで少女が力ではなく何か別の法則であの鎌を持っていることがうかがい知れたが、しかしいくら考えたところで彼女の人外に及ぶ力を解明することは無理だろう。ハンスはオットーを抱えたまま、自分にも似たようなことが出来るだろうかと、そこだけを考えて目を閉じる。ああは言ったがやはり怪我人を抱えてのことだ。一人なら下は土なのでなんとでもなるが、今は単純に考えて二倍の体重となっている。しかもオットーはスポーツをしている所為かそれなりに大柄だ。
一番の問題は自分より抱えているオットーだろう。飛び降りた際の衝撃がどの程度で、今のオットーに耐えられるかどうかだ。
だからといって馬鹿正直に屋敷の中は通れない。オットーをここまで痛めつけた連中が屋敷にはたむろしている。オットーをここまでしたのだから一発殴りたい衝動はあったが、今は頭を冷静にすべきだ。
深呼吸をして窓から庭を見下ろす。テースの表情のない瞳がただハンスに向けられていた。
「いけるか……いや」
覚悟を決めて、飛び降りる。
両足に来るだろう衝撃に備えるべく身構えていたが、思ったような痛みも重さも感じなかった。むしろ軽くジャンプした程度の衝動で、思わず呆気にとられる。
「人間じゃないと言ったのはハンスさんです」
テースの言葉に「なるほど」と呟く。その現実を受け止めるのは難しいが、納得するしかなかった。
「今やってる病院は無いよな」
「少し待ってください」
テースは鎌を空に掲げる。
するとその鎌は段々と半透明になり、やがて消えた。そして彼女の黒装束もまるで鎌と呼応するかのように暗闇の色が抜けて何者にも染まっていない、そして染められない純白へと変貌する。
いつものテースが戻ってきた、とハンスはどこか心の底で安堵しようとしたが、そこではっとさせられる。
純白に身を包んだテースは常に笑顔を作っていた。
だが、そこで振り返り、ハンスに向けられた顔は。
「ハンスさんが普通の人なら、私はここで笑っていたでしょう」
その表情には一切の感情が消されていた。
まるで精巧な人形のようにまったく色がない。純白に身を包み、白い肌に白い感情。どこまでも透明で、まるでそのまま視線から消え失せてしまいそうだった。
――あの鎌のように。