第八話 『終わりなき連鎖』 1. 楔
「霧崎君、またケンカしたらしいよ」
同級生達のうわさ話に、桐嶋楓は耳をそばだてていた。
「暴走族だって。十人以上いたらしいよ。からまれてたカップルもろとも、オール血祭り状態だって」
「何それ。バーサーカーか!」
「バーサーカーって何?」
「きちが……」
「おっとっとだよ!」
「嘘だあ」
「本当だって、羽野町のガード下、血がべっとりだって。見に行ってみる?」
「行かないって」
「前も工業に一人で殴り込みかけて、野球部の部室、血の池地獄にしちゃったって聞いたし」
「ねえ、そんだけヤンチャして、なんでクビになんないの?」
「なんでも、すごいコネがいるから、学校も何も言えないんだって。アッチ系統の人達も手出しできないらしいよ」
「マジで!」
「だって、あんだけ欠席してるのに、進級とかオカシクない?」
「確かに……」
左肩の上で結んだ髪をかすかに揺らし、楓が礼也の方へと視線を向ける。
礼也は机の上で足を組んだまま眠り続けていた。
授業中からずっとその調子だった。もはや注意する教師もいない。
「桐嶋さん」
背後から男子生徒に呼びかけられ、楓が振り返る。柔らかさの消えかけた素顔の表層に、咄嗟に優雅な笑顔を構築した。
生徒会の副会長だった。
「今度の議案の件だけど……」
ガタッ!
物音がしたかと思うや、すぐさま礼也の怒号が響き渡った。
「殺されてえのか!」
一瞬で教室内が静まり返る。
一人の男子生徒が礼也に胸倉をつかまれ、締めあげられていた。
「どうしたの?」
楓の問いかけに、礼也のうわさ話をしていた女生徒達が不安そうな顔を向けた。
「高橋君達がふざけてて、霧崎君の机にぶつかっちゃったみたい」
「悪気があったわけでもないのに」
「ねえ」
楓が副生徒会長へ振り返る。
もともと青白い顔をさらに白く染め、彼は目線で、無理、と訴えかけた。
次に、柔道部の主将をしている同級生へと顔を向ける。
楓と目が合うと、巨漢のその男子生徒は羊のように怯える顔をそむけた。
「ごめん、ごめん、霧崎君、ごめん……」
懸命に謝り続ける相手の姿すら目に映らないように、礼也が振りかぶる。ギリリと歯を食いしばり、そのまま無抵抗のクラスメイトを殴りつけようとした。
「やめなさいよ!」
その刹那、時が静止した。
桐嶋楓の声だった。
ゆっくりと振り返るや、礼也が凄まじい形相で新たな獲物を睨みつける。
その迫力に尻ごみする楓。怯みながらも、周囲の心配そうな視線を受け、何とか気持ちを持ち直した。
「いい加減にしてよ。そんなにケンカがしたいのなら外でやればいいじゃない」
「何だあ!」
すっかり興味を失ってしまった最初の獲物を突き飛ばし、机を押し倒しながら礼也が近づいて来る。
海を真っ二つに割ったようなその危険な空間に、誰一人とどまろうとはしなかった。
楓が息を飲む。
「もっぺん言え。俺の前で言え」
礼也の鼻先が楓のすぐ目の前にあった。
不安そうに見守る多くの視線。そして、そこに混在する無責任な期待に押されるように、楓は無理やり恐怖心を封じ込めようとした。
「……何、よ」
「おい、誰も助けにゃ来ねえぞ。わかってんのか」
「……」
礼也の言うとおり、助け船は望めないだろうことは承知していた。
「気に入らねえ」
「な……」
「女だから殴られねえって計算してやがる。気に入らねえぞ、てめえ。気に入らねえ」
「……そんな」
「一発ですむと思うな。ツラ、ボコボコにしてやる」
「ひ!」
礼也に肩をつかまれ、楓が涙目になる。足もガクガクと震えていた。
その時、楓の中で何かが弾けた。
「……。……殴りたいなら、殴ればいいじゃない! 気がすむまで殴れば!」
「ああ!」
「好きなだけ殴れば! 二度と人を殴る気が起きなくなるくらい。いっそ殴るのが嫌になるまで殴れば!」
唇を震わせ、礼也から目をそらさずに、楓が覚悟を決めた顔をぐっと突き出した。
「……。あんたなんか、いなくなればいいのに……」
「!」
ピクリと眉をうごめかす礼也。
楓を睨みつけ、それから何も言わずに礼也は教室から出て行った。
固唾を飲んで見守っていた教室中に一斉に吐息がもれる。
緊張の糸が途切れ、みなほっとしたように胸を撫で下ろした。
「やっぱり女の子は殴らなかったか」真っ先に口を開いたのは、柔道部の猛者だった。「ヘタに俺が入るとややこしくなると思って……」
誰も彼の言葉には耳を傾けない。
同級生達が楓を取り囲むように群がって来た。
「さすがだね、桐嶋さん。やっぱ頼れる生徒会長……」
楓の肩に手をかけ、その言葉が途切れた。
楓の全身は震え続けていた。
悪寒を訴える病人のように、雪原に取り残された遭難者のように、その震えがおさまることはなかった。