108.純粋じゃない聖女4
ハンスは神官学校の前まで来て、くるりと引き返す。
あの紙をアンドレアフに渡したのはオットー・エアハルトだ。彼は自分を探している。友人だから探しているのか、それとも別件なのかは判断つかないが。
(でも)
それでも今の自分のやることを中断してまで会う価値があるとは思えなかった。オットーは大切な友人だが、今は友人と過去を懐かしんでいる場合ではないのだ。
(だから、俺は――)
全てをかなぐり捨ててまで、やらなければならないことがある。そう心が叫ぶ。一部だけ失われた記憶の代わりに心が叫んでいるのだ。
だからここまで来たのは気の迷いだと結論づけ、さっさと去ろうとした時だった。
――ハンスはここへ訪れたことを後悔した。
そもそもアンドレアフに会うことすらかなりの危険を伴うことだったのだ。何かしらの事件に対し、アンドレアフ以下の危機意識しか持たない一般の生徒と会って話をするなんていうのは愚の骨頂でしかない。
「……まさか、ハンス? ハンス・ハルトヴィッツ?」
フルネームを呼ばれ、振り返る。振り返れば、長身の、神官学校指定の制服を着た男子生徒が息を荒くしながらハンスを睨んでいた。
「オットー……」
アンドレアフを使って自分を呼んだ少年が、そこにいた。
「やっと……か。お前は……」
息を整えながら、オットーは呟く。
「……。どうして俺を捜してたんだ?」
オットーは友人だ。だからといって心を許していいわけではない。相手の目的を知らずにここまできたのは軽率だったが、それでもハンスは今から打てる手は打つべきだと判断する。
「俺を捜した理由はなんだ?」
もし本当にオットーに下心があってこちらに近寄ってきたのなら、正直に答える筈はない。それでもいいと思いながら、ハンスは相手の反応を窺う。
「なぁ、ハンス」
「なんだ?」
「お前、どこにいたんだ?」
「……」
「答えられないようなこと、してたのか?」
ハンスは眉を潜めた。何か様子がおかしい。
「どうして俺達の……アンジェラの前から姿を消したんだよ。いや、そうじゃない。どうして弟妹まで施設に預けたんだ? お前何やってるんだ? 言えよ、ハンス」
「……それは言えない」
「言えよ。お前は俺達に説明する義務があるんだ。そうじゃなかったら誓え。神の御前で告白しろ。神官学校の生徒として、それは出来ないとは言わせない」
彼は心底から神を信じている生徒の一人だ。神を愚弄すればおそらく本気で怒ることだろう。
それを知った上で、ハンスは返事をする。
「いや、無理だ。俺は神官学校の説く神はいないと思っている。おそらく人間が本や知識だけで語る神は全て信じないだろうな。だから、誓えないし語れない」
「お前っ……!」
早足で近寄ってきて、胸ぐらを掴まれる。
「いい加減にしろよ。アンジェラには会ったのか! アンジェラがお前の事をどう想ってるか知ってるんだろ! それを全て蔑ろにしてお前は隠れた、消えた! 行方不明になったんだ!」
「知っている。だけど、理由は言えない」
そう断言する。
すると、いきなり左頬に強烈な痛みが走った。殴られた衝撃でハンスは地面に尻餅をついた。
「一発じゃ足りないけど……! けど、我慢してやる。だからもう逃がさない。ハンス、お前は力ずくでもアンジェラの前に連れて行くからな」
「アンジェラ……」
頬をさすりながらその名を呟く。
「アンジェラは……聖女になったんだってな」
「ああ、だから今精神的に追い詰められてるんだ。悔しいけどな、アンジェラを助けてやれるのはお前しかいないんだよ。この意味わかるだろ、なぁ?」
今頃アンジェラは自分が聖女だと言われて何を思っているだろうか。
あの夜、ハンスと彼女の父トルベンの会話を聞いてしまったアンジェラは、いくら聖女と言われてもそれは特別神聖なものではないことを知っているだろう。だがそれでも聖女ともてはやされ、特別視されている。
(……わかっている。誰だ、アンジェラを誑かした奴は……必ず裏に誰かがいる)
アンジェラの性格から考えれば、下手をすれば神を語るような目立つことを好んでするとは考えにくい。おそらく裏で何かしら悪巧みをした人間がいるはずなのだ。問題はその目的だ。もしかしたらアンジェラと親しかったハンスを誘き寄せる餌にしてもしようとしているのかもしれない。――奴らならそのぐらいやりかねないと、ハンスはあの組織の事を思い出す。彼らはケープ市でも相当な権力を持っているのだ。
「彼女を元の生活に戻したい、っていうんだろ?」
「ああ、それもある。聖女なんてアンジェラは好んでやっていない。むしろ辛いだろうな。会ってみて、心からそう思ったよ。あれ以上、彼女の辛そうな顔は見ていられない」
「だから俺なのか?」
「だからお前なんだよ。ハンス、お前ならなんとかやれるだろう。彼女を救ってやれるだろ?」
「そうか、俺なら――」
自嘲気味に笑ってから、ハンスは強く断言する。
「俺はきっと、アンジェラを救えない」
救えないのだ。
ふと記憶が途切れた日があった。
目が覚めると、前日の晩や、あるいは数日間の記憶の部分部分がすっぽりと失われ穴となっていた。その時からハンスの心の中には別の何かが産まれ、その闇とも呼べる暗い感情がハンスに語ってくる。――お前はもう、まともには生きられない。お前は違う、お前は違うのだ、と。
その声が事実と化しているかどうかはわからないが、その時より夜になると突然苦しくなり、身体に異物が入り込んでくる苦しさがあった。その苦しさは長く続かずに、終わった後は身体が軽くなるような感覚が訪れる。その不思議な軽さのおかげか霧に包まれた夜でも何故か視界が通った。
そしてもう一つ。
彼は決定的に『人は救えない』という意識が芽生えてしまったのだ。しかし誰かを救える気がして、その誰かがわからない。
異常な体質、心に植え付けられたよく分からない意識。
しかしそれが彼の行動する理由になっているともいえた。このままではいずれ自分は自滅する。それだけではなく、記憶を失ってもなお『あの人を救いたい』という気持ちだけは強く残っているのだ。あの人がアンジェラならきっと否応なくハンスは動いていたことだろう。
――悲しいことに、あの人はアンジェラではなかった。
「俺は……誰も救えないんだ」
アンジェラを手助けすることぐらいなら可能だろうが、彼の心は頻りにハンスへ向かって叫ぶのだ。救うべき者はあの人だ、と。ボンヤリと思い浮かべる姿は金色の長い髪をした白き少女。顔だけがどうしてもはっきりとしない。しかしその少女はとても大切な人だという想いは強く残っている。
「勝手に思いこむなよ! アンジェラはお前に救われたがってんだ! でもあいつはさ、決してそんなこと言わないし顔にも出さない。強いんだよ。けど、その分弱いんだ。わかるだろ、これが!」
オットーの叫びはハンスを責める。当然そんなことは百も承知だ。だからこそ辛かった。
「お前の事情は知らない。それを聞いても何か出来る訳じゃないんだろ。だったら俺からは聞かない。だけど、それを承知で俺は頼んでるんだ。アンジェラを救ってくれ、ハンス!」
救えないと断言した男にまだ頼むというのか、とハンスはむしろ愕然とした。心にどうしようもなく刻まれたモノを払拭してまで彼女を助けろというのか。刻まれた部分は二度と元には戻らないというのにだ。
「……俺は、俺は……」
顔を歪ませて、ハンスは彼から目を逸らした。真っ正面から見るには、オットーは真っ直ぐすぎる。
本当にアンジェラを救いたい、助けたいと願う彼に、なんて応えてやればいいのだろうか。
「……ならいい、聖女にさせられたアンジェラを、俺は一人でも助ける」
オットーの言葉に、ハンスは軽く驚く。
「誰かが……彼女をああしたって、気付いてたのか?」
「アンジェラの性格を考えたらそれ以外ないだろう。誰だか分からないけど……いや、もしかしてあの神父様が? とにかく、俺一人だけでもやる。いいな」
「駄目だ、それも危険すぎる。彼女を中心とした集団を敵に回したら、下手するとこの街にいられない。それはオットー、君だけじゃなくてアンジェラにも及ぶ問題だ。聖女を名乗っていた彼女が聖女をやめたら、その反発はどうなるかわからない」
妄信的にアンジェラを聖女と崇めている人達から彼女を奪ってしまえば、彼らは途端暴徒に変貌する可能性もある。奪った人間はもとより、自分の心の拠り所となっていたアンジェラにも裏切られた気持ちをぶつける可能性がある。
聖女と崇めていた彼女に対してそこまでやるのか、とオットーは尋ねてくる。ハンスは首を一度だけ横に振り、「ケープ市は異常なんだ。三年前のシャングリラ教会の件を思い出してくれ」と呟いた。かつてここがケープ町だった時代に建てられたシンボル的教会を神教官府が取り壊そうとした時、町の人間と神教官府の間で何十人も怪我人を出す抗争が繰り広げられた。今でこそ神教官府に逆らえば天に召されることはないと脅されているが、その潜在的な神に対する信仰心は狂気と同類だということを神教官府側に思い知らせ、シャングリラ教会を取り潰せなくなった。
「だから、彼女を助けるというのは、ケープ市を捨てるということだ」
「なんてことだ……くそっ、そうなってしまうのかっ!」
ここで生まれ育ったオットーにケープ市を捨てろというのは酷だった。
(なら、俺は……?)
ハンスはケープ市で生まれ育ったわけではない。
違うところで生まれ、今の両親に引き取られた。――それまでの間に様々な事があったのだが。
「もし助けたとしたら、アンジェラを匿うことぐらいなら……出来るかもしれない」
ぽつりと、ハンス自身も驚きを隠せないことを口から漏らしていた。
「本当か、ハンス!」
「俺自身が隠れてる訳だから……ほとぼりが冷めるまで。何年かかるかわからない。やっぱりこのケープ市を出て行かなくちゃならないかもしれない。二度とここには住めないかもしれない。動かなければ少なくとも彼女はここで生きていける。それらのリスクを全部背負ってでも、助けたいのか?」
「……心は救われる。救いたい。そしてどうするか最終的に決めるのはアンジェラだけど、俺は……救えるなら、そうしたい」
「ああ、そうか……」
オットーが信じているのは本当の神。彼はその純粋な心を持っているからこそ、アンジェラという聖女を見ずに一人の友人を見抜くことができたのだ。本当の信者とはオットーのことを言うのだろう。彼ならば、余程のことが無い限り誰かを憎む、恨むことはせず、おそらく救いの手を差し伸べようとする。
その事に今初めて気付いたハンスは、オットーの為に手伝えるだろうかと思案した。アンジェラを救える手は持っていないのならば、救おうとしている人間を手助けすることぐらいなら――
(なら、どうやって助けるか、だ。ことそういうのに関してオットーは鈍いだろうな)
アンジェラの屋敷から学校までの登校路、さらに彼女の一日の行動パターンを読み切って、その隙を突けばおそらく会うことぐらいは可能だろう。もしそれが不可能になったとしても何かしら手は考えられる。
(後は、この事態を生み出した奴……)
一体誰がこんなことをしようとしたのか。ケープ市で聖女などという存在を創り上げて、何を企んでいるのだろうか。救うにしても、その裏で糸を引く人物の正体ぐらいは明かしておきたい。
――そもそも聖女ではなく、ここには神様しかいないのに――
ちくりと脳を刺す痛み。
(……まただ。何なんだ一体)
右手でこめかみを押しつつ、ハンスはオットーに向き直った。
オットーは少ない可能性に希望を見出している、そんな表情だった。