113.純粋を疑問に思う彼ら3
「とりあえずアデナウアーの家に忍び込む」
と、提案したのはハンスだった。
「唐突なんだけど、それで大丈夫なのか?」
如何にも疑わしげにオットーが呟くと、ハンスは軽い溜息を吐く。
「今となっては外でアンジェラを連れ去るほうが難しいんだ。あんだけ信者に囲まれてたらやりづらいし、何しろ彼女に意思疎通の確認を取る暇があるかどうか」
さらには人目を出来るだけ避けたいというハンスの願望もあったのだが、それは敢えて口に出さなかった。
とりあえずということでハンスとオットーの二人は一度郊外にまで出て人目のつかない場所へと移動した。以前、スティーブを助けた時に隠れた廃墟の中へと案内するとオットーはこんなところがあったのかと軽く驚き、そうしてじっくり話すには最適だと妙に好評だった。案外この廃墟を見て、かつて自分達の祖先が築き上げた文明に何かしら思いを馳せているのかもしれない。
崩れた壁に囲まれた中、出っ張った石に腰を掛けて、二人はああだこうだと話し合いを始めた。とにかくアンジェラをあの集団から引き離し、三人だけで話し合う舞台を整えないとならない。その為の手段はどうするべきか――ハンスが提案したのは、あの信者達の目に付かない場所こそアンジェラの部屋ではないか、ということだった。
「確かに……そういう考え方もあるけど、それはそれで問題だよな。バレた時、犯罪者だ」
「オットー、そんなくだらないことを言うな」
「くだらない?」
「あのな、オットーは『俺がどういう状況か』なんて関係無しに無理矢理巻き込んでるんだ。……いや、言い方が悪かったか。仮に俺が犯罪者だったとしても巻き込むつもりだったから、俺はお前を手伝うんだよ」
彼女を救えるのはオットーのほうだ。決して自分ではない――だからせいぜい出来るのはオットーがアンジェラと会うまでの道を確保することだ。さすがにこればかりはオットーが幾ら学校の成績が優秀でも、今まであらゆる手を使って逃げ切ったハンスの経験に敵う術はない。
「どんな手を使ってでもアンジェラを救いたいって言ってたろ? だったら半端は無しだ」
「……あ、ああ、そうだな。その通りだ」
ふぅ、とオットーは息を吐く。そうやって心を落ち着けたのだろう。
「悪かったよ。それで、具体的な手は?」
「アンジェラの家なら一度だけ行ったことがある。詳しく周囲を調べたわけじゃないけど、結構広い屋敷なので塀をよじ登って中に侵入する隙ぐらいはあるだろうさ。――そうだな、例えばこんな手はどうだろう」
一本の枯れ枝を拾い、アンジェラの家を見立てて地面に図を描く。ほぼ真四角に近い塀に、半分ほどを占める庭と屋敷。ハンスの正面に正門、右手に座るオットーの傍に西門を描いた。
「どうせまともには入れてくれないんだ。確かここに木があったな……ここをよじ登って、ジャンプ」
「うわ、単純だな。それにジャンプって、塀はどのぐらいの高さがあるんだよ」
「運動神経抜群のオットーさんなら余裕だろ」
「……いや、そうでもないと思うけどな」
「あと、狙うは夜だ。さすがに裏からといっても、昼間じゃほぼ確実に掴まる。夜の霧に紛れればその確率はぐっと減るからな」
「待て待て、霧の中をって、正気か? 歩けるわけないじゃないか!」
「歩ける」
ハンスは断言する。
「俺の服でも掴んでついてくればいい。俺はアンジェラの家の道程をほぼ完璧に覚えてるから、任せてくれ」
当然それは嘘だった。いくら記憶力が良かったとしてもまったく視界の通らない道を間違えずに行く事などできやしない。
しかし霧の中でも問題なく視界が通ると説明するのはなぜだか憚れたのだ。オットーにそんな気がなくても「普通じゃない」という言葉を誰かから聞きたくなかった。
「何にしろ濃霧の中で侵入する馬鹿はそうそういないから、忍び込むには丁度良いんだ」
「丁度って……めちゃくちゃだな。あの霧の中を」
夕方には店を閉じ、夜の賑やかさを知らない静観とする町の様子をするオットーは溜息を吐いた。確かにあの中を歩こうとする市民は滅多にいないだろう。
「……まぁ、大体分かったよ。で、今の内にやっておくことってあるか?」
「何が起こるかわからないからなぁ……そうだな」
ハンスはにやりと笑う。
「川で魚でも釣って食べるか。体力付けなきゃなんねーし。火をつける方法は気合いで探そう」
「アホ、釣り竿がないだろ」
ようやく友らしい笑い声が二人の間に起こる。
その時、近くから砂利を踏む音が聞こえる。ハンスの身体に緊張が走り抜けた。
「……なに?」
オットーを壁際に押して、ハンス自身もすかさず壁際に身を隠した。ここならそうそう下手な人間に見つかることはないと油断していたハンスは、冷や汗を流しながら思考を巡らせる。
「……お、おい、どうしたんだよ」
「静かにしてくれ、頼む」
尋常じゃないハンスの様子に、オットーは押し黙ってしまう。ハンスは両手を握ったり開いたりと、どうしていいか悩んでいる様子だった。
今までにない真剣な目で壁の向こうを見遣り、呼吸を整え、足音の主との距離を耳のみで測る。
(誰だ……右腕の連中か? それ以外は……)
今更トルベンが自分を探して人を派遣しているとは思えない。すると以前スティーブを助けた時に顔でも見られており、ずっと監視を付けられてでもいたか。そうなったなら最悪だ。自分とオットーがここで密談しているという事実は、オットーに余計な危険を及ぼす結果になりかねない。
(細心の注意は払っていた……それはないと思うけど)
足音が近付いてくる。――約二名。一人は男の足音らしき重い音だが、もう一人はやたらと軽い。まるで女の子のような……
「おにいちゃん!」
――実際、女の子の声だった。しかも聞き覚えがあった。
「なっ……まさか、アンナ?」
思わず顔を出してしまう。
するとそこには何故か申し訳なさそうな顔をしたフォルカーと、ハンスを見つけて嬉しそうな顔をしたアンナがいた。アンナはぴょこんとツインテールを跳ね上げてハンスに抱き着いてくる。
「やっぱりここにいたー!」
「なっ、アンナ! どうしてここが……って、フォルカーさんが教えたのか。まったく……」
思わず呆れてしまう。アンナはここの場所を知らないのだから、後はフォルカーが案内するしかない。
「い、いやそれが、別に俺は何も――」
そして小さな女の子に抱かれているハンスに、オットーが両手をきつく結んで祈りを捧げていた。
「ハンス……そんな趣味が……おお、神よ……」
「いや祈るなよ! ないよそんな趣味! ほらアンナ、変な誤解を与えてるから離れてくれ。まったく」
ぎゅぅっと抱き着いてくるアンナをなんとか引き離す。
「よく俺がこんなところに居るなんて分かりましたね」
ハンスの質問にフォルカーは首を横に振り、そして代わりに応えたのがアンナだった。
「わかるよ。わたしはなんでもわかるの」
「へ?」
「おにいちゃんがここにいることも、何をしてるかも、知りたいこともわかるんだよ」
「知りたいこと? それなら凄いな」
笑ってからアンナの頭を撫でる。
「うん、わかるんだよ。――ねぇ、おにいちゃん。本当にあの夜のこと、忘れちゃったの?」
「え?」
疑問を浮かべるハンスに、フォルカーが口を開く。
「……ハンス君、この子の話を、聞いてやってくれ。この子の話を聞いてから、ずっと君を捜していたんだ。危険だと知ってもなおケープ市を歩いて、ようやく君を見つけたんだ。だから聞いてやってくれ」
「なんです、何のことなんです?」
瞬間、フォルカーの瞳に怯えのような色が点る。一体彼はアンナから何を聞いたのか。
「おにいちゃん、本当に忘れたの?」
当のアンナは純真な眼差しをハンスに向けている。
「だから、何を――」
「テースおねえちゃんのこと」
「……」
何かが、強烈な何かが頭を横殴りにする。
「おい、どうしたんだハンス?」
ぐわんぐわんと響く音の中、かろうじてオットーの声が聞こえてきた。汗が滲み、手足が震える。心臓が鷲掴みにされたような苦しさと息苦しさが襲ってくる。
「……テー……ス……?」
その名前はいつ知ったのだろうか。たったそれだけの名前を、ハンスは忘れていた。テース。たった一人の少女の名前。
「テース……テース……」
美しい純白の少女。その美しさは誰の心をも白く照らし、その美しい姿はとても正視に耐えられない。汚れた者は己の卑しい心を懺悔し、素直な者は感謝をする。
「……そうだ、テース……」
そして儚くも漆黒の闇を纏う、死神の少女。人の最も望む事を具現化した鎌を振るう、孤高の神様。あの壊れそうな顔を、あの崩れそうな身体を、まったく覚えていなかったというのか。
「忘れてた……そんな、俺は、忘れてた……?」
頭を抱える。これまで忘れていた事が湯水のように沸き出してきた。その溢れるような記憶が苦痛となって顔を歪める。胃の中が反転するような苦しみと、急激に乾いていく喉。それらに耐えたとしても、押し潰されるような後悔だけは耐えられそうになかった。
「大丈夫か? おいあんたら、一体何をしたんだ!」
尋常ではないハンスの様子に、オットーがフォルカーへ向かって怒鳴っていた。
「い、いや、まさかこんな……ハンス君、大丈夫か、なぁ! 大丈夫かッ?」
「だいじょうぶだよ。ここで潰れたら意味がないって、自分がいちばんわかってるもん」
微笑むアンナの手が、蹲るハンスの頭に触れる。
「だから、どうするべきか分かってるよね」
「……俺は……テースを助けたい……」
「ちがうよ」
「……救い、たい」
「うん」
――ようやく誰を救えばいいのかを思い出す。
「俺は救えなかった……あの時は失敗して、救われた。今度こそ、俺はテースを救うんだ……」
「そうだよ、テースおねえちゃんは救われたがってるんだから、おにいちゃんがいかないとダメ」
「なぁアンナ、どうして君はこんなことを……?」
「なんでだろ。わかっちゃうんだ」
全てを知る少女と同じような雰囲気をアンナは纏っている気がして、ハンスは声もなく驚いていた。
「……わかる、のか。そうか」
今のハンスならアンナの言いたいことが分かる気がした。望まなくとも人の心を察してしまうという特異とも呼べる才能の一種だ。
「おにいちゃん、それで、どうするの?」
今すぐテースの所に走っていきたい。
その衝動をぐっと飲み込んだハンスは、未だぽかんと口を開いているオットーへと向き直る。
「まずは、アンジェラのところへ行くのが……先だ」
どんなにテースを想っていても、それはハンスの一方的な気持ちだ。今まで正体不明でありながら、全てを捨ててまで動く理由となった原動力を、ハンスは初めて抑え込んでいた。
手の平が爪で破けそうなほど握りしめたとしても、友人は裏切れなかったのだ。
――今はもう夕焼け、程なくして夜がやってくる。