106.純粋じゃない聖女2
アンジェラが聖女になろうと決意した瞬間から、確かに彼女の身の回りがめまぐるしく代わり始めた。
ホマーシュが適度に噂でも流しているのだろうか、それとも自然と噂が流れていったのだろうか、アンジェラがある程度の願い事なら神へと届けられるという話は瞬く間にケープ市を駆け抜けていった。アンジェラは元々ケープ市でも有名人であるが、それでも神に祈りが届き願い事を叶えるなんていう話を信じなかった人々は、いざ学校に向かうアンジェラを捕まえて試しとばかりに願い事を口にしてみると、全部ではないが、数割ほどは願い事が叶うという現象が起き、あっという間に人気者となったのだ。
このケープ市の特異性は首都にある本部といわれる場所から派遣され、そして建設された神教官府の連中が異様に幅を利かせている。いざとなれば本部に刃向かえる程の勢力を手に入れていることで、その力を誇示するかのように神教官府をまとめているアウグスト・メルゲンブルグと称する人間は人々が起きる時間になると神官達の行列を作り、ケープ大通りを闊歩する。ケープ大通りに面した人々は彼らが通り過ぎるまで頭を下げているのだ。もし逆らえば神の下へ召されることはないだろう、というのが彼らの常套手段であり、十分威力を発揮する言葉だった。
だが、ここでアンジェラの登場は神教官府の体制に僅かながらも罅を入れるに足る出来事だった。
今まで神に最も近い場所といわれた神教官府棟に住まう彼らに媚びることでなんとか神へ言葉を届けてもらおうと必死だった人々にとって、事実、神に願いが届く少女がケープ市から現れたのだ。神教官府の言うことを聞かなければ神の下へ召されないというのは、神へ言葉が届かないことという意味であり、神を信じて止まない人々にとって恐ろしいことだった。
だがアンジェラは言葉を神へ届ける。
彼女があの神教官府立神官学校の生徒であり、そして信者としても有名で、何より才能と美貌が人々を惹き付けた。例え願いはたったの数割で完全ではないとはいえ、神教官府の見えない神より、今目の前にある奇跡に縋りたくなる気持ちを人々は抑えられなかった。
何よりケープ市民の中には神教官府への不満もあった。
「でも私は別に、みんなの聖女になろうと思ったわけじゃないの。どうしてこうなったの……」
今日もケープ大通りを歩きながら、アンジェラは小さく呟く。彼女の周りには相変わらず人だかりが出来ていた。聖女になろうと決めたのは自分自身なので、アンジェラは人々の声が応えるべく、笑みを返す。
「アンジェラ様! こっちを向いてください!」
「アンジェラ様、神に声は届きましたか?」
「私にも何か、祈らせてください」
「アンジェラ様!」
一体誰が何を喋っているのか。
最初は数人集まるだけだった人も、両の手では足りなくなる頃に、誰が誰だか分からなくなっていった。今やもう数えるのもばからしく、誰が何を喋っているのかもわからない。
まるで人形が大挙して取り囲んでいるような感覚。
彼らはアンジェラを取り囲み、同じ事を毎日毎日訊ねてくるのだ。――神に声は届きましたか。
(神に声が届いているかどうかなんて、わからないわ……私はそんなのじゃないもの)
声が届いたかどうかはあくまで結果論でしかない。
些細な願いでも自分の願いが叶えば彼らは安心した。自分の声が神へ届くことを知ったからだ。
「ああ、これで死後も安心できます」
誰かがそう言って、安堵した。
(――人形が死を望むの?)
ふとそんなことを思い、自分が何を考えたのかを知って背筋を凍らせた。
(けど、死後を安心するなんて……そんな、それは正しいことなの? 神の下へ召されるのは素晴らしいことだけど、でも、私達の生は……)
この場にはその問いに答えてくれる神父も、友達もいない。神父は最近よく姿を消している。自分が居なくとも十分聖女の役目を果たすと確信しているからだろうか。
(ハンス……今の私の姿、ハンスにはどう見えてるのかしら。ハンスなら、私の問いに答えてくれるのかしら。テースも……答えてくれるかな)
周囲の人々が人形にしか見えない自分より、あの純白の少女こそ、本当の聖女なのではないかという気がした。あの少女の清楚さと美しさ、そして何より全てを見透かしたような青い瞳をしたあのテースという少女こそ、本当の聖女ではないのか。
(でも、テースは否定するだろうね)
あの少女は自ら聖女になろうなんて絶対に口にしないだろう。そんなこと思いもしないに違いない。
彼女と自分の差はそこにあるのだろうか。
「聖女様!」
はっとして顔を上げる。
「いやー、聖女様。ちょっとお話伺いたいんですが~、今いいですかね?」
太った初老の男が笑いを浮かべながらそんなことを言ってくる。
「……いえ、ありません。記者の方、ですか?」
「ええ、ええ、よくご存知で。……といいますか、一度お会いしとりますね」
「あ、そういえば……そうだ、確か、アンドレアフさん……でしたよね?」
ハンスが失踪する前、突然学校に来なくなった彼を心配してオットーと一緒に家を訪ねようとした時だったか。その時に出会った記者だった。
「そうですそうです。名前を覚えてもらって光栄だなぁ。それでですねぇ、ちょっと記事を書かせていただけりゃ幸いだなぁって思ってるんですよ」
「あ、あの、それはお断りします」
「ありゃまぁ、聖女様はインタビューにも応えないと?」
「私はそんなつもりないんです。だから、インタビューには応えません。それに、私はそんな立派な人間じゃない。だから駄目です」
「こいつは困った。けど、こっちもお仕事だし、なんとかならんかね」
「だから、お断りします……!」
「あんた何やってんだ!」
記者と彼女の間に割ってはいる影があった。
その影に見覚えがあったアンジェラは目を見開く。どうして彼がここにいるのだろうと。
「アンジェラ、ちょっとこっちに来いよ」
「え、ちょ……オットー? どうしてここに?」
「いいから!」
アンジェラの手を掴んだのは、彼女とハンスの友人であるオットーだった。険しい顔をしながら人々を押し分けていく力強い少年に引っ張られ、アンジェラは言葉もなくついて行く。長身の神官学校生徒が険しい顔をしながら進んでいく様を止められる者はいなかった。
「ここなら人がいないだろ」
簡単な裏道まで連れてこられたところで、ようやく右手を解放された。結構力強く握られたのか、オットーの手の痕がうっすらと赤く残っている。
「あ、すまないな。ちょっと強かったか」
「ううん、いいの。……久しぶりね、オットー」
本当に久しぶりの友人の姿に、アンジェラはようやく心から笑みを浮かべることができた。それは弱々しい笑みだったけど、心安らぐのが実感できる、そんな笑みだった。
「そうだな。久しぶりだ。そしてビックリしたよ。まさかアンジェラが聖女だなんて呼ばれていることに」
「……うん、私も驚いてる」
「何があったんだ? 良かったら……訳を話してくれないか」
その訳を思い出すと、あの穏やかに死んでいったリュンの顔と、彼らを引き取った夫婦の凄惨な光景が蘇り、アンジェラはオットーから顔を背けた。
まさかこんなことを彼に言うわけにはいかない。
オットーは優しい。仮に真実を告げたところで、彼は自分を責めないかもしれない。だが、それはオットーにも何かを背負わせてしまうことになるだろう。いくら背負わせるつもりはなくとも、彼もまた敬虔な信者である以上に心優しき友人で、自分の苦しみをなんとか代わりに背負おうとしてしまうだろう。
だからアンジェラは彼に何も言えなかった。
「ごめんなさい。何にもないの。私が望んで聖女になったのよ」
「……嘘だろ、それは嘘だ。俺は……いや、俺とハンスはアンジェラのこと良く知ってるんだぜ。何を言うと笑うのか、とか、何が好きで嫌いかってのもさ。だから、本当の顔と嘘の顔を見抜くことぐらいは、簡単なんだ。本当は聖女なんてやりたくないんだろ。なぁ、何があったんだ?」
「ううん、本当に何も無いから」
そうして嘘で固めていく。
愚かな願いを叶えた自分は、さらに友人をも騙そうとしている。純粋だった心が段々と濁っていく。
「……俺には言えないのか」
項垂れるように視線を下げたオットーは、拳を強く握ってから、再び顔を
上げる。
「ハンスなら、言えるか?」
「えっ……な、なんでハンスの名前が……出てくるの?」
「やっぱりな。……ハンスなんだよな、アンジェラは」
どことなく諦めにも似た声を、少年は漏らす。
「本当は関係を壊したくなかったから、言うつもりはなかったんだ。アンジェラが誰を好きか、分かってたから」
「な、何を言い出すの、いきなり」
オットーには悟られていないと思っていた気持ちだったが、本当はあっさりと知られていた。アンジェラの顔に紅が差す。
「アンジェラ、だからハンスを頼れよ。俺があいつを捕まえてお前の前に連れてくるから。ハンスはきっと、お前を支えてくれる。あんまり品性良いって奴じゃなかったけどさ」
「そんな、だめよ……だめ……ハンスは……駄目!」
今の状態でハンスが目の前に現れたら、今度こそ心が挫けてしまうだろう。数日前に見せた涙の事を思い出して、アンジェラは必死に抵抗する。ハンスに会いたい、けど会ったら何か大切なものが壊れてしまう。
「俺、お前のことが好きなんだよ」
連れてくるなと言うとしたアンジェラが、固まる。
「だからさ……聖女って呼ばれて苦しそうな姿を見てさ……さっき、思わず飛び出しちまった。聖女と呼ばれてもアンジェラが頑張ってるなら、離れて見守るだけで良かったんだ。けど、今は駄目だ。あんなに苦しそうなアンジェラを見過ごすなんて、無理だろ。そんでさ、アンジェラが好きなのはハンスだから、俺はアンジェラの為にあいつを連れてくる」
今までオットーが自分のことをそう想っていただなんて、想像したこともなかった。彼はただ気の良い友人というだけだった。いざとなれば助けてもくれたし、また自分もオットーが困っていたらそうするつもりだったが、そこに恋愛感情はまったく別の問題であった。
彼は自分に好意を抱いていた。だから助けてくれたのだろうか。
思い返せば何度かそういう場面はあった。オットーはアンジェラへの想いをひた隠しにしつつ、彼女がより幸せになることを願っていたのだ。
「オットー……ごめんなさい。私は――」
そんな彼の気持ちには応えられない。オットーによって言い当てられてしまった自分の気持ちに気付いた今、そのオットーに気持ちを傾けられなかったのだ。
「謝るなって。俺は、アンジェラの幸せを祈りたいんだ。聖女じゃなくてさ、アンジェラ自身のだよ」
「私は……オットー、その」
「だから、また三人で一緒に笑おうぜ。俺はその方がいいんだよ」
結局、アンジェラが何も言わずとも、オットーという心優しき少年は彼女の苦労を背負おうとしてしまう。
彼の優しい言葉通りただ助けたいのだとしても、それは何かしら少年にも背負わせることになるのだ。彼はその苦労を背負ったほうがいいと言うのだ。
「……オットー、私は、オットーを頼ってもいいの? こんな私が人に頼ってもいいの? ねぇ?」
「今頼らないで、いつ頼るんだよ」
爽快に笑う彼に幾分救われた気持ちになる。
「だから、任せてくれよ。これでも結構みんなに頼られるんだぜ」
ああ、彼はどんなに心が広いのだろう。
今のオットーになら、頼ってもいい気がした。
今の彼に頼らなければならないような気になってくる。
――何を頼るのか、はっきりとしないけど。
「それじゃ、また後で。今度来るときはあいつと一緒だ」
――またハンスの顔が見られるのだろうか。
そう思うだけで、アンジェラは胸が熱くなった。
「おや、こんなところにいたんですね」
二人の間にあった和やかで優しい時間は、しかしその声で断ち切られた。
ホマーシュがいつの間にか二人を見つけ、アンジェラの横に立っていたのだ。まるで気配を感じさせないでそこに立つ彼に、アンジェラはぞっとした。
「アンジェラさん、皆さんが騒いでおりましたよ。聖女様が連れ去られたとね。そちらの方はご友人ですか?」
「あ、はい。友人のオットーと言います」
「ああ、あのオットー君ですね。噂はかねがね」
「あ、ありがとうございます!」
神官から褒められることは、オットーにとって名誉になる。彼は突然現れた神父に驚いたものの、少しだけ顔を綻ばせていた。
「さて、それでは戻りましょうか」
「あの、神父様、もう少し彼と会話をしても――」
「いえ、申し訳ありませんが皆さんが心配していますよ」
「……そう、ですか」
ホマーシュが現れた瞬間に、もう戻れないと悟ってしまった。彼はなんとしても自分をあの人形達の場へと引きずり戻すだろう。
(だって神父様は聖女の私を通じて神を信じているから。神父様にとってきっとすごく重要なことなんだよ……ね)
「アンジェラ、きっと連れてくるから。俺、ハンスを連れてくるから!」
連れていかれるアンジェラの背中を見たオットーは、思わずそう声を張り上げていた。
「……」
ホマーシュが振り返る。
その目がオットーを射貫いた。
「……なっ、なんですか……?」
「いえ、何でもありません。それではオットー君、君も気をつけて帰りなさい」
笑みを浮かべながら、ホマーシュはそう言い残し、アンジェラの背中を押して人混みの中へと消えていった。
「なんだ……あいつ……?」
オットーはどうしてあんな目を向けられたのか、気付かなかった。
自分が口に出してしまったその名前の意味を、知る由はなかった。