第六話 『抱擁』 9. 抱擁
もやの立ち込めるバス停で、忍は時が来るのをただ待ち続けていた。
じきに始発の時刻となる。
そのバスに乗り、忍はこの場所から遠く離れるつもりだった。
誰と関わることなく、一人でいることを望んだからだ。
もう二度と振り返ることもなくなる、濃霧につつまれた街を見渡す。
閑散とした道路上では、信号機の淡い光だけが何度も切りかわっていた。そこに生き物や、人々の生活の匂いは感じられず、他に誰の姿もない停留所は、そのまま異世界へと己をいざなうのではと思わせた。
後悔はない。ここですべきことは、すべてやりとげた。あとはみなの記憶から自分が消えるのを待つだけなのだ。
淋しさ。
それを口にする資格は自分にはないはずだと、忍は強く感じていた。淋しい想いをさせてしまったのは、むしろ自分の方なのだから。
それでも、心の中にしこりのように残る、白けたもやを否定することはできなかった。
忍が目を伏せた。
己を戒め、責めたてながら。
霧の中から徐々に白い車両の表情が浮き上がる。それは忍の前で音もなく停止し、導くように乗降用の扉を開いた。
顔を上げ、決別のまなざしで忍がステップに足をかけようとした。
その時、何かが袖に触れた。
ささいな力ではあったが、それは忍を引き止めようとしているようだった。
振り返る。
そこには目に涙をため、口もとを固く結んだ、幼い夕季の姿があった。
「夕季」
夕季の視線まで忍が腰を落とす。穏やかに微笑みかけ、諭すようにそれを口にした。
「手を離して。いい子だから」
まばたきもせず、睨みつけるように夕季が忍を見つめ続ける。
「ごめんね、夕季。お姉ちゃん、行かなくちゃいけないの。わかって」
口をへの字に曲げ、懇願するように夕季が激しく首を振った。
小さな手がさらに強く忍の服をつかむ。やがて唇がわなわなと震え出し、ぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。それでも、忍の体をぎゅっとつかんだまま、決して離そうとはしなかった。
「夕季……」
忍の眉が揺れる。
瞳からこぼれ落ちる、封じ込めたはずの感情。夕季を強く抱きしめ、その名を呼び続けた。
「夕季、夕季、夕季……」
ゆるやかにバスの扉が閉まる。そして、音もなくまた霧の中へと消え去っていった。
忍はいつまでも夕季を抱きしめていた。
この上もなくいとおしい者への想いを、二度と離さないことを心に刻みつけて。
カーテンの隙間から射し込む光の暖かさに、忍は目を覚ました。
己のおかれた状況が理解できず、しばし考えをめぐらせる。
そして、死を覚悟した自分が、今こうしてここにあることにようやく気づいた。
病室のベッドの中、陽の眩しさに目を細める。
生きている証として。
「……」
視線を変えると、ベッドの横で自分に抱きつくように眠っている夕季の顔を確認できた。
疲れきった寝顔。
しかし、苦しみから解放されたその表情は以前よりも安らかに見えた。泣き疲れ、眠ってしまった迷い子のように。
忍が手をさしのべ、夕季の頭を優しく撫でる。壊さないように、つつみ込むように、ひたすらいとおしげにそれを繰り返した。
目を覚ます夕季。
ゆっくりと目線でたどっていくと、穏やかなまなざしで自分を見つめている忍の顔を認めた。
すぐに口もとを震わせる。
「……お姉ちゃん……」
夕季を眺め、力なく忍が微笑んだ。
夕季の表情がとけていく。
やがてじわりと瞳を揺らすと、誰はばかることなくその肢体に抱きついていった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉……」
見守るように、静かではあるが嬉しそうに忍が頷いた。
込み上げる想いに押され、忘れ去られた感情が頬を伝いこぼれ落ちる。
忍は何も言わずに夕季の頭を撫で続けた。
いとおしそうに、いつまでも、いつまでも。
了
読んでいただきまして、ありがとうございます。だらだらと地味に続けていくつもりです。よろしかったら、これからもまたのぞいてやって下さい。謝々。