第六話 『抱擁』 2. 穂村ひかる
穂村ひかるは廃墟と化したメガル内部を走り抜けていた。
信じられない光景だった。
これがほんの数十分ほど前まで多くの人々が行き交い、闊達な意見が飛び交った、最先端の科学の集合体だというのか。
実験室を破壊し飛び出した海竜王は、恐るべき力で建物の内部に瓦礫の山を築いて進み続ける。
その傷跡を見れば破壊力のすさまじさは一目瞭然だった。
十六歳の少女にどうにかできる状況ではない。
それでもひかるは行かなければならなかった。その破壊者の中には、この世でたった一人の肉親が閉じ込められているのだから。不安で押しつぶされそうになり、自分に助けを求め、泣きわめいて。
「ひかる」
ひかるが振り返る。
陵太郎の真剣な面差しがあった。
「りょうちゃん……」少しだけ心に余裕が生まれる。「みんなは?」
「避難した。礼也の奴、まだしぶってやがったが、何とか綾さんが連れていったみたいだ」
「そう」ほっと胸を撫で下ろす。
「さいわいケガ人だけで済んでいるようだ。おまえも早く避難を……」
「それはできないよ」
「ひかる……」
「光ちゃんを助けなくちゃ」
真っ直ぐなひかるのまなざしに言葉を失う陵太郎。すぐに気を取り直して言う。
「俺達が行ってどうこうなることじゃない。周りを見ろ。これが竜王の力だ。もともと俺達が扱えるようなシロモノじゃなかったんだ。あとはメックに任せて……」
「メックに任せていたら光ちゃんまで助からない。メックの目的はこの騒動の鎮圧であって、搭乗者の命までは保証してくれない」
「……」
「光ちゃん、きっと泣いてる。怖くて不安なのに、誰も助けてくれないから。きっと私のことを呼んでるはず。だから行かなくちゃ」
無言でひかるを見つめる陵太郎。ふっと笑った。
「わかった。俺も行く」
「駄目だよ、りょうちゃんは関係ない。りょうちゃんまで危険な目にあう必要はない」
「関係ないものか。光輔は俺達の兄弟でもある。あいつがいなくなれば雅も悲しむ」
「りょうちゃん……」
「それにな、あいつがもし竜王を使いこなせる人間だとすれば、世界中の平和のためにも、あいつの力が必要なんだ」
「……」
「……。いや、そんなことより、あいつの命が先決なわけだけどな……」
「何だか正義の味方みたいだね、りょうちゃん」
「あれ、違ったか?」
ふいをつかれたように、ひかるがぷっと噴き出す。
肩まである髪を揺らし、困ったように眉を寄せた。
「ほんと馬鹿だね、りょうちゃんは」
「そんなことは言われなくてもわかっている。何を今さら」
照れ臭そうなその笑顔をこの上なく好ましく思う。
「まだ若いのにお父さんみたいだよ」
「おまえもおっかさんみたいだぞ。俺より年下のくせに」
ひかるが嬉しそうに笑った。
ひかると陵太郎が物音のする方角を目ざして進んで行く。
不安な気持ちは隠せなかった。
二人とも海竜王の搭乗試験には参加したことがある。その時はただの巨大ロボット程度にしか思わなかった。感応数値も誰のものを見ても似たり寄ったりだった。
しかし光輔だけは違った。
トップレベルのひかるや陵太郎のそれより、五倍近い数値を叩き出したのだ。
それを不安に感じていたのはひかるだけだった。
周囲の大人達は未知なる可能性に飛び上がって喜んだ。そしてその謎を解き明かそうと躍起になる。畏怖すべきものすら手中に取り込もうとする、愚かで利己的な欲望が、今回の事故を引き起こしたのだ。そのすべては光輔に集約していく。光輔一人を危険人物と特定し、人柱とすることで、それまでの行為を正当化するはずなのだ。
これだけの被害が出れば誰か一人の責任ですむことではない。おそらくは光輔の存在すら二の次になっているものと思われた。
否、この期に及んで、光輔を本気で助けようとする人間がいるとは到底思えなかった。
「!」
一人の研究員が通路で倒れていた。かなりの深手を負っているようだった。
「大丈夫ですか!」
陵太郎の呼びかけにうつろなまなざしを向ける。
光輔の搭乗実験をもっとも切望した男だった。
「りょうちゃん、この人を助けてあげて」
ひかるに顔を向ける陵太郎。
ひかるは通路の先を見据えていた。
「この先に光ちゃんがいる。私、行くね」
「おい、ひかる、待て。行くなら俺が……」
「駄目。光ちゃん、私を呼んでいる」振り返り、にっこり笑った。「大丈夫。必ず助けてみせるから……」
緊張の面持ちで通路を駆け抜けるひかる。
ロビーの向こうから海竜王のシルエットが浮かび上がっていた。
そこへ足を踏み入れ、ひかるが絶句する。メガルの中枢とも言えるコンピュータ・ルームが、かつての面影すら見当たらないほどに破壊されつくしていた。
それをひかるは怒りだと感じた。
ここにいるべきでない彼らの怒り。
何としてでも、鎮めなければならなかった。
ゴトン!
もの音に目をやる。
その先にいたのは、黒く光り輝く海竜王の姿だった。
怒りに打ち震えるように、全身を激しく波立たせる。
海竜王が振り返る。
その目の光を認め、ようやくひかるは理解した。
それが怒りではなく、哀しみであることを。
怯えていることを。
ひかるは武器を床に落とし、両手を広げ、ゆっくりと海竜王に近づき始めた。
笑みを浮かべ、ひかるが海竜王に語りかけていく。
「ごめんね、あなたも怖かったんだね。まだ小さくて、力をうまくコントロールできない光ちゃんをいきなり乗せられて、どうしていいのかわからなかったんだね」
海竜王の両眼が輝きを放つ。
「私ではあなたの心を開くことはできなかった。あなたのパートナーにはなれなかった。仕方ないね、私に力がなかったんだから。でも、もうあなたの嫌がることはしないから、だから今度だけは許して。お願い、光ちゃんを返して」
海竜王の長く鋭い爪が鈍く光った。
振りかぶり、ひかる目がけて走り出す。
それでもひかるは、その微笑みを絶やすことなく、海竜王の前で両腕を開き続けた。その忌まわしい存在のすべてを受け止め、抱きしめようとするかのように。
「もう怖がらなくていい。私は何もしないから。だから、光ちゃんを……」
一瞬の閃光。
爪がひかるの胸を貫いていた。
「光ちゃんを返して」
海竜王の目から光が消え失せる。そしてピクリとも動かなくなった。
「ありがとう」力なくひかるが笑う。
やがてハッチが開き、泣きべそをかきながら光輔が姿を現した。
「光ちゃん……」
その無事な様を確認するや、ひかるは安心したように瞳を閉ざしていった。
二度と開くことのない、穏やかな瞳を。
*
「それからおまえが心を閉ざしちまったのか、海竜王が拒否し出したのか、ろくな数値がでなくなった」光輔の顔色をうかがうように桔平が言う。「結局メガルはおまえを危険者リストの筆頭にぶち込んで、近づくことすら禁止した。姉さんの事故死で生活の保障をするかわりに、自分達の監視下に置いてな。そんなところで合ってるか?」
「はい……」力なく光輔が頷く。「……たぶん」
鼻で息をつく桔平。
「彼女の意思を継いだのが陵太郎だったわけだが、まわりまわって結局またおまえのところへ戻ってくるとはな。因果だ何だ、理解しがたい何らかの力が働いているとしか思えんな」
気の毒そうに光輔を眺めた。
ふさぎ込む光輔。
そのそばでは夕季がすうすう寝息を立てていた。
ちらと夕季に目をやる桔平。
「普段はクソ生意気だが、寝顔はかわいいもんだな。ガキなんだから、意地ばっか張ってねえで、もっと甘えりゃいいのによ」
ふとやり切れない表情になった。
「もう海竜王には近づかない方がいい。エスはすでにおまえの存在を特定している。今回が決定打になっちまった。あいつらなら本当におまえを殺しかねん」
「……」
「安心しろ。俺がいる限り、奴らの好きにはさせん。おまえも夕季もな。ガキを守るのが立派な大人の使命だ」