116.純粋を疑問に思う彼ら5
世界は決して優しくはない。
そう教えられた気がしたけど、それが神官学校だったかどうかすら記憶が曖昧だ。
とにかく世界は優しくない。順風だった人生など何かの拍子に暗転してしまう。暗転してしまえばまるで坂を転がるように底へと堕ちていく。転げた先から坂を見上げると、ほとんど垂直に写るその急勾配に絶望し膝を抱えてしまうことだろう。
自室でじぃっと蹲り、膝を抱えている少女はただただ壁の一点を眺めていた。白い壁は窓からかろうじて差し込む冷たい月光に照らされて黒と紫のグラデーションを描き出しているものの、今のアンジェラはそれを美しいと思える豊かな感情がすっぽりと抜け落ちていた。
――殺した。私が、みんなを殺した?
あの神父の一言が心に刺さっている。
全てを滅ぼしたのは他でもない。聖女の貴女だ。
神父の言葉は到底真実として受け入れがたい。だが、それを完全に否定する材料をアンジェラは持ち合わせていなかった。父とハンス曰く、神は産み出されたものだというのなら自分の祈りは偽物だ。だが、事実祈りは届き、ケープ市民からはあれだけ慕われ、そうして今、この惨劇が起こっている。
祈りが正しく伝わる訳じゃない。それは人々の祈りが通じるかどうか曖昧な確率からしてもよく分かる。
――だが、殺したことに変わりはない。
言い訳は出来ない。あの神父の言う通り、本当に両親とこの家を疎ましく思っていなかったとは断言できない。誰にもそれを証明させられなく、またそれは自分自身に対しても同じ事だった。
暗闇が自分の手を隠す。身を隠す。心を隠す。隠されて隠されて、そのまま消えてしまえば楽なのにと願わずにはいられない。しかし神は決してこの身を滅ぼす願い事は聞き入れてくれないのだ。先程から何度も何度も罪を償わせてくれと祈っているのに、神は一向に聞き入れてくださらないのだ!
この暗闇の中、一番目立つのは自分の服だ。神官学校の制服。純白に輝く制服。神に仕える者は純白であるべきという教えに沿った見事なまでに美しい制服。今はただ消え入ってしまいたいと願う自分を隠してくれない恨めしい輝きだ。
「どうして……もう、いやだ……なんで、こんな……」
父と母は死んだ。
アデナウアー家に仕えていた者も、おそらく全て死んでいる。――そう願ってしまったのだから。
(もういやだ……なんで、こうなるの……)
少女の心はもはや完全に折れていた。
(もう誰も救いたくない……なんでわたしを救ってくれないの……なん
で……なんでよ……こんな世の中嫌だ……誰か助けてよ、ねぇ……誰か……)
この優しくない世界で、少女はひたすらに我が儘を呪文のように唱えていた。
「そんなところで蹲って、どうしました?」
――その時、ドアの向こうから声が聞こえてきた。今ではもう二度と聞きたくない、神父の声。
「アンジェラさん、入りますよ。貴女に見せたいモノがあるのです。いいですね」
こちらの確認を取る前に、その男は入ってくる。
「この人が誰だか、知っていますね」
どさりと、彼女の前に放り出された人物を観て、アンジェラは痩せた顔を思わず上げていた。
「……オットー……?」
「……あ、アンジェラ……!」
何度も何度も殴られて頭から血を流している少年が、アンジェラを見上げてその名を呼んだ。
「なかなかしぶとかったですよ。まさかこの霧の中を侵入してこようとは思いませんでした。確かアンジェラさんのご友人の方でしたね。――ですが、不法侵入に変わりはありませんので」
もはやその顔は変形している。そんなになるまで殴られたのだろうか。
「ああ、もちろん僕だけじゃありません。先程も言いましたが、お客人が大挙しておられます。皆、貴女の元信者です。下で聖女様が偽物だと叫んでいますよ。まったく、何を言っているんでしょうね。聖女にだって願いを選択する権利があり、そしてこの屋敷の者を残らず殺した実績があるというのに」
「……ッ!」
引き攣るような顔でその神父を見遣る。
「ああ、そんなに震える必要はありません。ただ、もし貴女が願えば――下の方は全員神の裁きを受けることでしょう。わかりますか、それは彼らが死ぬという意味です。――さて、僕としてもそれはできるだけ拝みたくない。何か方法を考えなくてはなりませんね」
その方法はたった一つだけなのだという気がした。アンジェラは自分の手を見る。白く細い指とその手。あまり重い物を持ったことはなく、その指から紡がれるピアノの音がいまや懐かしい。
「さぁ、あとは分かりますね。ああそれと、一つ言い忘れていましたが……」
神父は酷く醒めた目でオットーを見下しながら、彼の腹部を蹴り上げる。オットーの呻き声が暗い部屋に響く。
「少しだけ会話をさせてあげましょう。その後、彼にはこの舞台を退場してもらいます。いいですね」
アンジェラは答えない。
今更オットーが来たところで何も変わらないからだ。
この白い手は真っ黒に汚れている。最早オットーに助けてもらうような希望は捨て去っている。その資格はどこにもない――
神父はそんな二人を一瞥した後、部屋を出て行った。
「ア、ンジェラ……」
奇妙な息遣いが聞こえてきた。
「にげ、ろ……アンジェ……ラ……」
おそらくは肋骨が折れて肺にでも突き刺さっているのだろう。そこまでの怪我を負いながら、なおオットーはアンジェラの身を案じている。
「あい……つは、危険……だ……! 逃げなきゃ……お前が、殺さ……れ……」
オットーの声は聞こえてきていたが、その言葉は頭の中で意味を成さなかった。
「ハン……待つべきだっ……た……おれ、早まっ……ぐぅ、かはっ……はぁっ……」
口から大量の血が溢れ出る。
その血はまるで命の器から溢れる水のように、オットーの生気を失わせていく。
しかし、それでもなお、オットーはひたすらに自分のみを案じてくれている。好きだと告白した少女を守りたいが故に、彼は死を眼前にしてもひたすらアンジェラの身を案じているのだ。彼ほど純粋な少年がどこにいるだろうか。自分と違い、これほど純粋な人がこの世にどれだけいるのだろうか!
――ああ、今一度でいい。
――もしこの願いが届くのなら、彼だけでも救ってくださいませんか。自分の命はここで果ててもいい。だから、せめて彼だけでも救ってください。
――私の命を差し上げます。だから、彼だけは。
……アンジェラの両手がきつく結ばれる。
それは彼女が聖女を名乗るようになって、初めて本気で祈った瞬間だった。
――自分は沢山の罪を犯しました。もう救われることはないでしょう。けど、それでも願いを届けてくださるならば、せめて彼だけでもお救いください。
自分の命すら失っても構わないと、少女は本気で想い、願う。祈りが届くのならばこれだけ本気で願っているのだ、届かない筈がないと信じながら。
そして、アンジェラの背後にある窓が唐突に開かれた。
「……あっ」
思わず声が漏れる。
その窓の方へと振り返る。
「……アンジェラ、ごめん。遅れた」
指先をボロボロにした少年が、窓から入ってきた。
「……あ、あ……」
まるで神が遣わした天使のように、その少年はこの部屋へ降り立つ。
「オットー……? おい、大丈夫か!」
そうして少年は、祈った通りにオットーを助けるためにそちらへ駆け寄る。
(ああ……ありがとうございます。神様)
この祈りは正しく通じたのだ。
(最期の最期に、私の愛している人と出会わせてくださったことに感謝します)
神の気紛れかもしれないが、今はそれでも十分だった。
(私の命と引き替えに、この祈りを聞いてくださったことに感謝します)
アンジェラはようやく心から優しく笑えた気がした。