112.彼女の純粋さは殺され、残された
家に着くと、慣れた我が家の匂いに心が安らいでいく。
母は今日、どんな香水をつけているのだろう。きっと母は今日の騒ぎを知らず、相変わらず聖女となった娘を誇りに思っている。そう断言できる程、最近の彼女はとても幸せそうだった。
娘が聖女になって嬉しいというのなら、もし聖女ではなくなった場合、どれ程落胆することだろうか。きっとその反動は酷いだろう。
あまり母を落胆させたくはない。ただでさえ余り帰ってこられない父の事で悩んでいるのだ。アデナウアー家は名門でもあり、各地あらゆるところから客人が訪れる。こういう場合家主が応接するものだが、あいにくその家主は市長でもあり、仕事に追われる日々が続いて普段から家を空けている。その場合母が応対することとなっていた。
母も良いところの出だからそれなりに教養もあり、接待もほぼ完璧だ。埃一つすら落ちていないような素晴らしい屋敷を保っていられるのも彼女の素養の高さとプライドによるものだろう。
だが、やはり夫がいないことによる心労は当然溜まっている。決して顔にこそ出さないが、娘としてアンジェラはそれを感じ取っていた。
(お父様はどうしてるんだろう)
聖女と呼ばれるようになってから父に会っていない。
もしこんな自分を見たら、あの父は何て声を掛けるだろうか。神を産み出したと告白した、あの父は――
(……いけないわ。こんな気分じゃ)
首を振って階段を上がっていく。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
慌ただしくも、なおきちんと頭を下げる歳の近いメイドのテアを見て、アンジェラは彼女なら自分の些細な変化に気付いているかもしれないと思った。
「ねぇ、最近私って、変わった?」
「え、な、なんでしょう、お嬢様」
テアは混乱したように問い返してくる。
「……ううん、なんでもない」
くだらないことを聞いてしまったかもしれない。自分が変わったか変わってないか、そんなことをメイドに聞いてどうしろというのだ。
「お嬢様、あの、その、ホマーシュ様は」
「神父様?」
そわそわとするテアを不思議に思いつつ、アンジェラは返事をする。
「あら、そういえば一緒に戻ってきたと思ったのに……どこに行ったのかしら。神父様に何かご用なの?」
「ひゃ! い、いいいえ、なんでもないです!」
顔を真っ赤にして両手を振るテアを不審に思っていたアンジェラだが、すぐさまそれが何なのか気付き、なぜかアンジェラも顔を紅くした。
「あの、まさか、神父様を?」
確かに見た目でいうならあのホマーシュに惚れてしまうメイドがいてもおかしくはない。それにあの器量と気配り、時折見せる神父とは思えない見事な身振りは、テアのような上流に憧れる女性を魅了するに十分だった。
自分もハンスが居なければ危険だったかも、と今までのことを振り返ってみる。そうなってもおかしくない場面がいくつもあったような気がした。
「み、身分不相応だとぞ、存じておりますが! ええっと、忘れてくださいっ」
「わ、忘れると言われても……そうだ。ねぇちょっと部屋に来て」
「え、でも! こんなことでお嬢様の手を煩わせるわけには! こ、これは私の問題ですから、あの、お、お嬢様には――」
自分でも何を言っているのか分かっていないのだろう。
「ほら、部屋です。連れていきなさい」
命令を下してしまえば否が応でも彼女は従わざるを得ない。困った顔を隠せずにメイドはアンジェラを部屋まで連れていく。
「入って入って。ほらほら」
テアを背中から自分の部屋に押し込んで、逃がさないように扉の前に陣取る。なんだか友達と接しているようで段々と楽しくなってきた。
「あの、お嬢様?」
「神父様にそういう気持ちを抱いたのよね」
「え! ……えっと」
「大丈夫、怒る訳じゃないから。むしろ私はそういう人を応援したいのよ」
「あの、でもお嬢様……お嬢様と神父様は一緒にいますから、その……」
「え、私? あ、ああ、そういうこと、ね。違うわ。私と神父様はそういう関係じゃないの。だから安心していいわ。むしろ私は……そ、そう、そうよ、テアを応援したいから」
微笑むと、メイドの顔が途端に明るくなる。
「そんな、私の為に……ありがとうございます」
「ううん、あなたとは歳が近いから、主従の関係っていうよりも友達に近い感覚を持っているの。神父様は優しいから、もしその気になったらアタックしてみるのも手じゃないかしら」
「お、お嬢様がそういうのなら……」
テアもアンジェラが聖女と呼ばれ、願い事を神に届けてくれるのを知っていた。だが、一応メイドという身分で主人にお願いをするわけにもいかず、今までその秘めたる願いを押し込んでいたのだろう。かといってこのままでは一時の恋で終わり、誰にも気持ちを知られることもなく終わってしまう。その筈だった。
だが、今はアンジェラがそのことを知った。それがメイドに花のような笑顔を咲かせたのだ。アンジェラが祈ってくれさえすれば、自分の願い事は届く、と。
「お嬢様……ありがとうございます」
「ううん、私はもう友達だと思ってるわ。ねぇ、テア、今度から二人だけの時は名前で呼び合いましょう」
それはかつて、孤児院で働く少女に向けて言った言葉とまったく同じ意味だった。テースとはあれ以来会っていないが、出会えることならもう一度彼女と会話を楽しみたい。色々な場所に行ってみたい。それらの願いを上乗せるように、アンジェラは友達になろうと言っていた。
「そ、そんな! 畏れ多い!」
「ううん、そうしてくれないと私が嫌なのよ」
「あ、あの……その、考えさせて、ください」
顔を背けて、テアはそう呟いた。
(……ちょっとやり過ぎたかしら。嫌われた……訳ではないと思いたいけど……)
今テアに嫌われてしまうのはさすがに辛い。彼女とならいい友人関係を築けそうなのに、ここで関係が微妙になるのは嫌だった。
「……あの、お嬢様」
だが。
「……本当に、考えさせてください。私も、その、お嬢様とは……もっと親身になりたいんです」
うっすらとだが、テアは微笑んでくれた。
「……うん、うん。ありがとう」
それだけで今は十分だった。奥手なテアとの関係を考えるなら、これは好調ととらえていいだろう。
その時、廊下から――階段の下からテアを呼ぶ声が聞こえる。
「お嬢様、申し訳ありません」
「ええ、いってらっしゃい。また後でね」
「……はい」
微笑みを浮かべながらテアはお辞儀をして部屋を出て行く。
テアの足音が遠ざかっていくのを聞いてから椅子に座り、自分の心の卑しさに深い溜息を吐いた。
(……弱くなってる。多分)
オットーの言葉に浮かれて油断していたからか、偽物だと叫ばれた瞬間から言い知れぬ不安が心の中を支配していた。普段の彼女なら気にすることは気にするが、それでも前向きになっていたことだろう。だが、浮かれた心の隙を突かれた今、そんな前向きには考えられない。それ以上に父親とハンスが語っていた神の存在を知った今、自分が本当の聖女ではないことぐらい分かっている。もし神に願いが届くなら父のいう神で、それは到底人の願いを叶えられるような存在ではない。
つまり、自分は偽物なのだ。そう自覚すればするほど、人々を騙している今はとても心苦しい。たとえ騙していても皆が幸せになってくれるならばと願っていたが、もしそうならず、さらに彼らが真実を知ってしまえばどうなるだろう。裏切られた彼らは、どんな罵詈雑言を飛ばしてくるだろうか。
いくらオットーがハンスを連れてくるといってもそれがいつになるかわからない。だから彼女は身近に頼れる誰かが欲しかった。それが偶々テアだっただけである。ホマーシュ神父は確かに優しいが、時々底知れぬ何かを感じ取ってどうしても本音を言えなかった。
(私は弱音を吐きたいんだ)
だからこそのテア。自分のメイドなのである。
(そんなことの為に……最低だわ)
頭を軽く振る。
このままではオットーが自分を連れて来る前に事態が急変し恐ろしいことが起こるか、あるいは単に自分が心労で倒れるかのどちらかだ。心労ならまだいい。事態が最悪な展開へ転がっていった時、おそらくアデナウアー家そのものに影響を及ぼしかねない。今の自分はそれだけの知名度を得てしまっているのだ。
「……そういえばお母様はどこにいらっしゃるのかしら」
娘が帰ってきたときはよく出迎えに来る母が、今日はそうでもなかった。特別出掛ける予定があるという話も聞いておらず、なぜだか気になってアンジェラは部屋を出る。
(制服姿だけど……いいわよね)
淑女ならそれなりの身嗜みを、と教えられて来たが、今のアンジェラはその決まりに対してルーズになるほど疲れている。
とりあえず帰ってきたからには挨拶をしないと、とアンジェラは母の部屋へと向かう。
「……臭い? なんの臭い?」
どことなく嗅いだ事のある変な臭いが廊下を漂っていた。先程までは感じなかった臭い。自分が部屋でテアと話している間に誰かが変な材料でも仕入れて来たのだろうか。となると、今夜のご馳走はそれなりに考えないといけないと思いつつ、アンジェラは母の私室へと向かう。相変わらずきちんと手入れのされた廊下に、雇った者達の質の高さを思わせ、それに感謝をした。
この間、執事にもメイドにも出会っていない。
部屋の前に立つと、いよいよその臭いが強烈となってきた。こんこん、と二度扉を叩く。
「お母様、ただ今戻りました」
たった今というわけではないが、一応そう言ってみる。
「お母様?」
まったく返事が無かったので、アンジェラはそっと扉を開く。
「……お母様……?」
そうして。
アンジェラはその臭いを思い出す。
「……え?」
何が起こっているのか、どうしようもなく理解できなかった。
冗談だろうと、アンジェラは首を振った。目の前のことが現実で何度も起ころう筈がないと、必死に否定した。
(いや、いや……リュン……っ! リュンと同じ……! 違う、リュンじゃないっ……! 違う!)
その臭いは、リュンが引き取られた先で覚えたモノ。
それ以前に覚えかけたのはとある雑貨屋の店内。
「いや、いや……おかあ、さま……おかあさま……!」
どうしてだろうか。
胴体から首が離れているのに、ソレを母と認識出来たのは。
「あああ、あ、あ、あっ……!」
それ以上の声が上がらない。悲鳴すら上がらない。現実が悪夢のようで、しかし悪夢のような現実が目の前に存在し、彼女を確実に縛り上げた。
「おや、こんなところにいましたか」
そこへ、そんな声と共に一人の神父が入ってくる。
「どうしました、アンジェラさん?」
「しんぷ、さま……?」
どうして飄々と彼はこの場に現れたのだろう。
――まさかこの惨劇が見えていないというのか。
床一面を泉と化した朱き液体が見えないのか。首から先が無く、それでもソファに腰掛けている貴婦人の姿が見えないのか。テーブルの上に花瓶よろしく置かれている彼女の頭が目に入らないというのか。この血腥い全てを、この神父は何事も無かったかのようにして、自分に話しかけられるのか。――どうしました、と。
この神父は気でも狂っているのだろうか。
「……どうして、どうして? あなたは……?」
「どうして、と来ましたか」
笑いが堪えきれないように、神父は彼女の横にそれを投げ捨てた。
「……テア?」
物のように投げ捨てられたのはテアだった。
「どうしたの、テア……?」
「ああ、死にました」
あっさりと、神父がそう告げる。
「階下で出会ったこの僕に何か話しかけたいことがある様子でしたので、人目のつかないところに行ったのです。そうしたら死にました。一体何を伝えたかったんでしょうね。今となっては永遠に謎のままです」
アンジェラは無惨に打ち捨てられた彼女の頭を抱え上げる。先程友達になろうと語った少女はまだ暖かかったが、段々とその温もりを失っていった。
閉じた目と白くなっていく肌、そうして朱く染まる胸部分から滴る液体によって、アンジェラの手も染まる。
「……あっ……!」
思わずテアを離してしまい、メイドの頭が床を跳ねた。
「おや、お友達は大切に扱うべきですよ」
「いや……こんな……!」
「何を嫌がっているのです。全て貴女が望んだことでしょう。自分に何かと押しつける親、鬱陶しいメイド。そうそう、何かと娘に期待していた父親のトルベンさんですが――」
神父が懐から袋に入ったそれを、袋ごとアンジェラの目の前に投げ捨てる。
「それをご覧になればわかると思います」
「……」
震える手で、その袋を持ち上げる。
不思議な重量感のその袋の中を覗き、アンジェラは袋を投げ捨てた。
「その手でこのケープ市の行政を担っていたわけですが、今となってはもう無理でしょう」
「……な、に? これ……?」
「だから」
呆れたように、神父は笑う。そうして子供に言って聞かせるように、ゆっくりと語った。
「トルベン・アデナウアーの右手ですよ」
「……あっ……」
何度も何度も涙を流して止まらない目と頭を振った。目の前の男は、今、一体何だと抜かしたのか。
「鬱陶しい父親もこれでいなくなりました。さぁ、貴女は晴れて自由の身です」
「じ、ゆう……? いや、そんな、お父様……お母様は……? いったいどこにいるの……? ねぇ、テアは?」
「屋敷の者は全員もうおりませんよ。何しろ、貴女は全てを鬱陶しいと思っていたのですから。違いますか? メイドに冷たい態度を取ったのも、父と母から多少距離を置いていたのも、アデナウアー家という枷が貴女を縛っていたからです。それから解放され、自分が望んでいたことをやりたかった」
「ち、ちが、そんなこと……!」
本当に望んでいなかった? とどこかから語りかけてくる。自分が有名になったからこそアデナウアー家に迷惑がかかる、だからなんとか必死に聖女を演じるべきだと考えたが、裏反せばアデナウアー家が重しとなって彼女を縛っていたことにならないか。
それは神父の言うアデナウアー家が枷になっていたのと、何が違う。まさにその通りではないか――
「わ、わたしは、そんなことない……みんなの望みを叶えられるだけ叶えたいから……聖女に……」
聖女になったのだから、そんなこと願ってなどいない。だから神父の言葉を否定しようとしたが、それすら神父は笑みを浮かべたまま潰してくる。
「――聖女? それはあくまでアデナウアー家から離れたいと願う貴女の我が儘でしょう。聖女となればアデナウアーという名よりも貴女個人の存在が強くなる。だから聖女になった。アデナウアー家の名は重く、きっと貴女には辛いことだったのでしょう。それを神が叶えてくださっただけです」
「いや、違ッ……ちがうっ……!」
「リュンと、引き取った夫婦の命を奪ったのは、貴女の望みだ。アデナウアー夫妻を殺したのはその願いだ。いや、そもそもアデナウアー家を潰そうとしたからこそ、今の事態があります。おお、なんと恐ろしい。神はかくも恐ろしく、そして偉大なのです」
「いやぁ! やめてぇ!」
頭を抱えてアンジェラは蹲る。しかしいくら視界を隠そうと下を向いても、そのカーペットは生々しい赤色の彩色が施されていた。――一体誰の血だろうか。
「全てを滅ぼしたのは他でもない。聖女の貴女だ」
凜として突き付けられたその事実に、アンジェラは目を見開く。朱いカーペットの染み一つ一つが数えられるぐらい、視界は良好だった。その染みにぽたりと透明な液体がこぼれ落ちて、じっくりと広がっていく。それでも赤が払拭されることはない。
「僕はしばらく外に出ていましょう。ああ、それともうすぐ大量のお客様が大挙して押し寄せると思いますが、もちろん当主とその妻が亡き今、アデナウアー家の当主は貴女ということになりますので、対応できますね」
――アデナウアー家を潰しても、その名はどうしよもなく残ると、神父は告げたようなものだ。
「それでは、ごきげんよう」
神父は笑みを絶やさず、その場を去った。
首のない母、物言わぬメイド――取り残されたアンジェラは、もはや生気を失った両目のまま、神父が部屋を出て行くところを見送ったのだった。