109.純粋じゃない聖女5
アンジェラの噂は当然ながら父親のトルベンにも伝わっていた。
仕事が終わり、すぐに帰ろうとした彼に秘書が声を掛けて足を止めさせる。まだ二十代半ばという若さの女性だが、それなりに優秀で、トルベン自身も彼女を気に入っている。主に聖職ではない女性が地位を掴むことが難しいこの国でも、彼女がもし然るべき場に立ったときには応援ぐらいしてもいいだろうと、密かにトルベンはそう考えていた。あまり眺めていると妻が恐ろしいので、こういう職場で彼女と会う場合は意識的に目を合わせないようにしていた。とはいえ一日中一度もその顔を見ないというわけにもいかないので、用事がある場合のみ目を向けるのだが。
横に細い眼鏡が知的に見えさせているのかもしれない。
そんなことを考えていると、彼女はこちらを見透かしたように一度目を閉じてから開いた。それだけでトルベンの中にあるスイッチが切り替わり、今この場にいるケープ市市長という顔が浮かび上がってくる。
「市長、ご息女が大変だというのはお察しします」
「だが、仕事は仕事だ。しっかりやってくれ。だろう。分かっているさ。ただちょっと最近は色々な事が重なりすぎてな」
肩を回すと嫌味なぐらい音が鳴る。実際、ここ数日であらゆる事が起こりすぎた。アンジェラの件もそうだが、娘が聖女になるきっかけとそれを手引きしたのはおそらくホマーシュという神父だ。そしてホマーシュは確実に自分を狙っている。それだけでも十分大問題だというのに、ここへ来てハンス・ハルトヴィッツが自分のところへやってきた。自分への復讐だと思いあの時は覚悟を決めたが、彼はただアンジェラを家まで送っただけだった。その後の彼との会話がアンジェラに聞かれたのは非常によろしくない事態ではあったが。
(……事態はより悪くなっている)
ハンス、ホマーシュといった連中が今後どう動くか分からず、市長としての立場もあり事は大きく出来ない。
娘と一度でも会うことができるならば、今のような馬鹿げた聖女とやらも止められるだろう。多少立場が悪くなろうとも娘が聖女と呼ばれて崇められているのは親として複雑な気分だ。本物の神を知っている人間からすれば聖女など笑い話にもならない――だからこそ娘が聖女などと呼ばれているのは我慢がならないのだ。
「お疲れですね。市長」
「ああ……ところでコーヒーをいただけないか。疲れを癒すには熱いコーヒーでも飲むのがいい」
「娘さんが心配ですか」
「……子を心配しない親などいないさ。特に一人娘だ。出来の悪い父親だが、せめて心配ぐらいはさせてくれるだろうさ」
今頃アンジェラは自分の事を少しでも考えてくれているだろうか。とはいえあの優しい娘のことだ。家族を心配してくれているのはよく分かる。
「あの子は優しすぎる。父から言うのも何だが、もう少し突き放す強さがあってもいい。はは、しっかりした娘だっていうのは知っているつもりだが、どうしても子にはこうあって欲しいと願ってしまうものだな」
「それが父親というものです」
くすりと秘書が笑う。
「アンジェラさんを、愛してらっしゃいますか」
「……ああ、こんな親に資格があるかどうかは難しいところだが、私は娘を愛し――」
「そうですか。でも言わせません」
すとん、と胸に何かが突き刺さる。
「……あ?」
自分の胸を見下ろした。細長い何かが突き刺さっている。それが彼女の袖に隠されていた料理用ナイフだと、ついに彼は知ることなどなかったが。
「最後に伝言を聞いてください。ああ、即死というわけではありませんから、まだたっぷりと話を聞けると思いますわ。――Zweiからの伝言です」
「な……つぅっ……」
ゼヒュー、と呼吸が乱れる。
大声を出して助けを呼ぼうにも、声が出なかった。その間にも身体中から力が抜けていく。視界が段々と色を無くしていく。世界が暗闇に包まれていく。
「あなたが娘を愛しているのは知っている。だから、その娘にあなたの酷たらしい死をじっくりと話して聞かせ、それを全てあなたの娘の所為にしようと思う、とのことです。意味、わかりますか?」
トルベンの目が開かれる。
(なんてことを……彼は、なんていうことを……!)
羊の薄皮を被っていた悪魔が、こうも唐突に動き始めた。何の前触れもなく本性を剥き出してきたのだ。
(いや、違う……違う! 最初から動いていた! なのに私は呑気に奴を放置していた……! だから殺される……こんな、簡単に……死ぬ……!)
死は多くの人間が望んでいることだと、トルベンは知っていた。死を望んだからこそ彼女は降臨したのだから。
(これが、望むこと……?)
だが、死が訪れれば人間は終わる。
(娘が……あの男に陵辱されるのに……何も出来ないというのか……ッ!)
とうとう視界の半分が暗闇に包まれる。何も感じはしなかったが、おそらく床は血の池と化しているのだろう。
(なんてことだ。我々は大きな勘違いをしていた。最期になって初めて知った。人は、死を――)
その最期に力を振り絞って手を伸ばす。目を開く。かろうじて見えた視界の先、いつものように笑みを浮かべる神父が自分を見下ろしている。
まさに悪魔がそこに立っていた。
その黒き神父はとても大きな剣を握っている。断頭台の刃のように鈍い光を反射する剣はまさにギロチンにも似た重量感がある。
その剣が最期の希望を掴もうと伸ばした手を容易く斬り払う。遠くに跳ねた自分の手と手首の切り口からは痛みを感じなかった。
(ああ……誰でもいい。誰か……!)
助からないから、トルベンは祈る。
(誰か、アンジェラを……! あの娘を――)
そして、返す刀が彼の脳天を砕く。
(最期の願いだ、娘を助けてくれ――)