第八話 『終わりなき連鎖』 2. 頼みごと
一日のカリキュラムを終え、山凌学園高校の校門付近は帰宅部員達の波であふれ返る。
標的を射程圏内にとらえ、夕季はその背中に狙いを定めた。
「光輔」
何気ない様子で光輔が振り返る。
真剣な夕季のまなざしを受け、光輔の表情に緊張の色が浮かび上がった。
「……何」
「……」
夕季はじっと光輔を見つめ、やがて重々しいその口を開いた。
「メックの人が、バーベキューやるから来いって」
「……」
「……」
見つめ合う二人の時が静止する。
しばし考えた後、光輔が答えた。
「……いいよ」それから、ほっとしたように笑った。「おまえも行くんだったら」
「あたしは……」
口ごもる夕季に光輔がたたみかける。
「行くんだろ? 俺一人だと行きにくいけど、おまえが一緒ならいいよ。夕季と一緒に行くって言っといて」
「……」
「でさ、俺も頼みがあるんだけど……」
夕季が光輔の顔を凝視する。
「……いや、睨まなくても」
「……睨んでないけど」
柊桔平は幹部のみが着ることを許されたスーツをカッチリと着込み、司令部に足を踏み入れた。
その姿を見て、多くの人間達がかしこまった挨拶をする。中には、かつて会議室で桔平を怒鳴りつけた輩も見受けられた。
いつもの場所で足を止めた桔平を、波野しぶきが笑って出迎えた。
「就任おめでとうございます」襟もとの紋章へちらと目をやり、艶やかなウインクを投げかける。「柊副司令殿」
途端に桔平の姿勢が粉々になった。
「いい加減、勘弁してくれって、波野ちゃん。何回同じこと言う気なのさ」
「とりあえず一ヶ月くらいは」
「長! しつこ!」
「挨拶まわりは無事終わりましたか」
「何とかね。結局丸々一週間かかっちまった」
「お疲れ様です」
「マジで疲れたわ。これじゃ、木場達と一緒に謹慎処分くらってた方が、よっぽどマシだっての。嫌がらせもいいとこだ」窮屈そうにネクタイに指を突っ込む。「だいたいガラじゃねえんだよな、こんなの。この金バッジだって、絶対、盗聴器、入ってるって。うっかりセクハラ発言でもしようものなら一発アウトだっての」
「一発アウトですね」
「こんなタイトロープの上じゃ、一瞬たりと気が抜けねえ。何もできねえ。俺は羽をもがれたトンボだ。無力な幸せの赤トンボだ」
「とうがらしですね」
「ああ、とんがらしだ」
「でも、すごい出世ですよ。平社員から一足飛びに副局長ですから」
持ち込みのミニポットからハーブ・ティーを注ぎ、桔平へ差し出す。
「あ、サンキュ。その前に一足飛びに三階級降格してるんだけどねえ……」ズズズ、とすする。「あれ、無糖?」
「はい」
「駄目だろ。これじゃ本来のうまみが引き出せてねえ」
「すみません」
しぶきからスティックシュガーを二本受け取り、居心地悪そうに周囲を見回した。
「それまでゴミみたいな目で俺のこと見てやがった奴らが、手のひら返したようにペコペコしだすんだもんな。気色悪いったらねえよ。あ、もう一本、もらえる?」
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
「仕方ありませんよ」すだれのような前髪を、気持ちよさげにさらさらと揺らす。「実質、本局のナンバー・スリーなんですから。本来ならば、私だってこんな口きけないところです」
「だから勘弁してって。もともと波野ちゃんの方が俺より立場、上だったじゃんか」
「そうでしたっけ?」
しぶきがおもしろそうに笑った。
「そうでしたってばよ。あれ? 髪型変わった? なんか、すだれみたい。さらさらしてて」
「はい」
「なんて言うの? それ」
「さらさらすだれ頭です」
「あ、そのままなんだ……」
「恐縮です」
「似合ってるわ。なんか、目とか鼻とかブサブサ刺さりそうで、いい感じだわ」
「ありがとうございます。柊さんのは?」
「ん? ボサボサもっさりヘアー」
「そのままですね」
「逆にね」
「逆にですか。鼻毛もセットで」
「こいつはオプション……」ぶちぶちと抜き始めた。「ぬあっ!」
表情も変えずにゴミ箱を差し出すしぶき。
「あ、うん。……。でもよ、こんなの、任命でもなきゃ絶対ありえねえもんな」
「大抜擢ですからね。それだけ新局長に信頼されているってことですよ」
「どうだかな。まあ、メックの隊長も兼任って条件付けといたから、思うようにはさせないけどよ。だが、それと引き換えに、俺は冗談の一つも言えねえ、遊び心のかけらもねえ、つまらねえ人間になっちまった。こんな重責を担っちまった以上、俺には笑うことすら許されねえ。もう二度と平穏は望まねえ。そう心に誓った。過ぎた時間は戻らねえ。下品な冗談を言って、ゲラゲラ笑ってた日々が遠い昔のようだ」
「結局最初の一日しかもちませんでしたね」
「うん」ズズズズズー! と一気飲み。「あのさ、実は俺、政府から派遣されたスパイだって知ってた?」
「奇遇ですね。私もスパイなんですよ」
「マジ? じゃ、情報交換とかできちゃうじゃん。メアド教えて」
「それは機密事項なので」
「マジかよ。かてえな。今日何色?」
「黒です」
「黒ね」
「はい」
「ま、小うるさい俺を、ちょろちょろ動き回らせないための意図が丸見えなんだけどな。丸見えなのはパンツだけにしてくれってえの。俺的には白か縞々が鉄板だがな」しぶきのチョコレートをつまみ食いする。「あれ? うまいね、これ」
「新発売です」いたずらっぽく笑った。「柊さんと同じですね」
「あいたたた……」
並木道を抜け、多くの人々が行き交う駅前通りを、光輔と夕季は不自然な距離を保ちつつ歩いていた。
二人がともに下校するのは初めてのことだった。
何となく落ち着きのない様子の夕季が気にかかる光輔。
「どしたの?」
駅周辺にはさまざまな飲食店があり、それらをきょろきょろと見回し、そわそわしている様子だった。
「腹減ってんの?」
「……別に」
しっぽのような後ろ髪がうろうろと揺れる。
突然ピンときたように光輔が口火を切った。
「夕季、そこのロールケーキ屋さん寄ってこうよ。おばちゃんのお店。前に篠原達と行ったことあるんだけどさ、屋台だけど結構うまいんだって、マジで。俺、今日、おごるからさ」
「……あ、た……」
「いいって、いいって」何か言いたげな夕季を制し、光輔が財布を取り出した。中を確認し、すぐさま絶望的な顔になる。「ありゃあ」
「……」
「わり、夕季、金貸してくれない?」
「……」
「明日返すからさ」
「いい。あたし出すから」
「でも、なんか悪いしな」
じろりと睨みつける夕季。
「……んじゃ、お言葉に甘えて。ごちそうさん」
「何にするの」
「俺、チョコバナナ」
夕季が財布を手に店の前へ立つ。
スーパーマーケットの店先に構えた、側面をひさしのように跳ね上げたワンボックスカーの中に、年配の女性店主の姿が見てとれた。
「チョコバナナ二つ……」
「おまえ、ストロベリーにしとけば」
振り返り、また夕季が光輔をじろりと見やる。
光輔が卑屈な笑みを浮かべた。
「あ、き……、篠原がヤバイくらいうまいって言ってたから」
「……ん」
「ソ連の新兵器くらいうまいって」
「……」
「は……」
「どういう意味」
「なあ、わかんないよなあ!」
「……」
「あ、はは……」
夕季が苺を好きなことを、光輔は知っていた。
「チョコバナナとストロベリーください」
ふくよかで人なつこい感じの店主が満面の笑顔で出迎えた。
「はい、ありがとねえ〜、チョコバナナとストロベリーねえ」
ケーキを手に、店の前のベンチに並んで座る二人。時間が早いため、まだ客足はまばらだった。
「!」
一口食した直後、夕季が眉間にしわを寄せる。すさまじい形相でロールケーキを睨みつけた。
「な、うまいだろ?」
光輔が楽しそうに笑った。
キッと振り返り、夕季が鋭い眼光で光輔を撃ち抜く。
「……。睨まなくてもいいじゃん……」
「……。睨んでない……」
「お嬢ちゃんのお口には合わなかった?」
優しげな口調に振り返る夕季。
屋台の中から丸顔のおばちゃんが、穏やかな表情で二人に笑いかけていた。
途端に夕季が赤面する。
「そんなことないです! おいしいです。すごく……」
「そう。よかったらまた来てちょうだいね」
「あ、はい……」
「はい、これサービス」
店主がつまようじに刺した小さなメロンを二人に差し出した。
どぎまぎしながら、夕季がそれを受け取る。
「あ、す、すみません……」
「お嬢ちゃんのお口だって」
ギッと振り返る夕季。激しい憎悪を光輔に叩きつけた。
「……あ、やっぱり睨んでるよね。思いっきり」
「……」
「否定しねえし……」
光輔の声も右から左、夕季がもくもくとロールケーキを口へ運ぶ。表情は乏しかったがその味が気に入った様子だった。
夕季と別れ、人が流れ始めた駅の待合室で、光輔が大きく伸びをする。
「そうだ」ふいに何ごとかを思い出し、財布の中身を確認してから立ち上がった。「定期買っとこ」