115.純粋を疑問に思う彼ら4
アンジェラの屋敷に忍び込む方法は先程軽く話し合った程度で、オットーは正直霧の中を歩いていくという行為を最後まで躊躇っていたが、ハンスが本当に霧の中迷わずに歩いているのを知ると、やや緊張感が緩んできたようだ。
「案外いけるんだなー、すごいな俺達」
アンジェラの屋敷を前に、オットーは感心したように声を出す。多少霧が弱くなっているのか、月の灯りで塀の上の部分がかろうじて見えた。
「俺の服掴んでるだけじゃん、お前は」
「まぁまぁ、あとはどうやって登るかだけど、木ってのはどこにあるんだ? よく見えないぞ」
「ああ、こっちだ」
やはり躊躇うことなくハンスはそこを目指す。ここまでくると覚えている範囲ではなく『見えている』のではないかとオットーは一瞬考えたが、この霧の中で見えるなんて馬鹿らしいと一笑した。
足下に落ちている石ころすら避けながらハンスは目的の場所に着くと、早速木を登り始めた。ぎょっとしてオットーがその足を掴む。
「お、おい!」
「うわっと、あんまり声出すなって。いくらなんでも声が響くぞ。オットーはここで見張っててくれ」
「馬鹿言うな、俺も行くぞ!」
「お前……これ登れるか?」
「の、登る!」
「その根性は認めるけど、危ないからやめとけって。俺が単独で行ってアンジェラを連れてくるからさ、それまでここで待っててくれよ」
「そういうわけにもいかない。アンジェラには俺達二人で会いにいくって約束したんだ」
「……あー、まったく」
呆れたようなハンスは呟いた。一度約束してしまったオットーは何があっても自分を曲げない。思い込みが激しいところもあるので尚更だった。
「とりあえず手を離せって。勝手に来るのは構わないけど、さすがに手伝えない。あと中に入ったら出来るだけ息を潜めててくれよ。足音一つも厳禁だ」
「ああ、わかってるさ」
「……あともう一つ。俺一人のほうがやりやすいってことも言わせてくれ」
「……わかってる」
やけに素直な態度でオットーはそれを認める。
「それがわかってりゃ上等」
ハンスは身軽に木を登り、塀の天井へと飛び乗った。
そうして中へと飛び降りる。
「……まったく、アイツの方が運動神経抜群じゃないか」
スポーツだけなら自信のあったオットーも、さすがに今回のハンスだけは認めざるえなかった。
霧が姿を隠してくれるとはいえ、堂々と真ん中を突っ切っていくほどこの濃霧を信用していない。それに自分の目が霧など関係なくはっきりとこの庭を見ているせいか、いまいち隠してくれている気がしないのだ。だからハンスはできるだけ身を潜めながら屋敷に近付いていった。
出来うることならオットーはあの場に置いてきたい。いくら彼が運動できるとはいえ、ほぼ視界が塞がれた状態で木を登るのは容易いことではないだろう。その間にアンジェラを連れてくることができればいい。
――屋敷に近付き、何か変な匂いが鼻につく。
「なんだ?」
鉄分の匂いだ。それがなぜか窓から漂ってくる。
「料理でこんな匂いの物なんて、ないよな。そういう材料でも捌いてる最中か。でもここまで匂いをさせるのは……どうなんだ?」
だとしたら、この匂いは何か。
「……まさか」
死神の少女が浮かんできたが、すぐさま首を振った。彼女は相手が血を流すような命の狩り方をしない。
「最悪な事態なんて、まさか起こっちゃいないだろ」
うっすらと汗が額に滲む。
――とある雑貨屋で嗅いだ匂いとそっくりだったとしても、ハンスは最悪の事態だけはあり得ないと信じていた。
開いている窓はないか確認をして、とりあえず手近の窓から中を覗き込む。
「……誰だ?」
数人の男女が中で何やら怒鳴り合っていた。
「あいつらは、誰だ?」
彼らの足下、というよりも比較的近くで誰かが倒れている。メイド服姿らしき女性だった。なぜあそこで寝転がっているのだろうか訝しんでいると、やがてそれが寝転んでいるのではなく、すでに立てない状態なのだと知ってしまう。
(……殺されている!)
胸の辺りのエプロンが変色しているのを見て、殺されてからある程度の時間が経っていることを知る。
(あいつらが殺したのか……ッ? くそ、何が起こっている! アンジェラは大丈夫なのか!)
今すぐに飛び出したい衝動に駆られるが、もし相手が訓練でも受けている人間だった場合、あの人数相手にしてどうにかできるとは思えなかった。感情のまま飛び出して自分まで掴まってしまうのが一番最悪な事態なのだ。
(けど、中に入らないとアンジェラを助けられない!)
本当は彼女の自由意志に委ねようとしていたが、どうやらそういう状態では無くなっている。なんとしてもアンジェラを助け出さなければならなくなっていた。
(……殺されていなければいいけど)
とにかくここから入るのは論外だ。もっと別の箇所から中へ侵入する必要があるだろう。あとはアンジェラがどこにいるかを知らなければならない。一度屋敷から距離を置いて、どこの窓に灯りが付いているかを確認する。
(二階に二カ所、灯りがついている。……アンジェラの部屋は向こうか。トルベンの部屋は特に灯りはなし。まだ戻っていないのか?)
まさかトルベンがメイドを殺したとは考えにくい。あの男は今更人を殺す度胸があるとは思えなかった。それに護衛の一人や二人雇っていてもおかしくはないし、それはこの屋敷そのものにも言えることだ。
それでもなお惨劇が起きている。雇っていた護衛ごと奴らは始末したということだろう。だとしたら余計発見されたら逃げられる術はないと考えるべきだった。
「……よじ登るか」
あの灯りのある部屋まで外壁をよじ登るしかないと、半ば諦めるしかない。
「……どうやって登るんだ、これ。やるしかないってか」
なんとか起伏のある部分を探してロッククライミングの応用で登っていくしかないだろう。ミスして落ちれば、この高さから死ぬことはないにしても結構な物音がするはずだ。ミスは許されない。
「親父に連れられていた時も、こんな平坦なところは登らなかったな」
色々と世界を歩き回った過去を振り返ってから、ハンスは靴を脱ぎ、壁に指をかけた。