第七話 『伝えられない言葉』 3. 心配事
花瓶を抱えるようにして、古閑夕季は病室のハンガードアを開けた。
ベッドの上で半身の体勢になり忍が出迎える。夕季の顔を見てにこっと笑った。
忍と目が合い、夕季も嬉しそうに笑う。
他人には滅多に見せない表情だった。
夕季の置いたかすみ草を眺める忍。目を細め、穏やかな笑みをたたえた。
「だいぶよくなったね」
夕季の声に心を引き戻され、忍が顔を向けた。
「うん。先生も驚いてたよ。私くらいの成人女性では、考えられないほどの回復力だってさ」
「あたしは納得できるけど」
「人のこと言えないでしょ。やっぱり、血筋なのかな」
眉を寄せ上げるようにして、夕季が額のバンソウコウを見上げた。
「光ちゃんのおかげだね。治ったらお礼言わなくちゃ」
途端に夕季の表情が曇り出す。
「……」
「どうしたの」
「あたし、あいつにちゃんとお礼言ってない」
「会ってないんでしょ。学校に行ったら言えばいいじゃない」
「……」
「駄目だよ、それくらい言えなくちゃ。あんたの性格は知っているけど、光ちゃん、自分が死ぬのを覚悟してまで私達のために戦ってくれたんだからね」
「そうじゃない……」
口ごもる夕季。
「何? まだ何かあるの?」
「……。あいつをひっぱたいた」
「……。なんで?」
「お姉ちゃんがケガしたの、あいつのせいにして。三発か、四発くらい……」不安げに眉を寄せる。「……もっと殴ったかもしれない」
ぽかんと口を開けたままの忍。あきれたように嘆息した。
「バカたれ。何やってんの、もう。早く謝ってきちゃいな」
「一応謝ったんだけど、たぶん。……でもバタバタしてたから、あんまり記憶がない」
「気まずいのはわかるけど、もう一回ちゃんと謝っておいで。でないと二度と光ちゃんの前に顔出せなくなるよ」
「うん。わかってる……」
忍がため息をつく。諦めたように笑った。
「ほんとに、ぶきっちょな子」
その様子を見ながら、夕季はおそるおそるそれを口にした。
「……お姉ちゃん、エス、辞められないの?」
「……」
淋しそうに忍が目を伏せた。
メガルの訓練場付近で呼び止められ、桔平が振り返る。
その声の主を確認し、目を細めてみせた。
「おう、尾藤か……」
「はい」
その顔一面に笑みをたたえ、尾藤秀作は桔平と向かい合った。
年齢も背格好も桔平とほぼ同じだが、髪は短く綺麗に整えられていた。柔和な表情の奥で、鋭いまなざしが光りを放つ。
「もう呼び捨てにはできねえな。俺の上司なんだからな」
「やめてくださいよ、柊さん。誰もそんなこと思ってやしませんよ。何よりあなたは、我々の尊敬する木場隊長が、誰よりも信頼を寄せる人なのですから」
「その説明調は勘弁してくれ。ホメ殺しみたいに聞こえるぜ」
「すみません。そんなつもりはないのですが……」
「どうせ殺すんなら、美味い殺しにしてくれ」
「はい?」
エネミー・スイーパーの訓練風景に目をやり、桔平が深く息を吐き出した。
「何とか、うまくごまかしておきましたよ。ごり押し丸出しでしたがね」
「ああ。すまねえな、憎まれ役を押しつけちまって」
「いえ、これも必要なことですから」
そう言い、尾藤も訓練場へ顔を向ける。
「木場隊長が参戦することはわかっていました。あの人はそういう人ですから。だから我々もついてこれた。大沼がその心情に寄り添うのも、当然の結果でしょう」
「あの時おまえが踏み止まらなかったら、エスは空中分解してたはずだ。苦渋の選択ってとこだったろうな」
「……はい」
「んで、案の定、木場は謹慎。おまえさんがその間、すべてをまとめなくちゃならなくなっちまったわけか。とんだ貧乏クジだな」
「はい。とんだ貧乏クジです」迷惑そうに頷く。「隊長代行なんて分不相応ですが、本来の隊長のいない間、せめて隊がばらばらにならないようにするのが私のつとめです。その後のことは何も考えていません」
「案外、そのまま納まっちまうんじゃねえのか?」
「よしてくださいよ。そんな器ではないことは、自分が一番わかっているつもりです」
「……」
「エスはメガルにとって必要な戦力です。足かせだらけのメックだけになれば、また過ちが起きる。あの時と同じ悲劇が……」
「……」
「柊さん」
言葉もなくその背中を眺め続ける桔平に、尾藤が振り返った。
先までの温和な様子とは違った、厳しい表情がそこにはあった。
「私はあなたの存在を軽んじるつもりは、毛頭ありません。あなたは木場隊長同様、ここには必要な人間だ。ですが、もう少しわきまえていただけませんか。今回のことは仕方ありませんが、今後同じようなことがあれば、かばうのにも限界があります」
「ああ……」その冷徹なまなざしを見つめ返し、桔平が眉を寄せた。「そうだな。気をつける」
すると尾藤がふっと笑った。
「本当にしようがない人達ですね。あなたも、木場さんも」
「……」
「ご存知ですよね」
「……何がだ」
桔平に背中を向け、静かに尾藤がそれを切り出す。
「海竜王を無断で乗り回している者を抹殺しろという命令」
「……。まあな」
「にわかには信じがたかった。何故我々に勝利をもたらす、その人物を粛清しなければならないのかと」ゆっくり振り返り、真っ直ぐに桔平を見つめた。「本当だったんですね」
「……」
「噂が一人歩きしています」
再び背を向け、尾藤が続けた。
「何者かに命じられ、木場さんがそれを行使すべき立場にあるものと。或いは、木場さん自身が、そのすべてを掌握する人間であるとも」
「……」
「だとすれば、放ってはおけません。愛する肉親をメガルに奪われ、それに報いようとする心情は十二分に察することができます。しかし、それでは見当違いもはなはだしい。それは我々のすべきことではない。私の望むことではない。あの人は変わってしまった。このままでは、我々は己の身を引き裂かれんばかりの選択を強いられることになりかねません。自分達が死すことよりも、さらに苦渋の選択を……」
振り返る尾藤。苦しそうに顔をゆがめ、桔平にすがるように訴えかけた。
「お願いです、柊さん。あの人を、木場さんを止めてください。あの人の暴走を止められるのはあなただけです。あの人を、救ってやってください……」
「……」
桔平はその顔をまばたきもせずに凝視していた。苦悩に満ちた、その悲痛なまなざしを。