105.純粋じゃない聖女1
純粋な王様は言いました。
この世界がもっと美しければ、争い事はなくなると。
純粋な王様は嘆きました。
家臣は皆、嘘つきだと。
純粋な王様は哀れみました。
国民の純粋な姿が見えないと。
それでも王様は純粋が故に人々から好かれ、慕われておりました。
それは、みんなから見た王様は。
とても純粋だったからです。
神官学校の制服に身を包み、アンジェラは自分の部屋を出た。扉を閉める際の軋むような音だけで心が痛む。
まだ霧も完全に晴れない早朝、あの神父はすでにこの屋敷まで訪ねてきていたのだ。薄くなれば歩けなくもない霧の中とはいえ、よくここまで来られたものですと、メイドのテアが感心していたのは覚えている。
階段を下りて玄関へと向かう。
彼はアンジェラを見かけると頭を下げてから挨拶をしてきたので、アンジェラも挨拶を返した。
相変わらず神父ホマーシュの顔には笑顔が貼り付けられていた。
「それではいきましょうか。それとも朝食がまだでしょうか。何かしら胃に
食べ物を入れたほうがいいですよ。これから結構歩くわけですから」
「はい、大丈夫です」
食べ物ならなんとか胃の中に押し込めた。彼の言うとおり、これからケープ市を歩き回り人の話を聞き回るわけで、かなりの体力を使うのだ。
ホマーシュという神父が自分を聖女に仕立て上げると提案してきた翌日から、彼女の生活は見事なまでに一変することとなった。まず全ての願いが神に通じるという奇跡を起こせる事が聖女の第一条件だと告げた後に、彼は
「しかし祈りはあくまで必要最低限、むしろ誰でも出来そうな些細な事がいい」という制限を設けてきた。
自分の祈りが本当に届くのならば、どうしてそんな制限が必要なのだろうかと問い掛けたところ、彼は「過ぎたる力は必ずや人の心を醜くさせるからです」とこともなげに言ってのけた。彼は神父であるからこそ人の心を見抜き、そして神父でありながら人の心というものを信じていないのだろう。アンジェラはそれがとても悲しく思えたのだが、人の心が変わってしまう事実を知っているので反論などできなかった。
人の心を信じない聖女は、果たして本当に聖女足る者なのだろうか。
――君は聖女という者を知っているか。
あの時問い掛けてきた老人へ彼女は返答できなかった。
当然だ。聖女とは何なのか、聖女を名乗るアンジェラ自身が知らないのだから。
「大丈夫です。貴女は貴女の心を信じれば良いのです」
ホマーシュはそう諭してくるが、アンジェラはそもそも祈る神というのがどこにいるのか見失っていた。
神教官府や神官学校の教える神の存在は、本当に教え通りに人々を導くのだろうか。
――世界で唯一の神は、神教官府のそこにいるのだろうか。もし神が人々を導く存在なのだとしたら、どうしてあの時リュンを死なせてしまったのだろうか。もし神教官府の教えが間違っていた場合、今まで人生をかけて学んできた事は一体なんだったのか。
それは彼女が純粋に信じることを止めた瞬間でもあった。神教官府の教えは神官学校に通う生徒の大部分にとって真実だったのだ。それを疑うことは自身のアイデンティティーを喪失することに等しい。
段々と顔に影を落とし込んでいくアンジェラを見かねたのか、ホマーシュが細いその肩に手を乗せてくる。
「もしかしたら僕は、神を信じていないのかもしれない」
「……何を仰るんですか?」
「だけどね、聖女は信じているつもりなんです。神は遠くにおられ、我々の祈りが届くかどうかわかりません。しかし貴女は届けました。これは私が神を再び信じるきっかけになるでしょう」
神父の言葉に驚きを隠せない。彼は今、神を信じていないと言ったのだ。神父としてはあるまじき言葉だ。
だがそれと同じく聖女を信じると語る。聖女を信じていれば、またも神を信じられると。
きっとホマーシュという神父は複雑な心をその服の下に隠しているのだろうと、アンジェラは密かに同情する。時々何を考えているかわからない神父だが、きっと彼は自分を支えてくれるだろう――
「アンジェラさん、リュンを死なせてしまったのは自分の所為だとお思いですか?」
「……事実、そうですから。私が、リュンを……だから、もう、あの孤児院には行けないんです。テースにも悪い事をしたかしら……けど、私は」
「テースさんとはお友達の方ですか。しかし、あのままではリュンという少年は一生苦しんで生きていくことになったでしょう。それでも良いというのですか」
「……生きてさえ、いれば……きっと幸せはあったんじゃないかしら」
「逆に無かったかもしれない。未来は誰にも分かりません――神以外には。貴女はあの家族の消滅と、リュンの幸せを願いました。神はリュンの未来を覗き、あの場で召されることこそ幸せだと判断したのでしょう」
「わたしが……、リュンの幸せを?」
「だからこそリュンのみ、綺麗に、静かに眠りに就いたのです。他の人間は天罰のように、しかしリュンだけはまるで選ばれし者のように。違いますか?」
「……わかりません。そうだったかもしれませんし」
「アンジェラさん、貴女はとてもお優しい。だが、それは時に枷として絡み付き、貴女の聡明な判断力を鈍らせます。もし本当にリュンを死なせてしまったことを悲しむならば、今行うべきは自分の祈りを正しく神へと届けることです」
諭すような声とともに、神父は微笑む。
いつもと変わらぬその笑みはアンジェラに幾ばくかの安らぎを与えた。神を信じぬ神父が彼女に神を信じて自分の祈りを届けろという不思議な矛盾を、アンジェラはどうしても疑問に思わなかった。むしろなぜか、するりと脳内に滑り込んで納得してしまう力がある。
「私はあの時、自分を見失っていました」
誰もリュンを助けてくれず、助ける術のない非力な自分を嘆き、友人まで傷つけた。そんな自分の願いをどうして神は受け入れたのか分からない。理解できない。
「見失って、その後苦悩したのでしょう」
「しました。けど、そんなの当然です! 私は……!」
「その苦悩を、神は見抜いておられた。最も神の下僕として相応しい貴女が悩んでいる姿を、気にかけたのです」
少しだけ乱れたアンジェラの髪を、ホマーシュはそっと撫でて直す。
「だからこそ貴女は選ばれた」
そして、偽善的な笑みを浮かべた。
その笑みを、アンジェラは見抜けなかった。