第六話 『抱擁』 4. わかりやすい野郎
再度光輔達に念を押し、桔平は待合室を後にした。
桔平が去ってからも、光輔と夕季はその場から動けずにいた。
何もできない現実に打ちひしがれたままで。
薄暗い照明の下、やがて夕季が立ち上がる。その瞳に決意を宿して。
ただならぬ様子の夕季に、光輔は何ごとかを感じ取ったようだった。
「夕季……」
「あたし、行く」ぼそりとそう告げた。「竜王じゃないとあいつは倒せない」
「そんな体じゃ無理だよ」
「でもあたしが行かなくちゃ、お姉ちゃんが……」
ふらついて崩れ落ちる夕季を光輔が受け止める。その体は信じられないほど細く、軽かった。
十五歳の少女が気力と精神力だけで強大な相手に立ち向かい続けていたことを、光輔は改めて思い知った。
眉間に皺を寄せ、睨みつけるその瞳にもはや光はない。
額に巻かれた包帯の上で、血の色がじわりと広がった。
「無理だよ。これじゃ、わざわざ死にに行くようなもんだ」
「そんなのどうだっていい、はなして……」
「駄目だ」
振りほどこうとする夕季の腕を、両側からつかんではなさない光輔。
夕季が泣きそうな顔を向けた。
「じゃあ、どうするの!」
「俺が行くよ」
その言葉の意味が理解できずに夕季が目を丸くする。
「光、輔……」ほうけたように呟いた。
「俺が行くから、おまえはしぃちゃんのそばにいてくれよ」
夕季の心が揺れる。が、すぐに気を持ち直した。
「駄目だ。そんなことしたら、光輔が殺される……」
「いいよ。それでしぃちゃんが助かるのなら」
「……」
光輔の瞳は真っ直ぐで、青空のように澄んでいた。そこに迷いはない。
「もう嫌なんだよ。大切な人達が目の前で傷ついていくのに、何もできないで見ているだけなんて。そんなの、嫌だ」
「だからって、光輔が……」
「きっと姉さんもりょうちゃんも同じことをしたと思う。そんなふうに助けられて自分だけ当たり前のように生き延びてきたくせに、もし俺に同じことができなかったら、そんなんじゃ、これから二人に顔向けできない」
夕季が目を細める。白くぼやける視界の中、光輔を直視できずに顔を伏せた。
おとなしくなった夕季を、光輔が静かに解放する。
すると力が抜けたように、夕季がその場にぺたんと座り込んだ。
「それに必ず死ぬとは限らないだろ」夕季を心配させまいと明るく振る舞ってみせる。「何とかうまくやってみるよ」
気遣うように光輔が続けた。
「俺、頭悪いから、桔平さんが言ってたことよくわからないけど、もしここにいるのがおまえやしぃちゃんじゃなかったとしても、助けなくちゃいけないと思うんだ。おまえみたいにすごくないからさ、俺じゃ世界平和なんて絶対無理だけど。でも、自分の手が届くところにいる人間くらいは、やっぱり助けたい。死んでほしくない。もちろん、しぃちゃんだから、もっとそう思うんだろうけどさ」
「……」
「おまえ、そういうの、今まで全部一人で背負ってきたんだよな。泣きとか入れないでさ。それってすごいことだと思う。俺には真似できないよ。ずっとそういうのから、逃げてきてたからさ。どうせ俺なんかじゃ、たいしたことできないのかもしれない。でも、少しでも何かの役に立ちたいって思ったんだ。少しでも、おまえやしぃちゃんみたいに」
夕季からの反応がない。それを光輔は、うまく伝えられない己自身のせいだと感じていた。
「うまく言えないんだけどさ……」後頭部をぽりぽりとかく。「おまえやしぃちゃんが可哀想だとか、そんなんじゃないから、勘違いするなよな。俺が勝手にそうするだけなんだから。おまえが気にすることなんて、何もないからさ」
「……」
「……」
あきらめたように光輔が背中を向ける。
その時、歩き始めた光輔を、夕季の囁くような声が引き止めた。
「……わからない。どうすればいいのか、わからない……」
足を止め、ゆっくりと振り返る光輔。
拳を震わせ、顔を上げることもなく夕季が唇を噛みしめた。
「……光輔、教えて……」
「だから、俺がやるって、言ってるじゃんか」
はっ、となる夕季。
顔を向ける夕季に安心したように笑いかけ、光輔は朗らかな調子でつないでいった。
「おまえってさ、ほんと、たまには人に頼れよな。そりゃ、俺なんかじゃ頼りないってことわかってるけどさ。でも」再び背中を向け、穏やかに、静かに、そして真っ直ぐにそこへと導いていった。「しぃちゃんは俺が守るから。絶対」
「!」
まばたきも忘れ、夕季が光輔に注目する。
それが伝わったのかどうかは定かではなかったが、光輔は照れくさそうに後頭部をぽりぽりとかいてみせた。
「しぃちゃんもここで一生懸命戦ってる。きっと俺達よりも、しぃちゃんの方がもっと苦しくてつらいはずだよ。だから、そばにいてあげる人が必要だと思うんだ。そんなの、おまえしかいないだろ。目が覚めた時、おまえが近くにいれば、きっと安心するだろうしさ」
「……光輔」
「はは。うまくいったら、またなんかおごってくれよな」
背中越しに小さく手を振る光輔。
夕季はゆらりと立ち上がると、いつまでもその姿を見守り続けた。
「ああ、そうだ」吹きすさぶ豪雨の中、病院の外階段で携帯電話を手にする桔平の姿があった。「ああ、そうしてくれ。頼む」
叩きつける雨を見上げ、しかめ面をする。
「ああ。悪いがそっちでサポートしてやってくれ。俺にもまだやらなきゃならんことがある。あんた達はエスを押さえてくれればいい。奴らがアスモデウスに向かうのなら、それもアリだ。んあ?……。何言ってんだ? 二等兵に向かって」
苦笑い。
病院の入り口に目をやる。一つの影がロビーから出て来るところだった。
「やめてくれって、こっちがあんたには頭が上がらねえよ。必ず埋め合わせはするから。……ああ。夕季のことが心配だ。頼むぞ。……。ああ、わかった、八時にいつもの店だな。待ってるぜ」にやりとする。「鳳さん」
入り口の人影から目を離さずに鳳との通話を終える。
ふん、と鼻から息をもらした。
「本当にわかりやすい野郎だな」それをまるでわかっていたかのように、桔平はおもしろそうに笑った。「ったく、少しは俺のこと信用しやがれ、クソガキども……」