第六話 『抱擁』 8. 決着
薄闇の中、今まさに光輔は異形の悪意とあいまみえんとしていた。
確認しうる範囲では、アスモデウスの前回のダメージは回復しておらず、竜も羊も蛇も、そして忌々しい盾となる左腕も消滅したままである。
根拠はないが、これが最後であるような気がしていた。
結果はどうであれ、これで最後だと。
光輔が心を決め、頷く。
「行こう、りょうちゃん」
覚悟とともに、海竜王の内部がさらに光を増した。
はるか頭上から振り下ろされる長槍を、紙一重で海竜王がかわす。
慎重にタイミングを見計らうも、光輔の繰り出す攻撃は、すべてアスモデウスの右手の槍によってはね返されるだけだった。
すそからの圧縮空気の噴出で、滑るように敵の追撃をかいくぐる。
相手のリーチの長さに苦戦し、光輔はなかなか懐へもぐり込めずにいた。
ハッチ裏面に映し出されるアスモデウスと、期せずして視線軸が合致した。
その狂猛なまなざしは、際限なく押し寄せる波のように光輔を圧倒し続ける。
ほんのわずかなためらいが光輔の心にすきを作ることとなった。
追いつめられ逃げ込んだ場所に迫り来る、すべてを凌駕する雷撃。
キラリと光る尖端に、己の姿が映りこむのを光輔は確認した。
「くそ!」
アスモデウスを睨みつけ、コクピットの中で歯がみする光輔。
両腕の爪を交差させ、大地をも砕かんとする未曾有の一撃に備えた。
その刹那。
光輔の視界を白煙と噴霧が覆いつくす。
メック・トルーパーの放った滑腔砲の一斉砲撃が、アスモデウスに襲いかかったのだ。
振り返る海竜王。
すると今度は、背後から怒涛のごとく押し出された大出力の光源が、辺り一面を白昼の世界へと変貌させた。
エネミー・スイーパーによるプラズマ砲弾の乱れ撃ちだった。
「ロケット弾の準備はいいかー!」
「おうよ!」
鳳に顔を向ける駒田。
「よし、駒田、いけっ!」
「おうよー!」
駒田の合図で、何百発もの特殊ロケット弾が、続けざまにアスモデウスの外殻に吸い込まれていく。弾頭に仕込まれた強酸性の溶解液は、その外皮を這うように広がるや化学反応を起こし、周辺を瞬く間に真っ白に染め上げた。
狂乱の絶叫もろとも、煙幕にまかれるように、海竜王の姿を見失うアスモデウス。
ギョロギョロと周囲を見渡し、振り返った白もやの中にやがて一対の光を認めた。
直後。
分厚い白煙の壁を割って現れた漆黒の破壊者の強襲に、アスモデウスの巨体が弾け飛ぶ。
海竜王の放った浴びせ蹴りが、鋼をも砕き折る硬質の踵が、仮面の傷口に楔となってえぐり込まれたのだ。
ギギギギギ……
歯車のきしんだようなノイズを撒き散らし、ゆるやかにアスモデウスが立ち上がる。
その間合いに、海竜王の艶めく体躯があった。
腹部の傷目がけて射出した左腕の爪が、振り払おうとした槍の先端にからみつく。
一瞬の交錯のさなかに、再び海竜王がアスモデウスの視界から消えた。
爪を撃ち放つと同時に、光輔は相手の頭上高く跳び上がっていたのである。
大きく振りかぶり、他方の腕で右側の牛の首を貫く海竜王。
グググ、ゲゲ、グエエエエーッ!
それはこの世のどこにも存在しない、生物でも機械でもない生命体の悲鳴だった。
苦しそうに白目を剥き、牛首の口内から巨大なナメクジのような舌を飛び出させる。
間髪おかずその肩に乗り移り、海竜王はさらに爪をえぐり込んでいった。
ググ、グ、グゲゲ、エエエェ……
舌を出したままぐったりする牛の首。
時を同じくして、光輔を振り払おうと躍起になっていた槍が、右肩から腐り落ちていった。
「やった!」目を輝かせ躍り上がる南沢。
そのすぐそばで木場が自分の部下達に介抱されていた。
鳳が振り返る。
「よし、手をゆるめるな。次の攻撃準備だ!」
「了解」
「エスは引き続き両翼から撹乱を続けろ」
『了解!』
空中で一回転し、アスモデウスの背後に降り立つ海竜王。
キラリ輝きを放つその両眼が、光輔のそれとシンクロした。
うっすらと空が白け始める。
決着の時がせまっていた。
巨大な黒い羽をはためかせ、狩猟者を吹き飛ばそうともがく猛獣。
しかし生命としての終焉が確実に近づいた今となっては、もはや相手を脅かすほどの力は持ち合わせなかった。
「おまえなんかに、おまえみたいな奴に」感圧式の操縦桿を握りしめ、光輔が咆哮する。「俺達が負けるものかあああーっ!」
跳躍する海竜王。
悪あがきのごとき炎を苦もなくかいくぐり、何も守る術がなくなったアスモデウスの仮面の額に爪を突き刺した。正面から抱きつくように左手で後頭部を押さえ、両足をガッチリと首にからめる。それから突き立てた右腕を真っ直ぐに伸ばし、下腕に左手を添えた。
クワッと広がる仮面の口。業火を吐き出す前の予備動作だった。
海竜王の黒い外殻が艶やかに波打ち始める。
「てええええぇーいっ!」
咆哮、そして一閃。
コクピット内で光輔が激情をほとばしらせるや、海竜王は仰け反るようなその体勢から、貫けとばかりに銀色の長爪を射出した。
傷口から後頭部に銀色の爪が突き抜けていく。
それによって仮面が粉々に砕け散るとともに、内側から押し出されるエネルギーの激しいハレーションが辺り一面を白く照らした。
一瞬の沈黙。
その直後、断末魔の悲鳴をあげることもなく、アスモデウスは背中から倒れ込んでいった。
そして、微塵にも動く気配を見せず、じわじわと巨体のすべてを大地に埋め始めたのである。
おとずれる静粛。
一拍置き、湧き立つ歓喜の波は、その反動の大きさを物語っていた。
「やった! 勝ったぞ!」
「俺達の勝ちだ!」
「勝った、勝った!」
メック・トルーパーもエネミー・スイーパーもない。
みな高らかに笑い、勝利の抱擁を交わしていた。
「これで家に帰れるぞ!」
「おまえはそればかりだな」
その様子を木場は表情もなく眺め続けていた。
全力を使い果たしたかのように立ちつくす、海竜王をゆるやかに見上げる。
「わかるか木場」
木場が振り返る。
そこには穏やかな鳳の笑顔があった。
「どんなところにだって希望はある。おまえがそれを拒まなければな」
「……」
手術室から看護士が走り寄る。
夕季にさしせまった顔を向けた。
「ご家族の方はいらっしゃいますか?」
「……はい」
「輸血用の血液が足りません。誰か血液を提供していただける方はいらっしゃいませんか。連日の騒動で在庫が充分に確保できない上、補充用の車が遠方で足止めされているようで……」
「私から採ってください」ずり落ちた包帯をむしり取り、夕季が懸命に訴えかける。「全部採ってもいいから……」
「そんな体で採血したら本当に死んでしまうぞ」
野太い声に夕季が振り返る。
山のような大男が、ぬうっと姿を現した。
木場だった。
「木場……」
口を結び、戸惑うように見続ける夕季にちらりと目をやり、木場は傷だらけの体を看護士の前に差し出した。
「私の血を使ってください。彼女と同じはずです……」
静かな口調で言う。
その目は遥か遠くを見据えていた。