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死神少女  作者: 平乃ひら
Sirben
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103.純粋な人達5

 ベルンホルト・ベックのここ最近の日常は実に平和で慎ましいものだった。

 数日に一度のみ個人経営の塾に通い子供達に学業を教える以外は、特に何もしない日が続いた。一生懸命に働かずとも一生分の蓄えがあるので、決して無駄遣いせずに大人しく生活していれば特に問題もなく老後も迎えられる予定なのである。自ら事を荒立てることもせず、近所とも疎遠になることのない、まさに第一線を引退したような生活振りを通している。今日もまた、大人しく静かに一日を過ごすことを切に祈ることで、始まりの鐘を鳴らす。

 鐘は重要だった。このケープ市が神官達の行進によって始まりを告げるのならば、ベルンホルトもまた自身の中に鐘を鳴らすことによって始まる。もはや今の生活に必要不可欠な程となっていた。


「ベックさん」


 そんな静かな日常にもやはりちょっとした刺激があった。彼の面倒をよく見に来てくれる女性がおり、自分にとっては孫同然の少女だ。美しく黒い髪を肩まで伸ばした彼女は、今年で十四になるだろうか。


「今日も勉強、教えてください」

「そろそろ、教えられることはなくなるだろう」

「まだまだです。私はまだ未熟なんですよ。もっと色々知りたいの」


 太陽のような笑顔をする少女は、しかし決して太陽に恵まれた生活を送ってきた訳ではなかった。ケープ市は他のところに比べて比較的貧困の差は小さいといわれているが、決して無いわけではない。数が少ないというだけで、結局のところ貧困に喘ぐ集団は影にいる。彼女の家庭もまたその一つであり、ろくに学校も行かせられない彼女へ学問を教えるようになってから、一体どれだけ経ったことだろうか。


「そのペン、そろそろ限界か」


 勉強に役立つように贈ったペンは、もう使い込まれて汚れも目立つ。ペン先も曲がり、まともに文字も書けないだろう。しかし彼女は首を振る。これも分かっていることだったが、二人の間だけで通じる儀式のように口からこぼれ落ちる言葉だった。


「まだまだ使えます。これは大切なものなんです。だから駄目ですよ」


 妙に強情なところがあるのもまたこの娘らしく、ベルンホルトは苦笑した。彼女のこういった強引なところは実に面白いが、また手に負えない。


「駄目ということはない。それはそれで大切にとっておけばいい。新しいのを愛でるのも大切なことだ」

「それはそうですけど……」

「君がそれでいいというのなら、これ以上口喧しくしても仕方ないな。さて、今日は何を教えようか」

「あ、それですけど、実はここがちょっとわからなくて」


 少女の声はとても優しく耳を包むようで、年甲斐もなく羽のような音色に楽しくなりながら、今日も教科書通りの授業を始める。教えるのは何でもよかった。経済学だろうと歴史学だろうと数学だろうと、彼女が貪欲に知識を得ようとすれば、それに答えられるだけの蓄えが彼にはあった。

 しかし蓄えはいつか底をつく。その時、彼女はいつ自分の元を離れるだろう。離れて然るべきなのだが、その時は寂しいと感じるだろうか。たった二年程でも、まるで遠い昔から教えていた我が子のように思えてしまうものなのだろうか。その時が恐ろしいと彼は思っている。


「でも、ベックさんって教え方上手って言われてません? どっかで先生やってました?」

「先生など……やったことないさ。とても教えられるほど立派な人間じゃあなかったから」


 彼女は首を傾げながら、すぐさま浮かんだのだろう疑問をベルンホルトへと投げかける。


「そうですか? ベックさんって昔から子供に教えていたイメージが強いです」

「それは光栄だ」


 心にもないことを口に出してしまったと、顔には一切出さずに胸の奥だけで呟いた。――自分が子供に教えることを光栄だと? 口に出したということは、つまりそんな愚かなことを一瞬でも思ってしまったということか。


「せめてもの罪滅ぼしだよ」

「え? なにがです?」

「子供に学を授けるというのは、だ。未来ある子供の将来は奪うべきではない。守るべき、そして送り出すべきものだ。私はもう将来に希望を持てないが、しかし君達はまだ持てる。君達には先がある。だから、私はせめてその糧となるべく、こうして学を授けているのだ」

「そんなぁ、ベックさんもまだまだお若いですよ」

「いいや――私はもう、老いた。それを実感してしまったのだ。これ以上世の中に関わっても、ただただ害にしかならない程度には、自分を悟っている」


 右手に持つ万年筆の先が僅かに音を立てた。少々強くペンを圧してしまったのだ。これ以上強く圧せば先が歪んでしまうことだろう。

 相も変わらず少女は不思議そうな顔をしていたが、自分には到底理解できないことなのだろうという結論に至ったのか、すぐさま話題を変えてきた。頭の切り替え一つとっても、自分は老いたという実感を得る。


「そうそう、最近すごい人と出会ったんです!」

「ほう、どこかの有名人でも来たのかね。それとも政治家か誰かか」

「あ、違うんです。この町出身なんですけど、すごく聖女様っぽいっていうか、最近話題の人なんですよ」

「聖女?」


 ベルンホルトの顔が僅かにだか引き攣った。


「まさかセーラという女性ではないだろうな」

「セーラ様? あ、違います。あの人も確かに聖女様っぽいけど、最近話題の人はですねぇ、私と大して年の差がないんですよ!」

「……まさか、いや、そんなことはないか」


 ゆっくりと首を振る。この町には色々と噂もあり、隠さねばならない事実もあった。ケープ市に長年住む者ならば、その影の部分を薄々と感じ取ってる人間がいることだろう。

 だからこそ『まさか』と呟くのだ。もしかしたら目の前の少女から闇の部分がついぞ飛び出すかもしれない恐怖がベルンホルトを包み込む。


「市長の娘さん、知ってますか?」


 予想外の言葉に、ベルンホルトはこっそりと安堵の息を吐く。いきなり『彼女』の話題にならなくて本当に良かったと心からほっとしたのだ。

 市長といえばトルベン・アデナウアーという男を思い出す。昔はひよっこというイメージが強かった若造も、今やケープ市長という頂点に立つ男へと成長していた。そんな彼にはアンジェラという敬虔な娘がいるというのは意外と有名な話である。才女と名高き少女の話題を出してきたということは、つまり――


「聖女様っていうのは、そのアンジェラ様なんです!」

「……何故、聖女と呼ばれているのかね?」

「それがすごいんです。奇跡を起こせるんですよ」

「奇跡?」


 そんなものは起こせんよ、とのど元まで出掛かったその言葉を飲み込んだ。少女の語る奇跡というのが気になったからだ。


「聖女様の願いが神様に届くんです。……っていう、もっぱらの噂なんですけどね。でも一度お会いしたことあるんですけど、本当にお優しい方でした。私もあんな方になってみたいなぁ」


 遠くを見る少女に苦笑しつつも、今の会話を聞いて良かったのかどうか、ベルンホルトは判断に困っていた。聞かなければただ気にもせずいつも通りの生活を送れたことだろう。

 だが、聞いてしまったものは仕方なく、今の言葉を頭の中で繰り返し再生する。


 ――神に願いが届く?


 そんなことが許されていいわけがない。


「彼女は自分で聖女と名乗っているのか?」

「ん、違います。自分から言ってるわけじゃないけど、みんながそういうんです」

「そうか。――なるほど」


 アンジェラは元々このケープ市でも割と有名な少女だ。容姿と性格、さらには神官学校に通う才女ともなれば人気がでない筈もない。アンジェラ自身が何か企てる気がなくとも、何者かが彼女を利用している可能性がある。


(待て待て、それは悪い癖だ)


 すぐさま陰謀説を疑ってしまうのは良くないことだと、自分自身を諫める。


「今日の授業はこれでお終いだ。明日、またここへ来なさい」

「はい、わかりました」


 少女は素直に頷いた。



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