120.悲しみの始まり
今回から新章開始です!最近更新が滞ってしまい大変申し訳ありませんでした、次回は火曜日に更新する予定です、宜しくお願いします!
家具屋の娘であるテアが目を覚ましたのは、ふと奇妙な音が聞こえたからだ。むくりと身体を起こして窓に触れるが、しっかりと閉ざされている。
もちろんこんな夜中にケープ市を出歩く住民がいるわけもないと知りつつもこうして戸締まりだけきちんとしているのは、両親がきつく言ってくるからだ。以前一度だけ鍵を掛け忘れた時にこっぴどく叱られたのを思い出して「ふん」と鼻を鳴らした。――自分達だって時々忘れているじゃない。
なんとなくカーテンを捲ってこの二階の窓から外を眺めると、建物の一階部分に当たるところはやはり深く濃密な霧に覆われていた。生まれてからずっとこの街で暮らしてきたが、この霧の中に出たことはない。人はこんな歩くのも億劫そうな霧の中で息ができるものだろうかと、そんなことすらも疑問に思えてくる。
歩いたことはないが何度もこうして見下ろした霧は、このケープ市の建物を軒並み二階建てにすることを強制した。いくら頑丈な扉だろうが、強固な窓だろうが、余程に金を掛けなければ霧がどこかから侵入してくる。当然ながらそんな金を掛ける余裕はどの家にも無いので、それならばいっそ二階建てにしてそこを生活の場とし、一階部分しか覆わない霧から逃れるのが手っ取り早い方法となったわけだ。
そこまでしてこのケープ市に居続ける理由というのはいくつもあるのだが、その内の最大の理由は、寝る時にまで首からぶら下げているネックレスにあった。
それを言うならテアだけではない。
このケープ市に住む人間は、これだけ濃い霧に覆われる街を棄ててもっと都会に行くのを選ばず、大体の生涯をここで終える。まるでこのケープ市に生まれた時から足や腕、首、頭、そして心臓まで絡められて縛り付けられてしまったかのように。
――だが、誰も強要などしていないのだ。
霧と違い、ケープ市民はここを出て行ってもいいのだ。
そんな決まりや法則など存在しない。
テアはその奇妙な透明の縄に縛られてしまったことに気付いていない。ここで生まれてここで骨を埋めるのはごく自然のことだった。このケープ市こそが彼女にとって世界の全てだ。この井の中の蛙こそが、彼女の目に映る、手の届く範囲の世界なのだ。
頭の回る賢い大人達ならばその正体に気付いているのかもしれないが、それでもごく僅かだった。
実際、気付いた者はいる。
――そう、いたのだ。
少女がぶら下げるネックレスの形は十字である。この形に描かれた紋様は目に見えぬ透明の縄そのもののようでありながら、しかし彼女達が愛して止まぬ神へと繋がる最も手っ取り早く最も身近な道具だった。
その十字をなぞる。
耳を澄ましてみても外の音は霧によって飲み込まれ、何も聞こえてはこない。先程の音は結局のところ気のせいだったのだろう。この霧の中においては虫の音すら吸い込まれてしまうという、あまりにも静かな夜が毎晩続く。せいぜい家の中の生活音だけが聞こえてくるだけだ。
このケープ市に訪れた人達はこの街の宿に泊まる度、それに驚くという。静かすぎることがどれだけ不気味で、どれだけ異様なことか伝えようとしてくる。
だが、テアを含めたケープ市民は誰一人としてそれを異様だとは思わない。
人間が生み出した神という偉大なる存在に縛られ、夜になると人の足と音を奪う霧を発生させる状況に追い込まれてもなお、ケープ市民は神への祈りを忘れなかった。